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カンボジア人から学んだ「与える」という精神

笹本愛子 笹本愛子


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出典:BMI

これまでの人生で、どれ程の人々に出会ってきたであろうか。育ってきた環境が違うから、好き嫌いは否めないのであるが、そんな前提がありながらも、同じ感情を同じ瞬間に抱くことは、時に強い中毒性を持つ。
 
東南アジア歴はまだ1年足らずであるが、新しい地へ行く度、毎度同じ過ちを繰り返す。どことなく見た目が似ている気がする、千年とか二千年前まで遡ればルーツは同じ、など我々との共通点を絞り出し、数日後には結局全然ちがうじゃねぇか、と相手を責め立てる。そんな茶番を一人脳内で繰り返すこともしばしばあるが、カンボジアでもあの中毒性のあふれた感情を、少なからず味わっている。安ビールをこよなく愛したり、笑いの沸点が中2男子レベルであったり、様々ではあるが、おう、お前もそうか的な瞬間に図らずとも出くわすことが多い。
 
とある日、カンボジア人同僚が、見ず知らずのおっさんバイクタクシードライバーと話し込んでいた。繁華街でたむろしている、明らかに労働意欲低めのそのおっちゃんであったが、しばらく話し込んだ後、彼女は何かを渡していた。何をしてたのか後で聞いた所、ガソリンを入れるお金がなく「どうしようも無いからお金をくれ、お願いだ・・・」と懇願されたそうだ。なんとも心優しき彼女は、僅かばかりのお金を握らせ、見送ったとのこと。

なぜそんなことをしたのか、あのおっちゃんは今またそこでたむろし、くだらない話をしてるぞ。冷淡無情な資本主義国からやってきた異国人である私は、若干説教気味にそんなことを言ってしまったが、彼女は何のためらいもなく、若干断れない感も抱きながら、おっちゃんに手を差し伸べた。
 
兎にも角にも、「もう少し自分のこと考えた方がいいんでないか」と思うぐらい、損得勘定抜きにした真っすぐな人が(幸いにも私の周りには)多い。私も結構な性善説論者であるが、カンボジアの方々の人を信じる精神性は突き抜けている。
 

クリスマスの精神とは、イエス・キリストの生誕を祝うだけでなく、与えることの喜びを味わい、困窮している人を助けるといった意味合いがあるようだ。アメリカという地で少なからず時間を過ごした者として、この12月の彼らの文化をほとんど理解できていないのは、大きな失態であるが、我が国のコマーシャライズされたこのイベントからも、その精神はわずかばかり理解していつもりである。

 

So this is Christmas.

And what have you done.
 

ラジオ越しのジョン・レノンが、絶えず私たちに問うてくる季節となった。

私が暮らすこの地は、クリスマスですらなくとも、その精神に満ち溢れた、興味深く愛すべき国である。

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