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村上春樹『騎士団長殺し』はマグロの解体ショーだ

岡田麻沙 岡田麻沙


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この小説は、いかに「生きる+死ぬ=生まれる」かという話

「私」が免色渉の肖像画を描くのも、騎士団長を免色家に連れて行くのも、生命を生み出そうとする試みである。死んだ妹の「小径こみち」という名は産道を思わせるし、事実物語の後半で彼女は粘膜のような役割を果たしている。この作品では、登場人物やモチーフがことごとく「生きようとする私」を助けたり試したりする役割を担っているのだ。

そして、とりわけ素晴らしいのは、物語の佳境である。ここで主人公は、魚を捌くための出刃包丁を使用する。物語の展開的に重要な部分なので細かい内容は伏せるが、行われているのは「殺し」⇒「捌く」⇒「腑分け」という意味の転換である。たとえばマグロの解体ショーは「命の腑分け」とも言えるし「魚殺し」とも呼べる。「大漁」は見方によっては「大虐殺」でもある。「生きる」ことの意味は「己の死を受け入れる」ことであり、「根源的に他の生を奪う可能性」と向き合うことだ。

生きることをどう受け入れるか分からずに彷徨っていた主人公が物語の後半で、『武器』を『調理器具』に持ち替えたことの意味は、とてつもなくでかい。

「私」は結局、「顔のない男」の肖像画をまだ描くことはできていないようだ。それは「私」が生きているからだ。「急いだ方がいい」と言われる存在に、主人公はなった。だから、心臓が「乾いた音を立てて」いるのだ。そのことを村上春樹が不気味なトーンで書いているのは、生きるという行為がそもそも、不穏なことだからである。
 

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