そしてついに小説『伴走者』へ
さあ、いよいよ今回出た『伴走者』です。積ん読が大好きな糸井重里さんにすぐ読んでもらう方法が判明して良かったですね。その方法は・・・
帯文をお願いする。
間違いない。
出典:Amazon
NHKにいらした頃から、パラリンピックや障がい者スポーツの番組を制作されていらっしゃいましたね。
その時に「伴走者」という存在を知りました。視覚障がいのある選手の目の代わりになって一緒に競技に参加する彼ら自身もアスリートで。
本来、映像ディレクターである鴨さんの小説『伴走者』は、きわめて映像的というか、映像喚起力がすごい小説で。夏編も、冬編も、撮影、編集があるような構成です。
不思議なことに、視覚を持たない人の物語なのに、「その目になる人」が主人公の話だからでしょうね。
今回も、自分で小説のCMを作りました。
Reference:YouTube
小説は、「見に行って書く」ものですよね。ドキュメンタリー番組の撮影と同じで、心の中の小説の世界に行ってカメラで撮ってくる。見に行って、帰ってきて、書いて、これが疲れるんですよ。
取材は取材、それはあくまでベースになっているけれど、フィクションを書くというのは、自分にしか見えないものを最後は見にいかなくてはいけない。僕がいつも言う、物書きは調べることが九割九分、ということですね。その先にだけ、書くべきことがある。
『伴走者』は、足掛け4年取材して書きました。
書かれた動機に、鴨さんからよくお話を伺う、ご自身の大事故経験と、その後ご自身が持たれることになったハンディキャップは深く関わっていますか。
オートバイで走っていて横から来た大型車にぶつかって、足が膝下でほぼ切断、複数の内臓破裂、その他、腕やら手指やら肋骨やらいろいろ骨折、出血多量でほとんど死にかけていたのを、ギリギリで救ってもらった感じです。結果的に、右足と左腕、右手指に機能障がいが残りました。右足は力が入らないのと、あまり感覚がないです。足首と膝はある程度までしか曲がりません。左腕も重いものを持ち上げられません。
そのご経験からこの作品執筆へ至った部分、またこの作品の中で語ろうと試みることと繋がる部分はありますでしょうか。
たぶん自分が障がい者であることは、書いた動機と関係あるとは思うのですが、あまり意識はしていないです。ただ、障がいがなければ、自分には関係ない、わからないものとして、そもそもNHKでパラスポーツの取材をしようとは思わなかったかもしれません。あと、取材はしやすかったところはあります。「僕はこんな障がいがあるんですけど、あなたは日常生活、どんな感じですか」って訊きやすい。
小説「伴走者」を田中は2回、読みました
ここからはね、鴨さんいないところで一人で言います。
面と向かって話して本人の前で泣くと恥ずかしいので、対談の時には言いませんでした。
僕は、「伴走者」を読むあいだ、小説なのに、何度も目をつぶりました。最初に読了したときと、二度目に読む間、ヘアバンドで目を覆って、家の中を歩き回りました。
完璧な、完璧な、完璧な文芸だと思います。ハイスピードカメラとドローンが縦横無尽に撮影したリアルなドキュメンタリーのようで、恋愛物語で、タイムサスペンスで、バディムービーで、ゲバラとカストロです。なにを言っているかわからないと思うので、ぜひ読んで欲しいと思います。
そしてこれは「障がい者が出てくる感動物語」ではない。出てくる人、出てくる人、みな人間臭い欲と怒りにまみれている。私利私欲が物語を動かして行く。
しかし、その向こうに突き抜けた人間の姿、これが光です。晴眼者にも、視覚障がい者にも、光がさし、そして光を生み出す力がある。
2編とも、ほんとうに完璧、完璧、完璧な「映像作品」でした。視覚を持たない人、「その目になる人」を描くからこその「映像作品」です。小説というものに対する発明があると思いました。
太宰の緋色も、七色が混ざった白も、完璧でした。なにを言っているかわからないと思うので、ぜひ読んで欲しいと思います。
これを読み、遡って前二作『アグニオン』『猫たちの色メガネ』読むとまたその「映像喚起力」への発見があります。
そして、これを読んだ人の意識、この小説がこの世界にあるという事実から変わることがあると思うんです。
こういうことは本人には言わないので、ここに書いておきます。