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村上春樹『騎士団長殺し』はマグロの解体ショーだ

岡田麻沙 岡田麻沙


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何もかもが入れ替わる

主人公と妻との電話シーンには、もう一つ重大な忠告が含まれている。出て行った家の鍵をまだ持っていた「私」が、それを「郵便受けに入れておく」と妻に告げる箇所だ。このセリフの後、「少し間があいた」という一文が続く。村上春樹の作品では、沈黙や間は楽譜の中にある休符のような役割を果たしており、前後にあるものが強調されていることが多い。なので「郵便受けに入れておく」という一言を、深読みしてみよう。

フランスの哲学者ジャック・デリダが「手紙を出しても相手のポストに届かないことって常にありえるよね」という物凄く当たり前のことから出発して、メチャクチャややこしいことを言っている。無理やりまとめると以下のようなことだ。

よく考えたら、手紙が届くとは限らない世界って困らない? まあ困るよね。でも今の世界って、そういう不安に満ちてるんだよ。だから、<文章を書くこと>と、<書かれたものの意味が読み取られること>との関係は常に矛盾しているよ。うん、まとめがマズすぎて意味が分からない。私の力不足を誤魔化すため、ここで唐突に、格好いい言葉を紹介しよう。

デリダの論文を英訳し、その序文が長すぎて(序文で一冊出ている)有名になったガヤトリ・C.スピヴァクという文芸評論家が、デリダのこの考えを「永遠に延期されたセックス」という超格好いい言葉でまとめている。読むという行為は、書かれたものの意味という処女膜をつねに“破る”と同時に“破らない”のだ、と。

だから、「郵便受けに入れておく」という主人公の一言は、デリダが言うところの「手紙問題」を暗示している、と、ここまで書いてきた解釈をも無効化する一文なのである。だがまあ処女膜など恐れずに書いてしまえば、ここで示唆されているのは「死者と生者の関係は入れ替わるよ。あの世とこの世の関係も入れ替わるよ」「お前の解釈は永遠に不完全だよ」ということだ。

生きようとする

「私」は死んでいるけれど、死んでいない。

「回転する天井の扇風機」を眺めながら『トゥーランドット』や『ラ・ボエーム』を聴く「私」。物語を進めるキーとなるのは「時間を私の側につけなくては」(第1部、P.71)という主人公の言葉である。時間を味方につけるとは、時間と共に存在する、つまり歳月と共に成長し、年老いてゆく存在になるということである。もう一度急ぐ必要のある存在になる(=生きる)ということである

だから主人公が「突破口のようなものを求めて」人妻と寝る(第1部、P.72)のは、生まれるためのチャレンジだ。人妻とやりまくるうちに、「私」は屋根裏で『騎士団長殺し』という題の絵画を見つける。毎日その絵を眺めながら、「気が遠くなり、このまま死んでしまいそう」(第1部、P.105)というオペラの一節を何度も聴く。そして夏が来て、谷の向こう側に住んでいる現代的な富裕層の男性、免色めんしきわたると出会うのだ。

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