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清水富美加から西行法師まで。人が出家をしたくなる3つの理由

岡田麻沙 岡田麻沙


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「ゆるぎないもの」が欲しいから

私たちは、ゆるぎない存在に飢えている。だってそうだろう。「永遠に君を愛するよ」とか言ってほしいし、「いつまでも若いですね」とかゴマをすられた日には大喜びである。変わらないことは安心をもたらす。でもそういうことって、あんまりない。

樫村愛子は『ネオリベラリズムの精神分析——なぜ伝統や文化が求められるのか——(2007年、光文社新書)』の中で、現在の社会状況を以下のように描写している。

現代社会は、ますます科学的合理的知を優先し、一方では動物的快楽を充足することを優先している。それゆえ世界と人間の関係を構成する作業は置き去りにされつつある。

<中略>

「基本的に世界と自分の間など埋められないのだから無駄なことを考える必要はない」「死を遠ざける科学と快楽を提供するテクノロジー以外は無駄なお遊びである」
引用:樫村愛子著(2007年)『ネオリベラリズムの精神分析——なぜ伝統や文化が求められるのか——』光文社新書、p.133

著者は、こうした態度がときに知識の円熟を遠ざけ、社会全体を不安定化させる原因になると指摘している。合理的であることや、分かりやすい価値ばかりを追い求めていくと、私たちはバラバラになってしまう。すると不安を感じるので、何か大きなものにすがりたくなる。それは国家だったり、神様だったり、道徳だったりする。

何も信じずに生きていくことは難しい。最先端の科学技術が何を成しえたかという情報にすら、「その実験が存在した」「記事が事実である」という、自分自身では確認できないものを無批判に受け入れる態度を通してしか触れることができない。

信じるものがない日々が続けば続くほど、人は、大きなものを信じたくなってしまう。

鋭い牙を持つ大きな何かを信じてしまうことを怖れて、別の神様へと手を伸ばす誰かの行為を、愚かだと笑うことは出来ない。信じるという行為がもたらす悲劇を減らすために、できるだけ皆がバランス良く、色んなものを信じられるようになればいいなと、思いつつ私は今もまた家出の荷造りをしている。小さくガス抜きしながら生きていこうぜ。

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