人はなぜ、ポテトサラダに「大人の」と付けてしまうのだろう。
ポテトサラダでなくとも、飲食店に入ってみれば、ひとつやふたつは長ったらしい名前が付けられた料理がある。たとえば以下は昨日、某飲食店にて私が食した一部である。
パルメザンチーズのフラン
とうもろこしのジェラート
地鶏もも肉のコンフィ
だいたいの皿は、まるで「ドラえもん のび太の海底鬼岩城」のように「◯◯の◯◯」と命名されている。なるほど、確かにタイトルにシチュエーション的な補足をしたり、食材と調理・加工方法を品書きとしたりすると、容易にイメージできる。
「パルメザンチーズのフラン」であれば、生クリームや卵をチーズと混ぜて蒸したようなものが提供されるのであろうことが予想できる。
「地鶏もも肉のコンフィ」であれば、鶏もも肉をオイルで長時間煮込み下ごしらえし、外側をパリッと焼き上げてから提供される皿であろうことが分かる。
「ドラえもん のび太の海底鬼岩城」であれば、ドラえもんたちは今回、海底にある奇岩城というところに行くのだろうなということが分かる。
しかし、これが「大人のポテトサラダ」になるとどうだろう。もう意味が分からない。そもそも「大人」とは何なのか? 何やら哲学的な命題が頭をよぎる。子どもが注文したらウェイターに嘲笑されてしまうのだろうか?