人間が創造したものにはすべて「文脈」がある。
原型がある。下敷きがある。
模倣がある。引用がある。
比喩がある。無意識がある。
田中泰延さんの著書『読みたいことを、書けばいい。』に書かれた言葉からスタートしてみました。
というのも、今回ご紹介するNetflixオリジナル映画「ハーフ・オブ・イット: 面白いのはこれから(以下、ハーフ・オブ・イット)」を見て、調べて、この言葉を心から実感したからなんです。
「ハーフ・オブ・イット」には、たくさんの模倣が、引用が詰め込まれています。劇中でも様々なかたちが提示されていますが、それをできるかぎり紐とき、物語にどんな響を与えたのか? 引用の先には何があるのか? 考えていきたいと思います。
完全ネタバレ仕様なので、見たあとに読んでもらった方がより楽しめると思います。
それでは、どうぞ。
ざっくりいうと、高校生の三角関係ラブコメ
まずは、簡単なあらすじから。
舞台はアメリカの田舎街スクワハミッシュ。住民の大半が白人で、キリスト教徒。おそらくキリスト教的な価値観が根強い保守的な街です。
主人公は、5歳の時に中国からアメリカにやってきた女子高生エリー・チュウ。駅で働くお父さんの仕事を手伝いながら、文学的な才能を活かして授業のレポート代筆で家計を支えています。
エリーを演じたのは、どことなく高畑充希似のリーア・ルイス。この人、上海生まれなんですけど生後間もなくアメリカへ渡り、白人家庭の養子になったので中国語が話せなかったようです。撮影のために中国語を猛勉強したと語っています。
出典:IMDb
工学の博士号を持っているお父さんは英語力の問題で望み通りの職につけず、妻を事故で亡くしたことが決定打となって家に引きこもり古いラブロマンス映画ばかり見ています。お父さんが見ている映画が物語に影響を与えているんですが、後ほどくわしく書きます。
出典:IMDb
演じたのはコリン・チョウ。この人は「マトリックス」シリーズでセラフをやってた人ですね。
出典:IMDb
エリーは、アメフト部の補欠選手ポール・マンスキーから「ラブレターの代筆」を頼まれます。最初は断ったものの、家の電気代のためにしぶしぶ引きうけることに。
出典:IMDb
エリーがしぶった理由は、ラブレターの相手。教会の娘で美人、彼氏は有力者の息子。完璧な女の子アスター・フローレス。ポールにとっては高嶺の花子さん。それ以上に、アスターは、エリーが想いを寄せる女の子だった。
出典:IMDb
エリーは女の子が好きな女の子なんですね。
やがて3人の関係は、奇妙な三角関係のように発展していきます。
「ハーフ・オブ・イット」で引用されている作品の数々
『シラノ・ド・ベルジュラック』
ラブレターの代筆を発端とする三角関係という構造からして引用元があります。17世紀の剣術家・作家・哲学者・理学者シラノ・ド・ベルジュラックを主人公とした戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』です。
出典:Amazon.co.jp
文学的な才能をもちながら、鼻が大きく容姿にコンプレックスをもっているシラノ。シラノは、明るく美青年なのにあまり賢くない友人クリスチャンからラブレターの代筆を頼まれます。ラブレターの相手であるロクサーヌには、シラノも想いを寄せていた。
『シラノ・ド・ベルジュラック』は世界中で公演されていて、日本では宝塚歌劇団で演じられたりしてします。三船敏郎主演で日本の時代劇に書きかえた「或る剣豪の生涯」(1959)という映画も公開されています。
次の引用は、タイトルにもあらわれています。
プラトンの『饗宴』です。
『饗宴』
出典:Amazn.co.jp
愛とは完全性に対する欲望と欲求である
「ハーブ・オブ・イット」の冒頭で示さるのは、ギリシャ人による愛についての仮説。人間は、もともと2人の人間が繋がったひとつの生き物だった。しかし、あまりに幸せそうで嫉妬した神によって引き裂かれてしまった。だから、引き裂かれた相手を求める。失った自分の半身「ハーブ・オブ・イット」を。これは、『饗宴』の中に登場するアリストパネスの演説が元になっています。
