「ジョーカー」は観る人によって感想が異なる不思議な映画だ。
主人公アーサー・フレックに自分を投影し、作品の危険性に言及する人もいれば、社会の分断を描いた現代への警鐘だという人もいる。音楽や構成の美しさを語る人もいれば、過去のオマージュ作品との巧妙な結びつきを称賛する人もいる。
多種多様な感想が巷に溢れ、ツイッターやWEBのレビューは混沌としている。この状況は、今回の映画「ジョーカー」の舞台ゴッサムシティのようである。
出典:IMDb
本作は、アメコミ界でカリスマ的な人気のヴィラン(悪役)、ジョーカーの生誕を描いた作品だ。バットマンシリーズの「ダークナイト」でヒース・レジャーが演じた、サイコパスで無敵感あふれるジョーカーとは異なり、重々しいヒューマンドラマとして描かれている。
出典:IMDb
「ジョーカー」は、主人公アーサー・フレックの笑い方が印象的だ。コメディ作品の「ハングオーバー」シリーズなどを手掛けた本作の監督・脚本のトッド・フィリップスは、インタビューで劇中に出てくる3つの笑いについて答えている。
映画の中には、さまざまな笑い方が存在している。アーサー・フレックの疾患から起こる“止められない笑い”、周囲の人々の一部であろうとする“作り笑い”。そして、最後に彼がアーカム州立病院の一室で見せる、この映画の中で唯一の彼の“心からの笑い”である。
Los Angelestimes
劇中に出てくるアーサー・フレックの笑い方は、それぞれ重要な役割を果たしている。
①疾患から起こる“止められない笑い”
アーサー・フレックは強いストレスに置かれた時に、突発的に止められない笑いが出てしまう。バスで笑わせていた子供の母親に無下に扱われたとき。地下鉄で3人のビジネスマンに女性が絡まれている場面に居合わせたとき。ライブハウスの舞台に上がったとき。バットマンとなるブルース・ウェインの父親トーマス・ウェインに母を否定されたとき。
出典:IMDb
出典:IMDb
その後も、幾度となく大事な場面で“止められない笑い”が出てしまう。
この疾患は幼少期に受けた虐待の後遺症が原因であり、情動調節障害やトゥレット障害と呼ばれる疾患に近い。この笑いがきっかけで、彼はどんどん社会から疎外されていく。
②周囲の人々の一部であろうとする“作り笑い”
本作は、主人公のアーサー・フレックが、ピエロのメイクを施しながら、手で自分の口角を上げて“作り笑い”の練習をしているシーンから始まる。
出典:IMDb
その瞳から、とめどなく涙があふれてくる。
冒頭から観衆の心をつかむ、とても美しいシーンだ。
出典:IMDb
もう一つの“作り笑い”は、同僚の小人症ゲイリーを同僚たちがネタにしたときの笑いだ。アーサー・フレックは周囲に合わせて声高らかに笑い、職場から出た瞬間に真顔に戻る。彼が一番冷静に見えた場面だった。
出典:IMDb
③“心からの笑い”
ラストシーンで、アーカム州立病院の一室で見せる、カウンセラーと対峙したときのアーサー・フレックの笑み。アップで映る彼の笑いの演技が僕は一番好きだ。(これはどこにも画が無かったので、映画館で観ていただくしかない)
アーサー・フレックがマレー・フランクリンのトークショーの妄想から覚めたときに思わず出る、幸せそうな微笑み。隣の部屋に住む女性ソフィー・デュモンドとのデート中にみせる、優しそうな微笑み。クライマックスで、パトカーの中からゴッサムシティを眺めるときの微笑み。これらも、幸せそうに笑っていたが、監督は最後の“心からの笑み”は、他とは異なるとインタビューで答えていた。
