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「ラスト・ムービースター」。死にそうなジジイムービー、というジャンル

加藤広大 加藤広大


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21世紀とは、現在地球上に居る人間がほとんど死ぬ時代区画である。WHOの調査によれば世界の平均寿命は72歳だそうなので、あながち間違いでもないだろう。筆者も、今これを読んでいるあなたも、おそらく21世紀中には死んでしまう。

もっとも、不治の病を毎食後の飲み薬で治せるようになるとか、シャンプーを買い換えるくらいの気軽さで臓器を新品に入れ替えられるようになるとか、科学や医学の発達によって寿命が延びることもあるかもしれない。

とはいえ、どれだけ金を持っていようが、健康に気を使っていようが、最終的に心臓が停止してしまうことは誰も避けられない。その点では、人間は生まれた時から死への準備をしているようなものである。

ここでもう一度。21世紀とは、存命している俳優や映画関係者が、ほぼ全員この世から消えてしまう100年でもある。直近だけでもルトガー・ハウアー、ピーター・フォンダを筆頭に、多くの巨星が逝去した。ここ数年間の訃報も加えれば、天に昇ったスターたちで豪華な星図が作成できるほどだろう。

いわゆる往年の(または今でも活躍している)映画スターたちは、皆結構いい年である。なので、「もうだいぶご高齢なんで、いつ逝ってもおかしくない俳優」が出演した映画は、彼等(彼女等)にとって遺作になるケースが多い。

今回とりあげる「ラスト・ムービースター」の主演であるバート・レイノルズもまた、 昨年の9月6日に亡くなっている。本作は彼の遺作である。

「死にそうなジジイムービー」というジャンル



出典:IMDb

「だいぶいい年なんで、いつ逝ってもおかしくない俳優」が増えてきたからかどうかは知らないが、ここ数年は「死がそう遠くない爺さんが過去を振り返ったり、精算したりする」構造をもった傑作が制作されている。その筆頭はハリー・ディーン・スタントンの遺作になった「ラッキー」だろう。ハリー・ディーン・スタントンの人生をなぞるかのように、一人の偏屈な老人が死を意識し、受け入れていく様を見事に描き出した。

また、クリント・イーストウッドも今年「運び屋」を公開している。イーストウッドは存命だが、映画の中身は不良老人アール(当然イーストウッド)が、人生における「間に合わなかったこと」を埋め、過去の出来事にひとつひとつケリをつけていくという、ある意味で「人生の終わりに向けた準備」の話だ。

「ラスト・ムービースター」もまた、上記と似た構造をもった「死にそうなジジイムービー」である。映画内で登場する言葉を使うならば、かつて「生きる伝説」と呼ばれるほど一斉を風靡した映画俳優(だが今は役者をやってるものの仕事がないのか、引退したのかはわからないが、とにかく孤独な)ヴィック・エドワーズ(バート・レイノルズ)が、そう遠くない死に向けて、自身と向き合い過去を精算していく。

「死にそうなジジイムービー」のなかでも、逝きそう度はかなり高い



出典:IMDb

ジャンル映画では「Aという作品は、そのジャンルのなかでどうなのか」と立ち位置を比較することができる。例えば「ゾンビ映画」だとすると、ゾンビは歩くのか、走るのか、知能はあるのか、ないのか、あったらどの程度なのか、いかにして感染するのか、血糊の多寡、武器の種類、ホームセンターやデパート、スーパーなどでのアポカリプス集団万引はあるのか、などを持ち出して分類するようなものだ。

で、もし仮に「死にそうなジジイムービー」なるジャンルがあるとしたら、内容を判定する方法として、ひとつの指標になるのが「どのくらい逝きそうか」というジジイの老い先短さを査定した「逝きそう度」であろう。

「ラッキー」は、冒頭でラッキー(ハリー・ディーン・スタントン)の判で押したような日常が提示される。彼は朝起きるとヨガをして、コーヒーを飲みタバコを吸い、いきつけの店でクロスワードパズルをする。一旦家に帰ってテレビを見て、夜はバーに出かける。ラッキーの一挙手一投足は緩慢で、いつ倒れてしまってもおかしくない(実際に倒れる)。何より、ハリー・ディーン・スタントンの見た目が既に逝きそうである。よって「ラッキー」の逝きそう度はかなり高いと算出できる。