この愛についての話、冒頭のアニメーションからのつながりでエリーが代筆したレポートの内容という流れで見せていましたよね。この演出、うまいなあと思いました。エリーがレポートの代筆をしていることや、文学的な才能があることをスムーズに提示できていましたよね。
授業つながりだと、もうひとつ。
サルトルの『出口なし』です。
『出口なし』
『出口なし』は1944年に初演された戯曲で、『シラノ・ド・ベルジュラック』同様に女性2人、男性1人の関係を中心にすすんでいきます。
地獄とは、他人である。
この言葉は『出口なし』にでてきます。
ガルザン(男性)、イネス(女性)、エステル(女性)の3人が、地獄に落ちた亡霊として登場します。しかしそこは、平凡なただの部屋。自分たちはなぜ地獄にきたのか? なぜこの3人なのか? 彼らは生前の行いについて、語りはじめる。
この3人の設定が「ハーブ・オブ・イット」に影響を与えています。
ガルザンは、ポール。イネスはレズビアンという設定なので、エリーですね。そして、もうひとりの女性がエステル。
名前からわかるように、アスターに影響を与えています。
エステルとは、旧約聖書に登場する歴史物語『エステル記』の主人公であるユダヤ人女性のこと。王に気に入られ王妃となった捕囚民の娘です。強い男性の庇護下におかれる女性を象徴するような名前です。エステルを想起させるアスターという名前、保守的な街の神父さんがいかにもつけそうな感じですよね。
『出口なし』のエステルは上流階級の生まれで、お金のために望まない結婚をしたんです。この辺りの設定はアスターに影響しています。
エステルがアスターに改変されたことにも意味があるかと思って調べたんですけど、アスターは花の名前でもあるんです。キク科の属のひとつが「アスター(Aster)」と呼ばれています。そして、かつてシオン属に分類されていたことで「アスター」と呼ばれている花があります。和名をエゾギク、英名をChina asterといいます。
出典:Wikipedia
エゾギクは、中国原産なんですよ。
中国からやってきたエリーは、うまく馴染めない街の中で、アスターを唯一の理解者だと確信して、恋に落ちます。中国原産の花の名前をもつ女の子を。
考えすぎかもしれませんが、この監督ならそこまでやるんじゃないかと思うんですよね。
というわけで、ここからは監督を紹介します。
アリス・ウー監督、16年ぶりの新作
アリス・ウー監督は、1970年生まれの50歳。両親は台湾からの移民です。エリーと同じく、レズビアンです。
出典:IMDb
スタンフォード大学卒業後、ソフトウェアエンジニアとしてマイクロソフトに入社。その後、映画制作を目指してマイクロソフトを退社し2004年に初長編作品「素顔の私を見つめて…(原題:Saving Face)」を手がけます。スタンフォードを出てマイクロソフトから映画監督って、人生何周目?
出典:IMDb
2本しか撮っていませんが、アリス・ウー監督には共通のテーマがあるんだろうなと思います。
「素顔の私を見つめて…」の主人公は、中国系アメリカ人女性のウィル。彼女はレズビアンです。ウィルはお父さんがいないんですけど、48歳のお母さんが妊娠するんです。相手は? 誰がお腹の子の父親? となるんですが、頑なに言わないんですね。それで両親(ウィルの祖父母)と不仲になって、ウィルのところに居候してきます。ウィルはウィルで、ダンサーの女性と付き合うようになるんですが、自分がレズビアンだって家族には秘密にしています。
出典:IMDb
ウィルと恋人ヴィヴィアン、そしてお母さんという3人の関係性が軸になっていきます。
出典:IMDb 3人並んで映画を見るシーンもあります。
「ハーブ・オブ・イット」を気に入ったなら「素顔の私を見つめて…」も、ぜひ見てほしいですね。配信サイトでレンタルできます。ああ、アリス・ウー監督ってこういうことがやりたいんだなあと、より理解できると思います。
「素顔の私を見つめて…」にも過去の映画からの引用があります。「卒業」(1968)なんて「ハーフ・オブ・イット」以上に直接的につかっています。それはもう少し後で書きましょう。