出典:IMDb
アーサー・フレックを演じるホアキン・フェニックスの笑いの演技は天才的だ。その表情を追い続けるだけでも、この映画を観る価値がある。
本作を観るまで、漠然と「笑いは、楽しい時にでる幸せな感情表現」とポジティブな意味で捉えていた。この作品を深く知るために、笑いに関して言及された書籍をいくつか読むと、全く異なる側面が見えてきた。
例えば、古代ギリシャ時代のアリストテレスやプラトンは笑いへの考察として、優越理論を唱えている。優越理論は、「他人の愚かさに自分が優越感を感じることが笑いの原理」と説明している。
また、19世紀フランスの哲学者アンリ・ベルクソンは書籍『笑い』を執筆した。この書籍では、「笑いは、生命ある人間に機械的なこわばりが生じた結果である」と定義している。また、ベルクソンは「笑いとは、共感する心とは正反対の位置にあり、罪のない者を襲い、罪ある者を逃す」「笑いの役目は屈辱を与えて脅かす人々を分断する表現」と論じている。
出典:岩波文庫
この時代の笑いに関する論説はポジティブなものではなく、「優越」「屈辱」「脅威」と攻撃的でネガティブな解釈だった。
これらの考察に触れた後、本作を振り返ってみると、監督が語っていたアーサー・フレックの3つの笑い方に加えて、もう1つ気になる笑いがある。
それが、アーサー・フレックに向けられた“嘲笑”だ。
出典:IMDb
アーサー・フレックに向けられた最初の“嘲笑”は妄想の中だ。マレー・フランクリンのトークショーで住まいを聞かれ、「母と住んでいます」と答えた後、聴衆たちがアーサー・フレックを笑った。
地下鉄のビジネスマンたちは、笑いが止まらない彼をバカにしたように笑った。
マレー・フランクリンは、トークショーで彼をネタにして笑った。
これらは、哲学者たちが論じていた、「笑いとは、他人の愚かさに自分が優越感を感じ、屈辱を与えて脅かすこと」そのものだった。
出典:IMDb
マレー・フランクリンに対し、「僕を笑いものにするためにここに呼んだんだろ」と感情的になっていたように、笑わせるのと、笑いものにされるのは大きく異なる。
アーサー・フレックがジョーカーになったきっかけは、直接的な暴力や仕事がなくなる悲運より、彼に浴びせられた“嘲笑”の影響が大きかった。
そして、彼を嘲笑したビジネスマンとマレー・フランクリンを銃で撃ち、沸き立つ聴衆の中で自分の血で笑顔を作り、笑われる側から笑う側になったのだ。
出典:IMDb
この考察がふと浮かんだとき、僕は背筋がゾクッとした。
初回に鑑賞したときは、「理不尽な扱いを受けた経験があれば、誰でもジョーカーになる」とアーサー・フレック側の心境に立ち、人の心を煽る危険な映画と感じていた。「アーサー・フレックに共感できない人は、挫折をしたことが無いエリートだ」とさえ思っていた。
しかし、アーサー・フレックがジョーカーになった引き金が、社会から受けた理不尽な扱いや暴力だけではなく、“嘲笑”だったとすると、僕らは、彼を笑った地下鉄のビジネスマンやマレー・フランクリンの方が近いかもしれない。アーサー・フレックのような経験はないが、人を“嘲笑”した経験は誰にもあるだろう。他人の愚かさに優越感を感じ、その様子を笑うことは、僕らの日常にあふれている。
