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「マンダロリアン」は、新三部作の失敗からうまれた、現代のスター・ウォーズの傑作だ。

橋口幸生 橋口幸生


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Nikeの広告で有名な広告会社ワイデン+ケネディのポートランド本社には、“Fail Harder.”(どんどん失敗しよう)という巨大な看板が掲げられている。

ビジネスの世界では、誰もが失敗の大切さを力説する。失敗を恐れるな。失敗があるから成功がある。失敗の先にイノベーションがある。さぁ、失敗しよう。勇気を出そう。挑戦者になろう。

そんな、意識の高い失敗のすすめが、世界中のプレゼンや講演で語られている。

失敗があるから成功があり、イノベーションがある。確かにその通りだ。何の間違いもない。あなたも、私も、どんどん失敗するべきなのだ。

……しかし、現実問題として、世間は失敗に冷淡だ。失敗した者は非難され、嘲笑され、忘れ去られる。成功者に向けられる賞賛やリスペクトを手にすることは決してない。

社会人としてキャリアを重ねれば重ねるほど骨身に染みるから、誰もが失敗を避けるようになる。大成功はしないけど、大失敗もしない。そんな安全な道を進み始める。失敗を恐れるなと威勢よく呼びかける成功者を、横目で見ながら。

しかし、そんな僕でも、久しぶりに「失敗してもいい。やりたいことをやってやろう」と思わせてくれた作品がある。スター・ウォーズ初の実写ドラマシリーズ「マンダロリアン」だ。※以降、完全ネタバレ仕様です。



出典:starwars.disney.co.jp

新三部作の失敗が、「マンダロリアン」をうんだ

マンダロリアンとは、惑星マンダロアを中心として活動する戦士集団の名前だ。様々な兵器を内蔵したアーマーに身を包み、人前では決してマスクを脱がない。惑星マンダロア出身者が大半を占めるが、民族ではない。彼らの教義を信じるものであれば、誰もがマンダロリアンになれる。現にドラマの主人公・通称マンドーも、マンダロリアンに救出された戦災孤児であり、マンダロア出身ではない。



出典:starwars.desiney.co.jp

マンドーの姿を見て誰もが思い出すのが、ボバ・フェットだろう。「エピソード5/帝国の逆襲」と「エピソード6/ジェダイの帰還」に登場した人気キャラクターだ。しかし、現在の公式設定では、ボバ・フェットはマンダロリアンではない。マンダロリアンのアーマーをどこかで手に入れて着用している賞金稼ぎ、ということになっている。ボバ・フェットやジャンゴ・フェットについてはスピンオフで膨大な物語がつくられており、彼らをマンダロリアンとして描いたものもあった。しかし、ディズニーはルーカスフィルムを買収した際、それらを漫画太郎先生ばりに「無かったこと」にしてしまったのだ。ややこしい経緯は別として、「マンダロリアン」がボバ・フェットの人気を起点に企画されたことは間違いない。

しかし、いくら人気キャラといっても、熱心なファン以外でボバ・フェットを知っている人は少ないのではないだろうか。C-3POやR2-D2に比べると、ハッキリと格は落ちる。実際、カッコいい見た目とは裏腹に、劇中ではビックリするほど活躍しない。背中のジェットパックの誤作動で転落し、サルラックという巨大なクリーチャーに丸呑みされるという、トホホな最期を遂げている。(正確にはその後も色々あって、それはドラマ本編にも関係してくるのだけど、本稿では割愛します)小説やコミックならともかく、ディズニー+の目玉コンテンツにボバ・フェット似の主人公を据えたのは、大胆な決断と言っていい。

地味なのは主人公だけではない。ベイビーヨーダを除けば(かわいすぎてつらい)、「マンダロリアン」には華やかな人気キャラは一切登場しない。クイールは「エピソード5/帝国の逆襲」にちょっとだけ登場した種族アグノートのキャラクターだ。IG-11は、やはり 「エピソード5/帝国の逆襲」にチラッと顔を見せた賞金稼ぎドロイドIG-88と同系だ。言葉は悪いが、日陰者達のドラマなのだ。



出典:bustle



出典:starwars.com

そして、その日陰者達が……実にイキイキと魅力的に描かれているのだ。クイールには元奴隷で、長い年月をかけて貯めたお金で自分を買い受けたという背景がある。 苦労して手に入れた自由、自分のことだけを考えて生きてもいいはずだ。しかし、クイールは縁もゆかりも無いマンドーへの協力を惜しまない。そして、何の見返りも求めずベイビーヨーダを守るために奔走し、命を落とす。クイールのためにマンドーがささやかな墓標をつくるところは、シーズン1でもっとも涙を誘うシーンだろう。小柄で豚のような顔をしたルックスは、お世辞にもカッコいいとは言えないが、間違いなくヒーローだ。

