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「ジョジョ・ラビット」は喜劇であり少年の成長譚であり「このドイツの片隅に」でもあ文字数

橋口幸生 橋口幸生


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「ジョジョ・ラビット」を一言でまとめると、「これまで繰り返し語られてきたテーマを、斬新な手法で映像化した野心作」ということになるだろう

ナチス・ドイツやヒットラーを描く映画は、毎年のように公開される。「戦場のピアニスト」(2002)、「イングロリアス・バスターズ」(2009)、「サウルの息子」(2015) ……などなど、名作も多い。妙な表現になるが、人気ジャンルと言っていい。テーマがテーマだけに、ダークでシリアスな映画である場合はほとんだ。

こうした先行作品とは、「ジョジョ・ラビット」は趣を異にする。まず、タイカ・ワイティティ監督自ら演じるヒットラーからして、見た目も喋り方も本物に全く似ていない。

「準備のためにヒットラーのドキュメンタリーを見始めたんだけど、途中で止めてしまった」「ドイツなまりを少し入れて自分の素のままで演じることにした」(出典:公式プログラム)

こう監督は発言している。はなから似せる気が全くなかったということだ。「総統閣下がお怒りのようです」動画でおなじみの「ヒトラー 〜最期の12日間〜」(2004)を筆頭に、ヒットラーを演じる俳優はいかに本物に似せるかに心血を注ぐのが普通だ。ヒットラーでなくても、チャーチルやホーキング博士など、歴史上の人物を演じる役者は「本物そっくり」を目指す。そのほうが賞レースでも評価される。タイカ監督のスタンスは異例と言っていい。

主人公の少年はロンドン出身。スカーレット・ヨハンソンやサム・ロックウェルといったアメリカを代表する俳優達が、ドイツなまりの英語を話す。その他、主要キャストにドイツ人はひとりもいない。キャスティングの時点で、ストレートなヒットラー映画を作るつもりが一切無いのが分かる。

ジョジョ・ラビットのポスターにはAn anti-hate satire(反ヘイト風刺劇)と書かれている。実際に映画を観ると、風刺劇というよりコメディに近い。サム・ロックウェル演じるクレンツェンドルフ大尉は、少年たちをナチズムに洗脳する恐ろしい役回りだが、どこか愛嬌があり憎めない。「私は子どもを12人産んだ。女性にしか出来ない貢献よ」「みんな〜! 本を焼くわよ〜!」……などなど、ミス・ラームの極端な愛国翼賛夫人っぷりも笑ってしまう。演じるレベル・ウィルソンはこう語る。

「タイカから、君の味付けでぶっ飛んだ役柄にしてほしいと頼まれたんです。武者奮いがしました。これほどおもしろく、圧倒的な強さを持つコメディのオファーなんて、滅多にこない」(出典:公式プログラム)

海外のレビューを見ていると、こうしたコメディ演出そのものへの批判が多い。「ナチスをコミカルに描くことでその悪を矮小化している」というのが、その主な内容だ。この感覚は日本人には少し分かりにくいが、置き換えると「空襲や原爆をコミカルに描いた」のようなことなのかもしれない。

僕自身は、この批判には同意しない。「ジョジョ・ラビット」は3幕以降、ほとんど別の映画のように雰囲気が一変するからだ。

〜!!!! 以下、ネタバレ全開なのでご注意を !!!!〜

タイカ・ワイティティはアドリブを活かした演出力に定評がある。どのキャラクターもイキイキとしていて、表情を見ているだけでも楽しい。中でも魅力が爆発しているのは、主人公のお母さんを演じるスカーレット・ヨハンソンだろう。

明るくて、ユーモアがあって、ナチス相手にもひるまないユダヤ人の少女に亡くなった長女の面影を見出し、命がけで守る。美しくて強い、まさに理想的な母親像だ。

そこには、女手一つで息子を育て上げた、タイカ自身の母の姿が投影されているのだろう。彼は本作のことを「お母さんへのラブレター」と語っている。

「これは僕の母や、一人で子どもを育てている世界中の親に捧げた物語なんです。自分が親になって初めて分かりましたよ。子育てって、本当に大変です。親がこれほど多くの犠牲を払っているなんて!」(出典「IMDb」)

これほど魅力的なジョジョの母だからこそ、そのあまりに突然の死は、観客を奈落の底に突き落とす。絞首刑になった母親の靴が、ちょうど少年の目線に来る残酷過ぎる構図。それでもママの靴ひもを結ぼうとうする、健気な姿。観るものの魂をえぐる、本作屈指の名シーンと言っていい。

母の死をきっかけに、牧歌的でファンタジックだったジョジョの世界は、戦争に破壊されてゆく。街は空襲に遭い、食料は不足し、子どもだけの生活は破綻。前半のコメディ描写があるからこそ、平和な日常を少しづつ侵食する戦争の恐ろしさが伝わるのだ。

