「映画自体がそびえ立つクソ」という場合は除外するとして、熱心なファンの多い名作・傑作・カルト映画がリメイクされたとき、陰性・陽性どちらの反応に傾くかは作品次第だが「あまりに原作とかけ離れている」ケースでは、熱心であればあるほどネガティブな感情を抱いてしまうことが多い。
要は「こんなの俺の知ってる○○(作品名)じゃねーよ!」ということなのだが、別に本作「サスペリア」を観て「こんなの全然サスペリアじゃねぇよ! 乳首が浮いてるシーン以外はな!」とキレているあなたのことを指しているのではない。あくまで、頭の中でしか存在しないファンのことである。ちなみに、私の評価を述べるならば「ギリギリで好きだけど、いや、考え方によってはすっげえ好きかも」である。
また、リメイクに関してジャッジするならば、本作は完全なるリメイクであるとの立場をとる。理由は後述する。
出展:IMDb
さて、本作が好きだろうが嫌いだろうが、賛否両論であることに異論がある方は少ないだろう。公式ですら煽り文句で使っている。だが、SNSやレビューサイトをざっと参照するに「リメイクっていうと違うけど、まあいいんじゃないの、面白かったよ俺は」なんて人も多く、ベルリンの壁のように分断されてはいない。賛・否・中庸の比率を出している暇はないが、体感としては賛否バランスよく割れ、割れ目の間にはマーブルな意見が注入され批評を補強するってやっぱり壁になってんじゃねえか!
隣の区画に塀ができた話はさておき、劇中で行われる遠隔操作系舞踏のように、感応してしまう人はしてしまうし、感応しない人はしない作品である。しかし、「本作が合うか合わないかは人による」と雑な結論で片付けて良いわけがない。
以下、リメイク版について「本作は初代サスペリアの完全なるリメイクである」という結論のもと話を進めていくが、その前にいくつか補足をしておきたい。
Q:グロ表現はいかほどか? A:苦手な人はたぶん無理です
本題に入る前に、「キモいのは嫌だけど観に行きたい」「どの程度怖いか心の準備をしておきたい」といった方もいると思うので、懇切丁寧、結構適当がモットーの当コラムとしては、本作のグロ表現について記しておきたい。
ネタバレせずに具体的なグロ指数について説明すると、かなり痛そうなシーンがあるし、ゾワっとするシーンもある。血も出る。凄まじく出る。人が人ならざるものに変化したような実にキモい異形も登場する。
これらが割とクオリティマックスで登場するので、ホラーを苦手な方が楽しめるかどうかは、正直なところ保証できない。
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いっぽうで、カメラワークや音による「驚かし」は意外と少ない。なので、グロい画はイケるけど、デカい音が無理という人は大丈夫かもしれない。初代「サスペリア」とは劇伴の雰囲気もかなり違う。ゴブリンが手がけた神経症患者の頭の中のようなプログレ全開変態音楽と比べ、本作のトム・ヨークによる劇伴は、牧歌的ですらある。念のために書くが、悪い意味ではない。
ちなみに、実数で語るならば、筆者の知り合いは一撃目のグロシーンで退場したそうだし、実際に鑑賞したときも数人席を立ち、パトリシア(クロエ・グレース・モレッツ)のごとく、行方不明になった。ホラー映画でも高めの退場率だと思うので「怖いのとキモいのは無理、でも観たい」という人は、なるべく後方の席のご予約を。
で、結局初代って観ておいたほうがいいの? という問いにも答えておきますと
多くのリメイク版は「初代を観ていないと楽しめない」宿命を背負っているのだが、本作と初代との違いは無数にある。ほぼ全部違うといっても言い過ぎではない。なので、観ていなくても問題ない。むしろ、「全然違うじゃねーか!」とキレる心配がないのでお得かもしれない。
また、初代を含む「魔女3部作」を鑑賞済みであれば、また違った発見があることだろう。だがスター・ウォーズやアヴェンジャーズシリーズのように「観ていればもっと楽しめる」とはならない。
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むしろ、本作をより楽しむために必要とされるのはメノナイト教会や1800年代後半〜1977年当時のドイツ情勢、ユング、精神分析、そして「魔女」に関する諸々の知識である。劇中で重要な役割を担う舞踏の知識は言わずもがなである。
このあたりのキーワードについては、ググればいくらでも情報が出てくるので割愛するが、監督であるルカ・グァダニーノは、これら要素を魔女の大釜にぶち込み煮込み、家の鍵をかけたか不安になって再確認してしまうように、ライトな強迫性障害の勢いを持ってつなぎ合わせている。その結果として、まるでビエネッタのごとく重層的な構造になってしまったことが、本作をより難解にし、初代との違いを浮き彫りにしていく。
前作との違いについて、少しだけ
