「結婚しよう」
モトムラは、そう、言いかけた。言いかけただけだった。右か左かに舵を切る経験をあまりにしてこなかったせいで、一瞬ひるんだのだ。毎日、今日言うか、明日言うか、と考えているうちに2ヶ月がたった。ヤスエが友人との電話で「え、結婚? する気、あるのかねぇ〜・・・・・・」と小声で話しているのを聞いてしまったことがある。あともう少しで、7年目の記念日を迎えようとしている。ヤスエも、そろそろ待てないだろう。
そんな時、あの声が聞こえたのだ。
「結婚、する気ある!? いつまでも待てないよ????」
強い語気で一瞬怯み、そして思わずモトムラは答える。「そうだよなぁ・・・・・・」と。
彼には、あの声は、ヤスエの心の声そのものだった。あの日、彼女が柄にもなく突然キスしてきたように、きっと彼女はそろそろ切り出すだろう。それは「結婚しよう」か「結婚する気ないみたいだから別れる」か、正直わからない。
どっちつかずの俺だけど、ヤスエを失う日がきたら、それは困る。水は、自分にとって絶対に必要なものだから。
・・・・・・帰ってヤスエが起きていたら、結婚の話をしてみよう。彼はそう決意して、ラブなホテル街を神泉のほうへと抜けていく。喧嘩もしてみるものである。モトムラの人生の転機は、あの女の一言によってもたらされたのだからーー。
と、彼の事情はきっとそうだ。全部妄想だから、本当のところは誰にもわからないままだけど。
わたしもいつか然るべき時が来たら「いつまでも待てないよ!?」などと怒号を飛ばしてみたい。それにしても、ラブなホテルの前で、手ぶらなあの女に何があったのか。本当はこっちの方が気になっている。
【過去の「さえりの”きっと彼らはこんな事情”」はこちら】
・20代のあれはなんだったんだ
・電話にでない女