一方のIG-11も、胸が熱くなる活躍を見せてくれる。もともとはベイビーヨーダを殺して捕獲しようとしていた殺人ドロイド。しかし、クイールによって介護ドロイドに改造されたことで、命がけでベイビーヨーダを守るようになる。ザ・チャイルドを抱えながら帝国軍の残党相手に大立ち回りを演じる勇姿に、部屋でひとりで見ていて拍手をしてしまった。その後の尊い自己犠牲にも涙を禁じ得ない。両親を殺したドロイドへの憎しみで凝り固まっていたマンドーの心もほぐされていく。

人は生まれでは決まらないし、いつでも変わることができる。クイールやIG-11は、そんなことを教えてくれる。

世界観を盛り上げるためのクリーチャーでしかなったサンドピープルやジャワ族まで生きた人間(?)として描かれるのも素晴らしい。ジェダイやシスが表舞台で戦いを繰り広げる一方、銀河のあちこちで、名もなき人々のドラマがつむがれていた。そんな風に思うと胸が熱くなるのは、僕だけではないはずだ。

「マンダロリアン」はスター・ウォーズの世界にこれまでにない広がりを与えている。ファンも大絶賛していて、否定的な声はほとんど聞こえてこない。新作が発表されるたびに賛否が分かれるシリーズにしては、非常に珍しい。

しかし、この大成功は、失敗の上に築かれたものであることを忘れてはいけない。

影の当たらなかったキャラクターの抜擢。「人は生まれではない」という現代的なメッセージ。こうした新しいチャレンジを行ったのは、「マンダロリアン」が初めてではない。2015年「フォースの覚醒」から始まったスター・ウォーズ新三部作から始まっていたものだ。

新三部作については、今年1月にアップした ”「スカイウォーカーの夜明け」を最後に僕はスター・ウォーズの話を止めようと思う”に書いている。まとめると「せっかく打ち出した現代的なテーマを、うまく掘り下げられなかったというのが、僕の評価だ。

レイとフィンという、女性と黒人のペアを主人公にしたのは、今でも英断だったと思っている。しかもゴージャスな美男美女ではなく、気さくなキャラクターだ。「レイ」「フィン」という非常にあっさりとしたネーミングにも、それは現れている。「ルーク・スカイウォーカー」と言う名前は、いかにも神話世界の英雄という響きがある。一方、レイやフィンは、友だちにいそうな感じだ。

「なんだか地味で小粒だなぁ。これがスター・ウォーズの主人公で大丈夫なの?」最初に2人を見た時、そんな風に思ったのを、よく覚えさせる。しかし、この不安が良い意味で裏切られた。

「フォースの覚醒」でのレイとフィンは物凄く魅力的だったと、新三部作が完結した今でも思う。レイは生い立ちや境遇など、ストレートな「女性版ルーク」として設定されていた。若く、何者でもない自分に悶々としながら、銀河を夢見る。そんな、これまで少年のものとされていた感情を、世界中の少女たちの胸に宿した功績は極めて大きい。(これだけでも新三部作は作った価値があった)

一方、元ストームトルーパーという出自を持つフィンは、全く新しいタイプのキャラクターだ。ファースト・オーダーは少年兵をストームトルーパーにしているという設定も衝撃的だった。これまでのストームトルーパーはクローンという設定の、都合のいいやられ方だった。どれだけ死んでも、お面をかぶったクローンだからさほど残酷な印象はない……というわけだ。巧い設定ではある。しかし、「フォースの覚醒」は、フィンのマスクにぺっとりと塗られたストームトルーパーの血を、しっかり観客に見せた。ストームトルーパーを生きた人間として描こうとする、制作陣の覚悟が伝わってきた。

しかし、こうしたチャレンジの数々は、2017年「最後のジェダイ」、2019年「スカイウォーカーの夜明け」をシリーズを進むうちに、どんどん尻すぼみになってしまう。

レイは「最後のジェダイ」で一般人の子どもとされたにも関わらず、「スカイウォーカーの夜明け」ではパルパティーンの孫だったことが明らかになる。何者でもない少女がジェダイになるという現代的な物語が、なるべくしてなったという古典的な物語に後退してしまったのだ。