一応、前作との違いについて簡潔に述べておく。舞台は1977年、西と東に分断されている頃のベルリン。時は「ドイツの秋」真っ只中である。時代設定は共通だが、まず、この「館の外側」で起こっている出来事を描いている時点で、既に決定的な相違がある。
また、初代に登場した精神科医のフランク・マンデル(ウド・キア)は、今回ジョセフ・クレンペラー(ティルダ・スウィントン)に置き換えられている。
物語はメインステージとなるマルコス・ダンスカンパニーの外側で起こっているベルリンの状況、主人公のスージー・バニヨン(ダコタ・ジョンソン)、そしてクレンペラーの三本柱を軸として展開していく。とくにクレンペラーは「こっちが主役じゃねえの」といった感想を抱いてしまうほどで、この点も初代と大きく違う。
今、ジョセフ・クレンペラー(ティルダ・スウィントン)とさらっと書いたが、本作のティルダ・スウィントンは、マダム・ブラン / ジョセフ・クレンペラー / エレナ・マルコスの3役をとてつもないハイスキルでこなしている。
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「なぜ、男性役を女性が、しかも複数の役で出演させるか」については、ルカ曰く、ティルダには3役を演じさせることでイド、自我、超自我を表現しているそうで、彼は続けて「女性への祝福、そして闇を探究した本作において、声を発するただ一人の男を女が演じるというアイデアが気に入った」と語る。
だが、この味付けは「なるほどですね」と感心するよりも「最後までクレンペラーがティルダ・スウィントンだと気付かなかった」事実の方が100万倍衝撃を受けてしまうので、物語の核ともいえる設定なのに弱いという不全を引き起こす。もちろん傷になっているわけではない。単純にティルダ・スウィントンが凄まじすぎただけである。
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設定面でも大きく初代と違う本作であるが、さらに決定的なのは「色」である。「童話」といってもいいほどに鮮やかであった初代と比べ、リメイク版のカラーはかなりトーンが落とされ落ち着いている。
なぜ色味がこれほどまでに違うかといえば、これはルカがバルテュスのトーンを取り入れたからである。バルテュスは「誤解」されることが多かったので、これを深掘りして魔女と繋げるのは容易だが、再びルカ曰く「何かがその下で息づいているように感じられるもの」を表現したかったとのことなので、インスピレーション程度のものだろう。
さらに、ルカはバルテュスの色味にプラスしてベルリンを拠点とするアーティスト、塩田千春の赤を取り入れている。彼女の作品である「鍵のかかった部屋」や「精神の呼吸」、「不在との対話」などは、メインビジュアルや劇中で使用される差し色としての赤と酷似し、SM風の縄舞踏衣装にも共通点が見られる。
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話を戻すと、初代とリメイク版の違いは無数にあるが、最も大きな変更としては外周の状況・主人公・精神分析医の3つの視点から物語を描き出したことと、色味であろう。もちろん、魔女に関する解釈、大オチはまったく違うが、これはネタバレになってしまうので1mmたりとも書けない。
ならば、まったく共通点はないのか? 否、本作でも乳首は浮く
再びルカは「リメイクとは過去に作られたものを真似することだと考えている人がいる。そんな奴はもっとも安易なアプローチをとる。準備を怠って何の考えもなく作られている作品には反対だ」と語る。これがリメイクに対するルカの基本姿勢である。
では、初代と本作の共通点はないのか? と問われればある。そりゃリメイクなんだから無数にある。そして、その共通点は意外にも、作品とは対照的にユーモアを伴って使用されている。ここがルカのニクいところで「何か深遠な感じで撮っておきゃいいと思ってんだろ、アート風情がよ」と言わせない凄みがある。
というか「ああ、本当にサスペリアが好きで、ダリオ・アルジェントを崇拝していて、何より映画、好きなんですね」といった感じで小ネタを挟んでくるので、何なら「サスペリア」を撮影したことで顔つきまで似てきてないですかあなた、といったルカの気難しそうな顔を見ていると、今では「もしかしたら……ツンデレ?」と可愛く思えてきてしまうから不思議なものである。
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ルカとダリオの顔が似ているかどうかはさておき、初代との共通点が顕著に現れているのが「乳首の浮き具合」であることは間違いない。異論は認めるが、この点だけは声を大にして言いたい。
初代ではスージー・バニヨン(ジェシカ・ハーパー)とサラ(ステファニア・カッシーニ)が水着を着用し、乳首の輪郭を惜しげもなく披露しながら泳ぐシーンがあるが、リメイク版でもスージー・バニヨンの乳首は浮いている。
どうでもいいショットかもしれないが、無視はできない。なぜならば、ルカは上述したとおり「リメイクとは過去に作られたものを真似することだと考えている人がいる。そんな奴はもっとも安易なアプローチをとる」と語っている。
