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『すばらしい新世界』『1984年』、そして『消滅世界』

岡田麻沙 岡田麻沙


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でも明らかに違う点がある

『消滅世界』をディストピア小説と比べてみた時、『すばらしい新世界』と似た部分も『1984年』と通ずるところもある。ただ明らかに違う点が1つある。『消滅世界』の主人公が醸し出すノンポリ感だ。それこそが、『消滅世界』がはらむクレイジーさでもある。

2つの大戦に挟まれた時代のイギリスで書かれた『すばらしい新世界』は、資本主義と合理性を風刺した作品であった。冷戦下のイギリスで刊行された『1984年』は、反全体主義を強く打ち出した作品となっている。そして2015年の日本で、村田沙耶香によって書かれた『消滅世界』は、明確な「正しさ」を持たない作品である。

『すばらしい新世界』では、未開社会から来た「野蛮人」のジョンが均質化された社会に一石を投じた。『1984年』では主人公が反政府活動を試みることで物語が進行した。だが『消滅世界』では、主人公や周囲の人物が社会に大きな影響を与えたり、政治的なコミットメントを行ったりはしない。主人公の雨音は時代に飲み込まれ、時代の一部になる。

もう駄目だ、と私は思った。 私も夫も、この世界を食べ過ぎてしまった。 そして、この世界の正常な「ヒト」になってしまった。 引用:『消滅世界』(村田沙耶香著(2015年)河出書房新社)p.228

ここにはかすかな哀愁がある。しかし批判はない。登場人物たちは、変わり続ける世界の中で「絶対的な正しさ」など存在しないことを誰もがどこかで自覚しながら、環境に適応していく。村田沙耶香は『消滅世界』で描いた世界を、否定も肯定もしていない。主人公の雨音と同様、「いろんな正しさがあるよね」とどこか他人事のように頬杖をついて事態を観察している。

だから結局、『消滅世界』はディストピアのようだけれど、ディストピアではないのだ。

そこを判断できるほど遠い場所に、作品の世界がない。『消滅世界』で描かれているのは、遠い未来というよりは、今われわれが生きている世界の双子のような場所の出来事である。その世界を不気味だと思う人もいるだろうし、夢のようだと思う人もいるだろう。

どっちも狂気だし、どっちも健全。

そう言ってのけてなお、ニコニコ笑っているような不穏さ。それこそが、村田沙耶香の魅力である。

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