フィンはもっとひどく、元ストームトルーパーという設定をほとんど活かすことなく、凡庸な脇役として終わってしまう。演じたジョン・ボイエガは、こう語っている。

「ただ、ディズニーに言いたいのは、黒人のキャラクターを登場させて実際の役割よりも重要そうに宣伝してから、最終的には脇に押しやるような真似はしないでほしいってことだ。そんなのおかしい。はっきり言わせてもらうけど……。みんな、ほかの役者はどう扱えばいいかわかっている。でも、俺やケリー・マリー・トランになるとね、わかるだろ」
出典:WIRED「スター・ウォーズ」の世界にも人種差別が存在する:ジョン・ボイエガによる衝撃発言の真意

あらためて新三部作を振り返って思うのは、ジェダイとシスの対決というスター・ウォーズの根幹を成す設定が、かえって呪縛になってしまっていることだ。「フォースの覚醒」は行方不明のルークを探す物語だっただけに、ジェダイを描くことなく、新しい要素に時間を割くことが出来た。「最後のジェダイ」は、ジェダイの限界を描くというチャレンジに取り組んでいたけど、消化不良に終わってしまった。結果、「スカイウォーカーの夜明け」ではいつものスター・ウォーズに先祖帰りしてしまったのだ。「レイ」が「スカイウォーカー」と名乗るラストが、全てを象徴していると思う。

新三部作以降のスター・ウォーズでもっとも高く評価されたのは、「ローグ・ワン」だろう。スピンオフ作なのでジェダイとシスを描く必要が無かったことが、成功の一因だと思う。名もなき主人公たち、ドロイドの自己犠牲など、「ローグ・ワン」には「マンダロリアン」を構成する要素の多くが登場する。原型と言っていい作品だ。



出典:starwars.com

おそらく、ジェダイとシスの物語はやり尽くされていて発展しようがないのだと思う。パルパティーンの復活という、どう考えても無理筋な設定を持ち出さなければ話を続けられなかったことからも、それは明らかだ。

しかし、こうしたことが分かったのは、新三部作をつくったからなのだ。「マンダロリアン」と比べて新三部作を腐す意見をよく目にするが、あまり感心しない。むしろ失敗から学んだディズニーを評価するべきだろう。

映像やストーリーだけではなく制作体制にも、新三部作の反省が活かされている。監督に女性と黒人を起用しているのだ。

新三部作は主人公を女性と黒人にしたものの、監督は2人とも白人男性だった。もちろん、JJエイブラムスとライアン・ジョンソンは優れた監督で、差別思想とも無縁だろう。しかし、「ブラックパンサー」を黒人が、「ワンダーウーマン」を女性がそれぞれ監督して大成功に導いていることを考えると、やはり物足りない。

「マンダロリアン」は、おなじみジョン・ファブローと、エピソード毎に異なる監督を起用する体制で制作されている。



出典:IMDb

シーズン1第4話、シーズン2第3話を監督したのは、ブライス・ダラス・ハワード。「ジュラシック・ワールド」シリーズで活躍する女優としても有名だ。「マンダロリアン」以前にも監督としてドキュメンタリーや短編映画、テレビ映画を手がけている。父親は同じく監督のロン・ハワードで、「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」を手がけている。父娘でスター・ウォーズを監督するとは、ファンにとっては夢のような話だ。



出典:IMDb

シーズン1第3話、第7話を手がけたのはカナダ出身のデボラ・チョウ。両親はオーストラリアからの移民で、父親は中国人という多文化のバックグラウンドを持つ。「マンダロリアン」以前は2本の短編と2本の長編映画を制作。その後、テレビドラマに活躍の場を移し、「ベター・コール・ソウル」「ミスター・ロボット」といった人気作を手がけている。



出典:Popsugar

シーズン1第2話、第6話を監督(2020年12月2日時点)したリック・ファミュイワは、ナイジェリア系アメリカ人。African-American Film Critics Association (AAFCA)の最優秀脚本賞、Black Reel Awardsの監督賞などを受賞し、黒人映画/テレビドラマで実績を残している。銀河のならず者達が集まってくる第6話はシーズン1でも出色のおもしろさで、とても初めて監督したSFアクション作とは思えない。



出典:Wikipedia

シーズン1第3話、第5話、シーズン2第5話を手がけ、エグゼクティブ・プロデューサーも努めるのがディブ・フィローニ。アニメーション出身で、「マンダロリアン」がキャリア初の実写作品となる。他の監督達とは対照的に、ファローニとスター・ウォーズの関わり合いは長い。「スター・ウォーズ/ クローン・ウォーズ」「スター・ウォーズ 反乱者たち」など、数多くのアニメ作品を手がけている。