いっぽう「運び屋」のアールは、いくつになっても助平心を忘れないエロジジイではあるが、やはり足元が覚束ず、よろよろっとした動きをしている。ただ、車の運転は問題なくできる、というか違法なブツの運び屋としては相当優秀なので、ラッキーよりも健康だといえる。その点では、逝きそう度はそこまで高くない。では本作のヴィック・エドワーズはどうか。ラッキーと同じくかなり高い。

ヴィック・エドワーズの「逝きそう度」は



出典:IMDb

上述した2作品と比較して、「ラスト・ムービースター」の冒頭は死に向かってゆっくりと進んでいく孤独な老人の悲壮感や、有名であった自分が忘れられていくやるせなさに満ち溢れている。

映画のはじまりは、ヴィックが出演していたTVショーの映像だ。彼はジョーク交じりでカメラテストの話をする。話は大受け。全盛期であろう映画スターの姿は、セックスシンボルであり、マネーメイキングモンスターでもあったかつてのバート・レイノルズに覆い焼きレイヤーのように重なる。

突如、カメラは気難しそうな老人のアップへと切り替わる。全盛期から数十年過ぎたヴィックの顔には、深い皺が刻まれている。彼は飼っている犬を獣医に診せに来ているのだが、肝臓が機能していないので、最早施す術はないと宣告されてしまう。

長年連れ添ったであろう老犬と別れたヴィックは、形見のリードとともに帰宅する。彼の家はとてつもなくデカく、写真や受賞トロフィーなど過去の栄光を感じられるアイテムがいたるところに飾られている。しかし、緩慢な動きを見せる老人とは、余りにも不釣り合いだ。老人が存在する以外の空間には、虚しさと孤独感が充満している。

ヴィックはこの広い家に一人で住んでいる。何室もある部屋のなかで、彼が使うのは一部屋だけだ。全盛期の頃にはハイになる薬物でも常備していたであろう棚には、今では持病の薬が筒状のピルケースに入って、何本も並んでいる。そして、ケースを開けるのにも一苦労している有様だ。

老人と老犬の別れ、そして、否が応でも過去の栄光を思い出させる装置としての住処は、彼が今でも昔を忘れられないことによって、娑婆に居ながら「囚われている」ことを雄弁に語る。もう、金の心配がなさそうな点以外にはまったく救いがない。といった感じで、長年連れ添ったであろう犬の死を嚆矢として、次々と逝きそう度は高まっていく。

今にも逝きそうな彼のもとに、一通の手紙が届く



出典:IMDb

物語はここから大きく動く。かつて一斉を風靡した映画スターの元に、クリント・イーストウッドやロバート・デ・ニーロも招待されたという映画祭の招待状が届く。華やかな舞台からは随分と無縁だったヴィックだが、友人の勧めもあり招きに応じることにする。

しかし、実際のイベントはカメラのフラッシュを一般人の人生100回分も浴びながらレッドカーペットを歩くような豪奢なものではなく、地元の映画オタクたちが手弁当でやっている「趣味程度の」映画祭だったのだ。ヴィックは自分で参加を承諾したはずなのに「騙された」とキレてブラントンをがぶ飲みし、彼の映画が大好きで、心尽くしの映画祭を企画し招待したシネフィルたちをこき下ろす。

翌日、不貞腐れたヴィックは帰路につくのだが、映画祭の開催地は彼の生まれ故郷であるノックスヴィルに近かった。運転手をつとめる、あらゆる意味でハードコアな少女リル(アリエル・ウィンター)に行き先の変更を告げ、生家を皮切りとして、思い出の場所を巡ることにする。

全く尊敬できないジジイだが、ジジイ特有のチャーミングさが適量、振りかけられている



出典:IMDb

ヴィック・エドワーズというジジイの傍若無人ぶりは、結構どうしようもないし「そりゃあんた、孤独になりますわ」と納得してしまうほどだが、根っからの「イヤな奴」と斬って捨てられない魅力がある。

偏屈で素人の映画好きを見下すようなイヤなジジイだけれども、女を買おうとしたらバイアグラがないことに気付いて絶望するとか、SNSの話をされて全く意味がわからない顔をしたりだとか、ヨボヨボのくせに酒の吸い込みは凄まじいだとか、酔っ払って奇行に走ったりだとか、老人特有の哀しみを含んだ滑稽さが、ヴィックには適量振りかけられている。