ゴッサムシティでピエロのお面をかぶった聴衆のデモが起きている状況で、ミュージアムの中でチャップリンの「モダンタイムズ」を見て笑っている特権階級たちのように、映画「ジョーカー」を見に来た人の大半は、世界で起きているデモとは遠い世界にいる。そして、僕らはお金を払って「ジョーカー」を鑑賞している。
出典:reddit
この映画は、「誰もがジョーカーになりうる」ではなく、「いまこの映画を観ている君たちがジョーカーを作り出すのだ」と、笑いの危険な側面をコメディ出身のトッド・フィリップス監督は伝えたかったのではないだろうか。
もうひとつ、監督が「誰もがジョーカーになりうる」を意図していないと感じた考察を上げよう。
前半のアーサー・フレックが闇に落ちていくパートと、後半にかけて鮮やかにジョーカーになって行くパートを対比すると、トランプに入っている対となる2枚のジョーカーのメタ的な描写だと感じる。
出典:gigazine
トランプのジョーカーが生まれた経緯は諸説あるようだが、初期のトランプにはジョーカーが入っていなかった。その後、19世紀後半アメリカで最高位の切り札として追加されたらしい。1887年イギリスのユニオン・カード・アンド・ペーパー社がカードを売るときに、真ん中にEXTRA JOKERと書いたカードを入れたという説や1857年にニューヨークのサミュエル・ハート社が作成した「ロンドンクラブ」というカードが起源という説など、その生誕は謎に包まれている。
ジョーカーはトランプ1セットに2枚入っていて、それぞれ白黒の絵柄とカラフルな絵柄に分かれている。ルールでは、白黒よりもカラフルなジョーカーが強い設定になっている。
この背景を知ると、「モノクロなアーサー編」と「カラフルなジョーカー編」の2部がトランプの2枚のジョーカーのように構成されているようにも見える。
序盤の重く沈むアーサー・フレックの描き方は、若干単調に感じるくらい、街並みにも出てくる人物にも色彩を感じない。物語は進み、地下鉄でビジネスマンを撃ち、銃を構えながら機械的な早歩きで残った一人を撃った後、トイレでゆるやかに舞う。この場面から、ジョーカーへの覚醒が始まり、彼の世界に色がつき始めてくる。
出典:IMDb
また、階段の使い方も印象深い。序盤は、暗く長い階段を、肩を落として上るシーンばかりでてくる。
出典:collider
地下鉄でビジネスマンを撃ち、母を殺し、同僚を殺し、髪を緑に染めた後は、意気揚々と階段を下りるシーンに変わる。
出典:IMDb
白黒の世の中から、光を求めて階段を登る足取りは重い。覚醒した後は、軽やかにステップを刻み、カラフルな世界に堕ちていく。
序盤、バスから外を見ているシーンと、マレー・フランクリンを撃った後にパトカーから暴徒たちが暴れるゴッサムシティを見るシーンも同じ構図で対比させていた。
出典:IMDb
出典:IMDb
トランプのジョーカーからも本作品の着想を得ていたのであれば、ジョーカーは誰もが(ノーマルカード)なれる存在ではなく、もともと白黒だったジョーカー(アーサー・フレック)がカラフルな最強のジョーカーに変わっただけなのだ。なんども言うが、「誰もがジョーカーになりうる」は意図されていないのだ。
最後に、複数回見て、鑑賞した人と会話をしても結論が出なかった解釈について書きたい。
アーサー・フレックは、なぜマレー・フランクリンのトークショーに出演する前に自害の予行練習をしていたのか?
一番憧れていたマレー・フランクリンの前で、「ノックノック」のジョークの後、喜劇のように自害するつもりだったのか? それとも、会うことが決まった時点で、彼を殺すつもりだったのだろうか?