ジョン・ファブローとタイカ・ワイティティについては、過去、街クリで取り上げているので、良かったら読んでいただきたい。

■「ライオン・キング」はライオンの皮を被ったターミネーターである。

■「ジョジョ・ラビット」は喜劇であり少年の成長譚であり「このドイツの片隅に」でもあ文字数

ディズニー+で配信中の「ディズニー・ギャラリー/スター・ウォーズ:マンダロリアン」では、メイキング映像や監督たちのトークを見ることが出来る。人種、年齢、性別など、すべてが異なる人々が、良いものをつくるという1点で力を合わせる。ドラマで語られるテーマが制作現場で実践されている様子は、実に感動的だ。

父殺しの物語から、父になる物語へ

世界中の神話や伝承、英雄譚をもとに創作されたこれまでのスター・ウォーズは、普遍的な「父殺し」の物語となっていた。アナキンとルーク、アナキンとオビワン、ベン・ソロとハン・ソロなど、スター・ウォーズの世界は数多くの「父殺し」がある。レイの物語まで、結局は父殺しになってしまったのは、先述の通りだ。

「マンダロリアン」は父殺しの呪縛から自由になった、初めてのスター・ウォーズと言えるだろう。マンドーは父を殺すどころか、ザ・チャイルドことベイビー・ヨーダのお守りをしながら冒険の旅に出ることになる。



出典:Starwars_direct

戦士として育てられたマンドーには、当然、子育ての経験は無い。「赤ちゃんから絶対目を離さない」という基本中の基本すら守れず、何回もシャレにならないイタズラをされるマンドーの姿には、イライラさせられる。そして、だからこそ次第に親子としての絆を深める2人の姿に、ほっこりとした気持ちになるのだ。シーズン2第5話で、ベイビーヨーダを抱えて歩くマンドーが

”You’re like a father to him”

……と、声をかけられるシーンがある。

父殺しの物語から、父になる物語へ。銀河全体の平和を守るより、たった一人の子どもを守る方が、現代的なヒーロー像なのかもしれない。

日本からの影響

スター・ウォーズは黒澤映画など日本文化の強い影響化にあるシリーズだが、「マンダロリアン」も例外ではない。先述の「ディズニー・ギャラリー/スター・ウォーズ:マンダロリアン」で、制作陣は参考にした作品として『子連れ狼』を挙げている。

『子連れ狼』は世界的に評価が高い作品で、タランティーノにも影響を与えたことは有名だ。確かにマンドーとベイビーヨーダは、関係的にもルック的にも、拝一刀と大五郎の子連れ狼父子そのままだ。



出典:Amazon



出典:npr

『子連れ狼』で拝一刀は大五郎に、こう語る。


—–
「大五郎、川は何処に流れつくぞ」

「海」

「うむ、川は海に注ぎて波となる。大きなうねりの波、小さなうねりの波、寄せてはかえし、くりかえし、くりかえして絶ゆることのない。人の生命もこの波と同じく、生まれては生きて、死んではまた生まれる。

ほどなく、父の五体はもの言わぬ屍となろう。だが生命は波に同じく絶ゆることはない。来世と言う岩頭に向いて、また生まれ変わるべくうねっていく。五体は死んでも父の生命は不滅なのだ。お前の生命も然り。我らの生命は絶ゆることなく不滅なのだ。

皮破るるとも、血が噴くともうろたえるな。父の五体倒るるともひるむな。父の眼閉じらるるとも、その口開かるるともおそるるな。

生まれ変わりたる次の世でも父は父、次の次の世でも我が子はお前ぞ。

我らは永遠に不滅の父と子なり」
—–

全身の毛穴から涙が出てきそうな名台詞だが、フォースに通じる思想を感じるのは、僕だけではないはずだ。

『子連れ狼』は最終回、トラウマになるレベルの壮絶な結末を迎える。詳細は買うなりググるなりして調べてもらうとして……マンドーとベイビーヨーダの旅路がどんな結末を迎えるのかに注目したい。(正直、ここは『子連れ狼』の影響を受けないでほしい……2人が幸せになるのを見たいです)

人生は失敗でできている

子どもは失敗を繰り返しながら、少しづつ成長する。子どもを見守る大人も、失敗しながら、少しづつ親になっていく。

スター・ウォーズのようなアートも、僕たちの日々の仕事も、同じだ。

意識の高いインフルエンサーが言うほど、失敗はカッコよくない。成長にも成功にもつながらない失敗のほうが多い。それでも僕たちは失敗しながら前進するしかない。

毎週金曜、マンドー(迂闊な行動が凄く多い)とベイビーヨーダの旅を見るたびに、そう噛み締めている。



出典:Bustle


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[イラスト]清澤春香

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