こうした「ジョジョ・ラビット」の構造を見ているうちに、僕は別の映画のことを思い出した。

「この世界の片隅に」だ。

「この世界の片隅に」は、「これまで繰り返し語られてきたテーマを、斬新な手法で映像化した野心作」という点が、「ジョジョ・ラビット」と共通している。

実際、「ジョジョ・ラビット」と「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」のコラボ広告が、朝日新聞 東京本社版 1月24日朝刊に掲載されている。両作品に共通するテーマ性を見抜いた、見事なコラボレーションだ。

https://twitter.com/konosekai_movie/status/1220550443157225473

「火垂るの墓」や「はだしのゲン」など、これまで戦時下の日本は悲惨なものとして映像化されることが多かった。対して「この世界の片隅に」では、どこにでもありそうな、ほのぼのとした日常が描かれる。食料不足の中でも、主人公は鼻歌交じりで道端の野草を料理する。会ったこともない相手と結婚し、義母に代わる労働力としての役目を担わされる。そんな中でも愛を育み、日常に小さな幸せを見出す。こうした描写が共感を呼び、「この世界の片隅に」は批評と興行の両面で大成功を収めた。個人的にも大好きな作品だ。

しかし「この世界の片隅に」の語られ方として、「戦争中にも幸せな日常があった」描写が過度に強調されることに、僕は違和感を覚えている。この映画の本質は、下記のRAM RIDER氏の評にまとめられていると思う。

“主人公すずの少女時代から結婚を通して、当時のリアルな生活や価値観が自然と伝わってくる。現代の視点からジェンダーや男女の不平等、人権という目線でみると本当にひどい時代だな、と正直思うが、それでもその常識の中でお互いを思いやる人々のやりとりが魅力的だ。戦時下で物資がどんどん不足していく中、貧しいながらも限られた食材を使って料理をつくる女性たち。その描写が細かくて観ているだけでこっちのお腹が空いてくるのがおかしい。

だがその人々が「やれやれ」と言いつつ現状を受け入れてる様子が現代の自分たちと重なり怖くもあるのだ。実際、「多少の不便」程度の描写で描かれる本作の中の戦争はある時点で突然凶暴な牙を剥く。「戦争中も人の生活があったんだなあ」などとのどかな気持ちで観ていたこちら側の心臓を突き刺すインパクトは今回とりあげた他の作品にもまったく負けていないだろう。

この映画で恐ろしいのは戦争や死、暴力といったものが普段の生活と地続きで、ゆっくり侵食してくる、ということだ。それらは生活を埋め尽くしたときにはもう手遅れで、あとはランダムに好きな場所で爆発する。まるで時限装置のついた地雷のように。こちらは恐怖に怯えながらも普通に生活を続けるしかない。”
(出典 「UR ONLINE STORE 生活と映画 cut.4」)

こう記した後、RAM RIDER氏は「戦争は日常の延長にあることを教えてくれる」ことを「良い戦争映画」の条件として挙げている。この条件に照らし合わせても、「ジョジョ・ラビット」と「この世界の片隅に」は、どちらも「良い戦争映画」と言えるだろう。

「この世界の片隅に」は、その圧倒的な完成度の高さを前に、ほぼ批判が存在しない。ライムスター宇多丸氏は「5000億点」をつけ、 斎藤環氏は「120年に一度の傑作」「リュミエール兄弟以降、最高の映像作品」とまで言った。そんな中、映画監督の想田和弘氏がFacebookに投稿した次のコメントは異彩を放っている。やや長いが全文引用する。

“映画「この世界の片隅に」がニューヨークで公開されたので、ようやく観ました。絶賛されていたので相当期待していたんですが、強烈な違和感が残りました。強烈すぎて夜眠れないくらいに。

その違和感をなかなか言語化しにくいのですが、たぶんひとつには政治性の欠如です。それはたぶん、この映画が評価されている最大の理由のひとつでもあるわけですが、僕には気持ち悪くて仕方がなかった。
戦争は政治の帰結として、人間が起こすものです。政治の産物であるはずの戦争から政治性を脱色してしまって、本当にいいのでしょうか。戦争をあたかも自然災害のごとく描いてしまって、本当にいいのでしょうか。

戦争を徹頭徹尾悲惨なものとして描いたこれまでの「戦争映画」とは違ったものを作りたかったんだろうなあという、作り手の意図はわかります。実際、戦時中だって人々は笑うこともあっただろうし、生活の中にも充実感はあったことでしょう。それを描くのはよいと思います。でも、そういうポジティブな側面を強調するために、悲惨な側面を必要以上に無視するか、マイルドに描いているのではないか。そんな気がしてなりませんでした。