「過去の作品からの引用を多用した作品づくり」は、2作に共通した特徴なんですけど、「ハーフ・オブ・イット」が「素顔の私を見つめて…」と比べて、より洗練してるなと思うのは「引用という手法自体が、作品のメッセージを強めている」ってことなんです。
思想家、戯曲、文学、映画からの引用を重ねながら物語は進みます。でも、本当に大切なことは、その先にあると言いたいんだとだんだんわかってきます。エリー、ポール、アスターの3人が他者の言葉や行動にふれて、成長する物語なんですよね。
引用が目的ではなく、成長を印象付けるための手段として機能していると思うんですよ。監督が前作から16年かけただけのことはあるなあと思います。主人公のバックボーンや性的嗜好、隠していた気持ちみたいなテーマは一緒なんですけど、語り口は大きく進化しています。
ここから再び、引用の元ネタにもどります
引用の先に大切なことがあるんですが、引用元をもう少し紹介していきましょう。
「日の名残り」
自分が落とした小説『日の名残り』をアスターが拾い「主人公の感情を抑えた描写がいいわよね」と言ってきたことで、エリーは決定的に恋に落ちます。
住む世界が違うと思っていた子が、自分と同じものを読んでいる。アスターにも抑えている感情があるんだと分かる。エリーが抑えているのはレズビアンであること、街を出て広い世界を知りたい、共感しあえる相手を見つけたい、ということですよね。
『日の名残り』は1989年刊行のカズオ・イシグロ著の小説。1994年にアンソニー・ホプキンス主演で映画化されました。
出典:IMDb
小説は読んでいませんが、映画版を見ました。
アンソニー・ホプキンス扮するスティーブンスは、ダーリントン卿の屋敷に長年仕えている執事です。ダーリントン卿が亡くなり、新たな主人となったアメリカ人のファラディから休暇をもらったスティーブンスは、旅に出ます。屋敷の女中頭だった、ミス・ケントンに会うためです。
ミス・ケントンとスティーブンスは想いあう関係だったのに、スティーブンスは執事として仕えることを優先し想いを伝えることはなかった。それで、ミス・ケントンは望んでいなかった相手と結婚してしまうんですね。スティーブンスは、自分の想いを確かめるように、回想しながら旅をすすめます。2人の再開はどんな結末に……。という感じで物語は進みますが、アスターが評したように、スティーブンスの感情の抑え方がすごくてすごくて。ラストの屋敷シーン、晩年だからこその諸々が折り重なった感じが絶品です。
登場人物それぞれが本当の想いを抑えている。アスターが本当は望まない相手と付きあっている点など「日の名残り」からの影響が見てとれますね。
映画からの引用でいえば、エリーのお父さんが見ている映画の数々。
ちなみに、お父さんが駅で働いていることには意味があります。アメリカにおいて鉄道と中国系移民には関係があるんです。
1869年に開通したアメリカ最初の大陸横断鉄道。その西側からの建設に従事したのは中国系の移民だったんです。奴隷制度の廃止により労働力が不足。それを補うために中国からカリフォルニアに10万人以上が渡ったといいます。その移民たちを中心に、アメリカの中国人コミュニティが形成されることになるんです。台湾からの移民を両親にもつアリス・ウー監督ならではの、背景設定ですね。
電車のように脱線しましたが、本線はお父さんが見ている映画。
娘ともロクに話さず、たいせつな話をしても「ここからが山場(best part)だ」とさえぎってしまう。見ているのがラブロマンス映画ばかりなところからも、妻を引きずっている感じがして切ないですよね。
お父さんが見ていた映画、まずは1946年の映画「カサブランカ」。
「カサブランカ」
出典:IMDb 「カサブランカ」は「ラ・ラ・ランド」にも影響を与えています。
1941年のフランス領モロッコの都市カサブランカが舞台。カサブランカは当時、ドイツ侵攻の戦火からアメリカへの亡命をめざす人たちの中継地点でした。
アメリカ人のリック(ハンフリー・ボガード)と、かつての恋人イルザ(イングリッド・バーグマン)、そしてイルザの夫ラズロによる三角関係を中心としたラブロマンス映画。
