さて、肝心の「大人のポテトサラダ」群はどうかというと、オーソドックスな「大人のポテトサラダ」以外にも悔しいが美味そうな「大人の柚子胡椒ポテトサラダ」や、大人要素をかけ合わせた「大人のスモーキーポテトサラダ」、理解はできるが納得はできない「大人の濃厚ポテトサラダ」など、ちょいプラス系が多いイメージである。
なかでも私が感動したのは「大人なポテトサラダ」で、まるでポテトサラダが人格を持っているようで楽しい。
とにかく、ことポテトサラダについては、何かしらキーワードを
この気持は分からないでもない。シンプルな物であればあるほど、何かを付け足さないと気がすまない人はたくさんいる。
私はデザイナーなので身に覚えがあるのだが、「ポテトサラダのイラストの上にpotato saladと英語で書いて、吹き出しを付けてその中に、じゃが芋と野菜がたっぷり入った当店自慢の大人のポテトサラダです。と書いてくれ」というような人は実際に居るし、数も少なくないのである。
日本人ならポテトサラダなんて誰でも知っているし、家庭で食べることも多い。給食にだって出るだろうに、つい何かを付けたくなってしまうのだ。「絵だけじゃわからないかもしれない、説明を付けよう、あと、ポテトサラダだけじゃ弱いかもしれない、あ、大人のポテトサラダって良い響きかも」と。
これは恐らく不安の現れで、一種の強迫観念のようなものでもある。ポテトサラダ以外でも、ちょっと街を見回してみれば、世の中は説明過剰である。海外映画の日本版ポスターが良い例だ。よせば良いのにあれこれ説明を付けたがる。
しかし、私はこれを悪癖だとは思わない。
店を出すことになった。メニューを考えよう。レギュラー食材には芋も野菜もハムもある。それならポテトサラダを作ろう。どんなポテトサラダにしよう? 他のメニューとの食い合わせは? 店の酒に合うのか? だとしたら味の濃さは? 他店との差別化は? 皿はどうする? 盛り付けは? 値段は? 一度に仕込む量はどのくらいだ? そういえば名前は「ポテトサラダ」でいいのか? 何か付けた方が良いよな? 何が良いかな? ちょっと気が利いててあまり奇抜じゃない親しみやすいネーミングが良いかな? そうだ、大人のポテトサラダはどうだろう。
この試行錯誤は本当に楽しい。そして一生懸命さが転じて、客観的に物事を観測することができず、お節介にもお客様のことを考えるあまり、そして失敗が怖いからつい無難に走ってしまうことでトホホな感じになってしまう現象は、とてもじゃないけど
と、ここまで書いて、結局人はなぜポテトサラダに「大人の」と付けてしまうのか、という難問は解かれることがなかった。しかし、何かしらの突破口は開けたように感じる。さらに今では「それを聞かないのが大人ってものではないのか」とすら思えるのだから不思議である。知らないことをあれこれ考えてみるのは楽しい。
「大人のポテトサラダ」、大いに結構じゃないか。今度見かけたらしっかりと、度重なる試行錯誤のうえで、敢えて「大人のポテトサラダ」と付けた命名者に報いるためにもフルネームで、最大限のリスペクトと、かつて自身も同じ立場だったという共感と、「お互い頑張りましょう」という共闘の意をも込めて、店員さんの目をしっかりと見つめながらオーダーしようと思う。
おとなのポテトサラダください