たとえば憲兵とか、隣組とか、あんなにのほほんとしたものだったとは思えないです。憲兵に疑われたら問答無用で逮捕されるだろうし、近所からも村八分にされたのではないでしょうか。主人公含め登場人物に政治的に覚醒した人はおらず、戦争になろうが空襲を受けようが、みんなただただ状況を受け入れて流されていく受動的な存在ですが、あのようにマジョリティの価値観を素直に無批判に受け入れる人たちは、「マジョリティからはずれた人」に対してもっともっと差別的だし残酷だと思います。

「ALWAYS 三丁目の夕日」的な、ある意味で懐古趣味な映画を、戦時中を舞台にしても作ってしまえるほど戦争が遠のいたということなんでしょうか。なんだか不気味です。そう感じる僕のような人間が、圧倒的に少数派であることも不気味です。”

ちなみに原作版「この世界の片隅に」では、敗戦を告げる玉音放送のシーンの後、次のようなセリフが挿入される。


—-
この国から正義が飛び去ってゆく
「暴力で従えとったという事か。じゃけえ暴力に屈するという事かね。それがこの国の正体かね。うちも知らんまま死にたかったなぁ」
—-

これがアニメ版では、次のように改変されている。

—-
「飛び去ってゆく。うちらのこれまでが。それでいいと思ってきたものが。だから我慢しようと思ってきたその理由が。あぁ、海の向こうから来たお米・大豆、そんなものでできとるんじゃなぁうちは。じゃけえ暴力にも屈せんとならんのかね。あぁ、何も考えんぼーっとしたままうちのまま死にたかったなぁ」
—-

原作の「この国から正義が飛び去ってゆく」と、それに続く主人公のセリフは、帝国主義日本を批判する現代的な視点が感じられる。だからこそ片渕須直監督は「戦時中に生きた主人公の目を通して戦争を描く」というコンセプトに沿って改変したのだろう。ライムスター宇多丸氏の言葉を借りれば「より生活視点から大きな物語を見ている。食べ物というところから、日本の帝国主義の一部だった自分が浮かび上がる」ということだ。

しかし、この改変が、想田和弘氏の指摘する「戦争を自然災害のごとく描いている」という読後感につながっている面は、否めないと僕は思う。

政治的な中立性について、片渕監督はこうコメントしている。

“政治的に中立となるように心がけた。声高に戦争反対という映画もつくれるが、そうした時点で、特定の戦争に限定されてしまう。見てもらって、戦争とはこういうことなんだと。どこにいても一般庶民が一番ひどい目にあうってことが伝わらないと意味がない。”
(出典:https://globe.asahi.com/article/12970721)

監督の真意は、想田和弘氏の批判とは全く別のところにあるのが分かる。しかし、政治的に中立であること自体がここまで評価される現状は極めて危うい。Twitterによくある「どっちもどっち」的な、悪しき価値相対主義に回収されかねない。

一方、「ジョジョ・ラビット」の政治的スタンスは明確過ぎるくらいに明確だ。1時間48分のすべてが、ナチスを徹底的に批判し、ヒットラーをとことんコケにすることを目的にしている。

タイカ・ワイティティは、マオリ系ユダヤ人である自分がヒットラーを演じる理由を問われて、

「ヒットラーにファ○ク・ユー! と言うのに、これ以上の方法は無いだろう?」
(出典「IMDb」)

と説明している。

「この出来事を決して忘れないために、何度も何度も、語り継ぐ事が重要。あらゆる方法で同じ物語を伝え直し、自分たちや次の世代に語り継いでいくことが僕たちの使命であり、大切なことだと考えています。」
(出典「THE RIVER」)

……とも語り、その政治性を隠そうともしない。何とも言えない風通しの良さを感じるのは、僕だけだろうか。なぜか日本人が大好きな「ヒットラーやナチスも良いところがあった」みたいなニヒリズムは一切ない。監督の信念が観るものの胸を打つ。

映画にとって大切なのは、政治的に中立であることではなく、政治的メッセージに物語を奉仕させないことだ。この点でも「ジョジョ・ラビット」は万全だ。物語としては、一人の少年の成長と、淡い恋心を描いているからだ。

映画は連合軍がナチスに勝利し、ヒロインであるユダヤ人少女のエルサが解放される場面で終わる。この場面のBGMは、ディビッド・ボウイのHeroesのドイツ語バージョン。歌詞では「ベルリンの壁で離ればなれになった恋人たち」についてであると言う。

”僕は夢見ているんだ。
背中には冷たい壁がそびえ立つ。
銃弾が空気を切り裂く。
でも、僕たちは、
何事もなかったようにキスするんだ。
奴らに恥をかかせてやれる。
奴らを倒すことができる。
そんなとき、
僕たちはヒーローになる。
まさにその日、
僕たちはヒーローになるんだ。”

(出典「lyricstranslate.com」 和訳は筆者)

「ジョジョ・ラビット」の日本版キャッチフレーズを借りれば、「愛こそ最強」だ。

それは日本でもドイツでも、世界中のどこでも、決して変わらないのだ。


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[イラスト]清澤春香

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