お父さんがベストパートといったのはラスト。リックとカサブランカの警察署長が「美しい友情のはじまりだな」と言いながら霧の中へ去っていくシーンです。
出典:IMDb 切ないシーン。ぜひ見て確かめてください。
ラブロマンスでありながら、友情への言及で終わる。この構造、引用されていますよね。
エリーとポールの関係もそうですが、ポールとエリーのお父さんの友情も暗示しているようです。ポールは、チュウ家の2人に心を開かせたんですから、人たらしの才能がありますね。大家族育ちだから、人とぶつかりながら関係を築くのが当たり前だったんでしょう。
「英語が苦手だから……」「僕もですよ」というやりとりには、グッときました。
次は、ヴィム・ヴェンダース監督の「ベルリン・天使の詩」(1988)。
「ベルリン・天使の詩」
出典:IMDb
ごめんなさい、見ていないのであんまり言及できません。時間なかった……。天使として永遠の命をもつ主人公がサーカスの踊り子に恋をして人間になるというあらすじです。
「ヒズ・ガール・フライデー」「フィラデルフィア物語」
1940年にアメリカで公開された2本のラブコメも見ていました。「ヒズ・ガール・フライデー」と「フィラデルフィア物語」です。
これも見ていません! ごめんなさいと心で唱えながらWikipediaを参照しますと……。この2本は「スクリューボール・コメディ」とよばれるジャンルの映画です。住む世界の異なる男女のテンポのいいセリフで進むラブ・コメディを総称してスクリューボール・コメディと呼ぶそうです。
スクリューボールは野球の変化球のことですね。元中日の山本昌投手の代名詞。
オタクで友達がいない文学少女(エリー)、アメフト部の補欠(ポール)、美人で人気者(アスター)という接点のなさそうな3人のラブ・コメディという点で「ハーフ・オブ・イット」もスクリューボール・コメディですね。
次は……
まだあるんかい! まだあるんです。
そして、ここからは「ハーフ・オブ・イット」自体のベストパートと深く関係してきます。
教会で砂利会社のボンボン・トリッグからプロポーズを受けるアスター。「愛は寛容であり、愛は情深い……」とはじまる聖書の「コリント人への手紙」第13章4-7節が読み上げられ、2人の結婚が決まろうとする瞬間、エリーが「違う!」と異を唱えます。
愛は厄介で
おぞましくて利己的
それに大胆
引用を積みかさねてきた「愛」について、エリーが自分自身の言葉で語ります。
2階から皆のいる1階に降りていくエリー。自分とは住む世界が違うと思っていたアスターに、アメリカの白人たちの中に自ら飛び込んでいきます。階層が違う、線をまたいでいるという構図は「ハーフ・オブ・イット」で多用されました。エリーが他人を地獄だと考えて、一線引いていることの象徴ですよね。
出典:IMDb
出典:IMDb
アスターは、メッセージの相手がポールでなくエリーだと気づきます。
「あなただったのね……」
ここでお父さんが見ていた映画と繋がります。チャールズ・チャップリンが監督・脚本・製作・主演した1934年の「街の灯」です。
「街の灯」
出典:IMDb
チャップリン演じる浮浪者の男が、街頭で花売りをする全盲の女性に恋をします。彼女は、チャップリンをお金持ちの紳士だと勘違いしてしまいます。同じころ、チャップリンは富豪男性の自殺を止めたことがきっかけで彼と仲良くなります。車を拝借して、花売り娘とデートをするようになるので、彼女はチャップリンがお金もちだと信じこみます。
やがて、チャップリンは花売り娘を貧しさから救い、目の手術代を援助するために様々な努力をするようになります。詳細は書きませんが、花売り娘が自分を助けてくれた紳士が、浮浪者であるチャップリンだと気づいた瞬間、こう言うんです。
「あなたでしたのね……」
出典:IMDb
相手のことを勘違いしながら進む点や、好きな人のために懸命に努力する姿なんかも「ハーフ・オブ・イット」で引用されている要素ですね。
そして、教会で結婚(プロポーズ)を妨害するといえば「卒業」です。
「卒業」
出典:IMDb