リメイクに関して鉄壁のアティチュードをもったルカが、果たして過去に作られた乳首浮きシーンを安易なアプローチで真似するだろうか? しないだろう。しないんじゃないかな。よって、この乳首浮き場面は乳頭の浮き具合以上に映画のなかで浮遊している。あれだけ重力を意識した舞踏をカマしておきながらである。
もちろん「1977年頃にはみんな乳首浮いてたんだよ!」といった浮き乳首ブームがあったのかもしれない。または服飾における時代設定として「あの頃は乳首が浮くのは仕方がなかったんだ!」と拳を握りしめながら熱く語られれば返す言葉もないが、ありとあらゆる設定を変更し、まったく別物ともいえるリメイク版を作り上げたルカが、なぜ乳首の浮き具合のみをあれほどわかりやすく完コピしたのかについては、ルカがわざと残した初代「サスペリア」の痕跡であると思えてならない。
そして、初代からさまざまな物を削ぎ落として残ったものが、よりによってなぜ乳首だったのか、ルカ流のユーモアなのかもしれないし、無意識なのかもしれない、そんなこたぁどうでもいいのかもしれない。だが、私は乳首にルカ流リメイクの趣を見る。
ダリオ・アルジェントに転移するルカ・グァダニーノ。初代が「動脈」ならばリメイク版は「静脈」
乳首の浮き具合を完全再現した時点で、既に本作が正統なリメイク版であることは明白なのだが、冒頭で示した「本作は完全なるリメイクである」という論を補足していく。
本作には冒頭で映し出されるユングの「転移の心理学」を一撃目として「転移」という言葉がよく使われる。そして、劇中でも陽性・陰性問わず数々の転移や逆転移が起きる。
スージー(パトリシアやサラも含む)が慕うマダム・ブランへの転移をはじめとして、ブランもまたスージーに対して逆転移を起こしているような描写もある。さらに妻であるアンケを行方不明になったパトリシアに投影してしまうクレンペラー。彼はナチスを引き合いに出して魔女を危険視する。また、監督自身「社会におけるあらゆる対立が人々の不安をあおっている。それが魔女たちの鏡になっているんだよ」と語っている。拡大解釈してしまえばこれも転移のようなものだろう。
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クレンペラーが「魔術は信じないが、人々が集団で悪事を行う時はそれを利用する」と話す通り、本作の魔女集団にはナチスが投影されている。「人が人に対して妄想を抱かせるのが宗教であり第三帝国だ」とは、またもやクレンペラーの台詞だが、このように、ありとあらゆる人間関係、広げてしまえば状況までもが転移を起こしまくり、絡み合わせることでマルコス・ダンスカンパニーの館に集う女性たちや、その外周にある世界を作り上げている。
しかし、劇中で提示された転移は克服されなければならない。なぜか。ルカも公言しているが、本作は母性というものを克服しようとしている人々を描いているからである。だから、かつて第三帝国が滅びたように、館に閉じこもり本来の目的を忘れ、権力を振るっていた某魔女の帝国も、また女性の力によって崩壊させられなければならない。その引き金を引くのはスージーの母殺しであるが、劇中で屈指の見どころであるし、初代と決定的に異なるシーンのひとつであるので詳細は省く。
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私が「本作は完全なるリメイクである」とジャッジする理由は、この「転移」である。ルカ・グァダニーノはダリオ・アルジェントに陽性・陰性関わらず転移をしているし、リメイク版「サスペリア」もまた初代「サスペリア」に転移している。
ルカは初代に対して「以前、相手を愛するあまりに食人に走ってしまう男の本を読んだことがあるが、サスペリアに関してはその全てを自分の肉体にしてしまいたいという愛が強かったんだ」とも語っているが、彼自身も転移し、初代「サスペリア」という母を殺し、本作はこの世に産み落とされたのだと感じる。
さらに、オリジネーターであるダリオ・アルジェントも本作を観て、転移のようなものを起こしているはずだ。その構図はまさに「サスペリア」そのものである。
もうひとつ。初代「サスペリア」の極彩色が動脈から吹き出る血液だとすれば、リメイク版のくすんだ色味は静脈のそれである。そして、ルカは新たなる「サスペリア」の誕生の喜びを祝い、嘆き、哀しむかのように、動脈の鮮紅色とは対照的な暗褐色の血の雨を降らせてみせる。
スージーは超越的な存在と化した後、自身の心臓のあたりを両手でゆっくりと引き裂く。心臓から送り出された血液は動脈を通して全身へと運ばれ、静脈から再び心臓へと帰る。動脈を初代、静脈をリメイク版、そして心臓を「サスペリア」とするならば、これが正統で完全なリメイク版でないわけがない。
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[イラスト]ダニエル