出典:IMDb
僕の考察は、トークショーの途中までアーサー・フレックは自害する予定だった。しかし、マレー・フランクリンから幾度も“嘲笑”を浴びせられた結果、ジョーカーになる最後のピースとしてテレビ中継中に彼を撃った。本来は、ジョーカーではなくアーサー・フレックとして、ノートに書いてあった「この人生以上に硬貨(高価)な死を望む」[I hope my death makes more cents (sense) than my life.]を実現するために、ドラマチックに自害し、世の中に自分の存在を刻もうとしていたのではないだろうか。
また、アーサー・フレックがアーカム州立病院の一室にいるラストシーンの解釈も意見が分かれる。
監督のトッド・フィリップスは、あのシーンの笑みを「唯一の彼の“心からの笑い”」と語っている。
そのことから、実は「ジョーカー」の物語は、晩年のジョーカーが思いついた自分の出自の妄想なのでは? という説もある。確かに、トーマス・ウェインをピエロのお面をかぶった暴徒が殺したことがきっかけで、息子ブルース・ウェインがバットマンになったというエピソードはとってつけた感も強い。また、アメコミや映画バットマンシリーズで描かれているジョーカーは、ほぼバットマンと同年代に見えることから、本作のアーサー・フレックとブルース・ウェインとの年齢差に違和感がある。
地下鉄で絡んできた3人目の男を追って、駅の階段で弾切れのカチッカチッツという音がするまで撃った。その後、マレー・フランクリンを撃った時の銃弾は誰から調達したのだろうか。同僚のランドルから銃を渡された紙袋には銃弾が余分に入っていたのだろうか。
SNSで話題になっていた、序盤のカウンセラーのオフィスの時計とアーカム州立病院の時計の時刻が、11時11分だったというのも何かの意図だろう。
11時11分については、「アス」の街角のクリエイティブの映画評で語られていて、数字の所以は聖書のエレミヤ書11章11節中にある「それゆえ主はこう言われる、見よ、わたしは災を彼らの上に下す。彼らはそれを免れることはできない。彼らがわたしを呼んでも、わたしは聞かない」(出典:Wikisource)」とされている。
この1111の数字から想像するに、「ジョーカー」の作品自体が、観衆が逃れることのできない「災い」(=「ジョーカー」の鑑賞後に、僕らが解釈に悩ませられること)が監督の真の狙いだったのかもしれない。
出典:buzzfeed
謎は多いが、ジョーカーはあまり映画知識がない人でも感情を揺さぶられる最高の作品だった。
過去映画のオマージュや社会性の描写など、映画の知識を重ねてきた方々の深みも捉えつつ、普段あまり映画を観てこなかったライト層(「タクシードライバー」や「キングオブコメディ」を観ていない、アメコミ系の知識もない僕のような人)でも鑑賞後に考えさせられる映画だ。
終わりに、トッド・フィリップス監督と主演のホアキン・フェニックスの言葉を残したい。
「この映画を観て、“あっ、分かった”という人がたくさんいますよね。僕は彼らが正しいかどうかは言いませんけど。“分かった、彼はジョーカーじゃなくて、ジョーカーに影響を与えた男なんだ”と言われれば、“その見方は面白いですねえ”と。そしたら“どうして?”って思われるんですが、(アーサーとブルースの)年齢差とか、そのほかにもいろいろ、僕からすると“面白いですねえ”ですよ」(トッド・フィリップス監督)
THE RIVER
「今回の脚本やみなさんの反応で面白いのは、みんなが別々の感覚を抱くところ。あるものが何を意味していて、どこが現実でどこがそうでないのか、みなさんが全く違うことを考えるところです。だから、もし僕自身の意見があったにせよ、それをお話しするつもりはありません。普通の映画にはない形で観客を作品に参加させることが、この映画の面白さのひとつだと思っていますから。映画に参加して、どれが現実でどれがそうでないのかを判断するのが楽しいんですよ」(ホアキン・フェニックス)THE RIVER
主観的でしかない善悪を僕らが発信することが、ジョーカーが作ろうとした「混沌とした世界」の一部になっているのかもしれない。
彼らが作り出したジョーカーは、公開後のレビューやSNSをみてこう言うだろう、
「あなたにはわかりませんよ(You wouldn’t get it)」
—
イベント:橋口幸生の「歴史的視点で見るジョーカー」のお知らせ
11月11日(!!!!)に、六本木でイベントをやります。
テーマは「ジョーカーを1111倍楽しく観る方法」。
原作コミックやヒーロー映画の歴史を紐解きながら、「ジョーカー」の魅力を橋口幸生が語り尽くします。
興味のある方、「街クリ映画部」にご入会の上、ご参加ください。