要は「しょうもねえジジイだなコイツ」といった「なんだか憎めない」ジジイ像が見事に出来上がっていて、バート・レイノルズはどうしようもないけれど、チャーミングなジジイを過不足なく演じている。また、映画祭サイドの人物たちを演じるアリエル・ウィンターや、クラーク・デューク、エラー・コルトレーン、ニッキー・ブロンスキーも、バート・レイノルズに対して一歩も怯まない。

決してディスではないことを明記したうえでサラッと書くが、本作は脚本が弱い。駄目な脚本をもらってしまった演者は、基本的に魅力が半減と言わないまでも、減る。だが、「ラスト・ムービースター」では意外にも、登場人物の多くが魅力的だ。

つまり、映画自体もヴィックと同じく、「見方によってはダメダメなんだけど、なんだか憎めない」仕上がりになっている。某トマトサイトでも、クリティックによる評価は52%と真っ二つに割れている。ヴィックも映画も「なんだか憎めない」と思えるかどうかで、本作の評価は大きく変わるだろう。

本作の「単純に斬って捨てられない」魅力は、ヴィックだけでなく映画全体に通底している。「ラスト・ムービースター」は「ラッキー」や「運び屋」と比較せずとも傑作とは言えない出来栄えだが、決して駄作でもない。

「ラスト・ムービースター」が「見方によってはダメダメなんだけど、なんだか憎めない」作品となった理由を解説するにあたっては、脚本や役者のスキルなど、細々した要素を抜き出してひとつひとつ丁寧に説明していく手もあるが、一言「本作の監督・脚本は『デトロイト・ロック・シティ』のアダム・リフキンである」と説明するのが最も短く、的確なのではと思うのだが、どうだろうか。

もうひとつの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」



出典:IMDb

トリビアとして散々言われているが、バート・レイノルズは「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」への出演が予定されていた。役柄はスパーン映画牧場の牧場主、ジョージ・スパーンである。残念ながら出演は叶わなかったが、主人公リック・ダルトンには、バート・レイノルズが投影されている。

「ラスト・ムービスター」もまた、バート・レイノルズが色濃く投影されている。ヴィックが何度も「選択を間違った」と口にするように、ヴィック・エドワーズとバート・レイノルズは、劇中でかなりのシンクロを見せる。バート・レイノルズ自身も、かつてジェームズ・ボンドやハン・ソロ役のオファーを断っている。つまり「選択を間違えた」わけだ。

ほかにも多くの部分がシンクロし、何なら過去のヴィックと現在のヴィック(つまり過去のバート・レイノルズと現在のバート・レイノルズ)が会話をするシーンも繰り返される。

選択を間違え続けた男は、「あの時、ああしておけばもっと」と、過去に囚われ続けるしかない。自分や誰かが違う選択をしていればあり得たかも知れない未来は、映画産業の中心地で繰り広げられたお伽噺である「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」ともシンクロする。

だが、ヴィックがどういった決断をするのであれ、選択ミスをしてきた過去は変えられない。ただ、次の選択によって未来は変化する。史実をもとにしていない「ラスト・ムービースター」はここに残酷さと、希望がある。

三度繰り返すが、21世紀とは、存命している俳優や映画関係者が、ほぼ全員この世から消えてしまう100年でもある。だが、映画という「もしも話」のなかで生きている登場人物たちは消えない。そして、我々が「むかしむかし、こんな映画ありましたよね」と話すとき、ルトガー・ハウアーもピーター・フォンダも、そしてバート・レイノルズも、ヴィックがかつての自分や台所に立つ母親を幻視したように、鮮やかに目の前に蘇る。

「忘れ去られない」ことが幸か不幸かは当人以外にはわからないが、少なくとも、故人の作品について少しでも触れた経験があるのであれば、我々は言葉を費やすべきだ。故人についての思い出を話し合ったり、書き記すことは弔いとしての鉄板行為だし、もしかしたら、誰かがこの文章を目にして、バート・レイノルズと初めて出会うことだってあるかもしれない。そうなったらとても嬉しい。たとえ語られる対象が「選択を間違った」出演作だとしてもだ。

本作への出演が、バート・レイノルズの選択ミスだったかについては、某トマトサイトを見る限り二分されているが、筆者を含め、過去に拘泥するクリティックやレビュワーに出番はない。過去に生きるヴィックと対称的に配置された、今を生きるリルのような若い世代が、後々正しい判断をくだすだろう。


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[イラスト]清澤春香

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