マイク・ニコルズ監督の1968年の映画。ダスティン・ホフマン扮する大学生ベンジャミンが、仲を割かれた相手エレーヌの結婚式に乱入し、ウェディングドレス姿のエレーヌと逃げるシーンはあまりにも有名です。教会のシーンは「卒業」からの引用。2階から待ったをかけるという流れも一緒です。
出典:IMDb
アリス・ウー監督は「卒業」が本当に好きなんでしょうね。前作「素顔の私を見つめて…」では、より直接的にこのシーンを引用しています。奪われるのはドレス姿のお母さんで、奪うのは娘のウィルなんですが、そのあと2人でバスに飛び乗るというところまで、まんま再現しています。
出典:IMDb
「卒業」には、ベンジャミンがエレーヌの乗るバスを走って追いかけるシーンもあります。これも「ハーフ・オブ・イット」で電車を追いかけるというかたちで引用されていますよね。
とまあ、よくこれだけ引用を詰め込んだなと思える「ハーフ・オブ・イット」。
でも、劇中の登場人物を、そして見ている僕らの心を大きく動かすのは、引用ではなく彼女、彼の心からの言葉、行動なんですよね。
他人という地獄をくぐり抜けて見つける、自分の言葉
カフェでのデートで最終的にアスターの心が動いたのは、エリーの気の利いたメッセージではなくポールの「友だちじゃ嫌なんだ」というあまりにもストレートな言葉です。
教会で、アスターの婚約を心の底から止めたいと願ったエリーの口から出たのは「愛は厄介で、大胆」というエリー自身の言葉です。
アスターは親から周囲から決められた相手、将来ではなく心から信じられるもの「絵を書く」という自分の未来を望んで、一歩踏み出します。
それぞれが、他人の存在、他人の言葉に触れて苦悩もしながら、本当の自分の言葉、自分の未来を見つけることができたんです。
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結局、3人とも結ばれることはありません。もともとひとつだった相手「ハーフ・オブ・イット」は見つかりませんでした。しかし、自分自身の半身ともいえる言葉と、望む未来を見つけることができたんです。
誰かを好きになることで自分が変わる、成長する。
言ってしまえばこれだけの話です。「ハーフ・オブ・イット」はベタの連続です。ラブレターを代筆する、教会で結婚を妨害する、列車を走って追いかける。たくさんの作品で繰りかえされてきたことです。
しかしですね、ベタは悪いことでしょうか。
誰かに恋する。自分が自分じゃなくなる。それ自体、プラトンの時代から人が悩み、苦しんできたベタ中のベタでしょう。
誰しもが経験しうることですよね。だから、「ハーフ・オブ・イット」は高校生の話でありながら、恋をして、自分が変わったことのあるすべての人のための映画なんですよ。
物語の終わりで、ポールはエリーの乗る電車を走って追いかけます。映画で見たときは、その行為をバカにしていたエリーでしたが、もう、バカになんてしません。
ちなみに、あの時見ていた映画は「野獣一匹(原題:Ek Villain)」という2014年のインド映画です。
出典:IMDb
エリーはアスターに恋をして、ポールという友人ができて変わったんです。
ポールに見送られたあと、エリーは電車の中の他の乗客を見渡します。彼女の目にうつっている他人は、もう地獄ではないはずです。
自分が変わることで、見えている世界が変わったんです。
「ハーフ・オブ・イット」を見たあとのなんとも爽やかな余韻は「恋をして自分が変わった経験を、記憶を肯定できる」からだと思うんです。
アリス・ウー監督は今回、こんなメッセージを語っています。
「終わりは始まりにつながる――それが希望です」
恋をして、自分が変わる。
今までの自分の終わり、新しい自分の始まり。
今までの自分には戻れません。それならば、新しい自分を、世界を肯定して受け入れたほうが幸せでしょう。それを、希望というのではないでしょうか。
高校生だろうと、中年だろうと、晩年だろうと。変化を受け入れて肯定することで、こう思えるのではないでしょうか。
面白いのは、これからだ。
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[イラスト]清澤春香