憧れて憧れて僕らは今日まで生きてきた。
さて、確かにイタい人たち満載でいやな話ではあるのだけれど、『カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生』の読後感に比べると、この物語には救いがあります。
あの頃の自分は今の自分を許してくれるのだろうか。その問いかけの中で彼は生きてきました。大人になるに連れあの頃の自分との対話はどんどん減っていき、たまに奥田民生なんて恥ずかしいと思いながらも、その都度撤回し、奥田民生なるものを目指し続けました。
そしていつの間にか、有名編集者として名を馳せるようになるわけですが、それが彼の望んでいた場所なのかはわかりません。でもその強い憧れがこうして連れてきた場所なのは確かです。彼が奥田民生に憧れてなければ、その場所にいることはなかった。でも、いつか自分が奥田民生に憧れていたことなんて忘れてしまうかもしれない。そんなこともあったなぁって、誰もが風化させてしまうように。
でも彼はラストで立ち食いそばを食いながら、いつかそこにいた奥田民生に謝りながら奥田民生への精神を忘れず生きようとしている自分と再会するのです。その時の自分に再び耳を傾けたのです。偉くなっても、どこに行っても、吉そばで天ぷら蕎麦を食えば彼は奥田民生に憧れていた自分に出会える。強い憧れがあったからこそ、戻るべき場所が彼にはあるです。それが救いのように感じて、だから主人公のコーロキと一緒に泣いてしまいました。
自分もまたコーロキのように強い憧れがあって、あの人みたいになりたいと思い続けて、なんだかんだで今映画のレビューをこうして書いているわけです。水原希子とディープキスができないかわりに文章で絡んで、妻夫木聡じゃ共感できないとほざきながら、確かにそう思ったのは事実なのだけれど、この映画で別に言いたいことなんて本当はなくて、ただきっと仲間に入りたかっただけなんです。この映画を撮りたかっただけなんです。
なんとかこの映画に関わろうと無理やり文章をほじくり出していただけです。それが今の自分の精一杯だ。
でもやっぱり映画が撮りたいし、作品を作りたい。人の作品にとやかく言いたくない。
ああ、憧れってなんて煩わしいのだろう。映画なんて別に自分が撮らなくたっていいじゃないか。これからも奥田民生になりたくて、いつだって「こんなとき奥田民生ならどうするだろう?」と考え続けてしまうのだろうか。それはやっぱりとてもイタいことなのだろうか? でもあの頃の、それは中学生や高校生だった頃なのかもしれないし去年の自分なのかもしれないが、いつも何かに憧れていた自分をまだ裏切れずにいる。あの頃の自分が今の自分を信じている。だったら今こうしてよくわからないコラムを書いている自分も、あの頃の自分を信じてあげようと思う。
この先憧れたちはどこに自分を連れて行くのだろう。田中泰延さんの「文字がここへ連れてきた」ではないけれど、自分は憧れに連れてこられたのだ。この場所に。
中途半端に砕けた憧れの瓦礫は、いつか舗装された道になるのでしょうか。
映画を観た後、どうしてもたべたくなった吉そばの天玉蕎麦。実は自分も蕎麦に思い入れがあって、湯気で目がにじんだ一杯となりました。
イタくても、イタくなくてもどっちでもいいのです。そもそもイタいってなんだ。
スタッフの皆様お疲れ様です。