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「マンディ 地獄のロード・ウォリアー」ニコラスケイジメーターが振り切れる。復讐地獄巡り

加藤広大 加藤広大


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出典:映画『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』公式サイト

深い緑をたたえた森林の空撮がたっぷりと映し出され、静脈血に似た赤文字でクレジットが入るなか、カメラは地上へと降りていく。おそらく林業に従事しているであろう髭面をした男の表情は厳しく、同僚が手渡そうとした瓶ビールを払いのけるような仕草で断る。何かしらの「隠し事」があるようにしか思えない彼の後ろで流れる曲は、キング・クリムゾンの「スターレス」だ。完璧なオープニングシークエンスだが、ニコラス・ケイジ好きとしては少々不安になってしまう。というのも、オープニング(とその選曲)が素晴らしすぎるからである。

冒頭のデキが良いと不安になる。それがニコラス・ケイジ主演作

https://www.machikado-creative.jp/wordpress/wp-content/uploads/2018/11/aa76cd50b84b7542a3d1c066f00fa647-e1543564182529.jpg出典:IMDb

ニコラス・ケイジが主演している映画において、選曲センスがよく、話も筋だけ聞けば最高な作品は黄信号である。秀逸な冒頭部に引っ張られるあまり、本編の感想が「まあ、面白かったっすけど、オープニングの後は尻すぼみでしたよ」となる場合がほとんどだからだ。

たとえば、彼が武器商人を演じた「ロード・オブ・ウォー」では、地面いっぱいに敷き詰められた薬莢の上に立ったユーリ・オルロフ(当たり前だがニコラス・ケイジ)が葉巻を吸いながら第四の壁を超えてこちらに話しかける。直後、バッファロー・スプリングフィールドの「フォー・ホワット・イッツ・ワース」が流れるなか、工場の銃弾製造ラインが映し出され、成形され、箱詰めされ、世界中の戦闘地域に運ばれる銃弾をカメラが追っていく。

また潔癖症の詐欺師を演じた「マッチスティック・メン」では、ボビー・ダーリンの「ザ・グッドライフ」をBGMとして、リッチな声とともにプール付きの豪邸が水面とシンクロしながら映し出される。スーツを着たロイ・ウォラー(当然ニコラス・ケイジ)はカーペットの毛並みを几帳面に整え、各部屋の戸締まりを3度ずつ確認する。キッチンタオルを丁寧に折りたたみ手を拭き、朝の支度を終わらせて仕事に出かける。

念のために書くが、例として挙げた上記2作はいずれも面白い。「マッチスティック・メン」なんてリドリー・スコットだ。ただ、オープニングのワンパンが素晴らしすぎるので、後半になると失速しているように錯覚してしまう。これは1曲目で客を盛り上げすぎてしまったDJがバランスを取ろうとして少々変化球な選曲をしてしまった結果失速し、後半はフロアから人が消えるようなもので、観終えた後の満足度に影響する。

本作「マンディ 地獄のロード・ウォリアー」も同じく、最初にいいパンチを思い切り入れてくるので、その後の展開が心配になるのも無理はない。というか、むしろ邦題からしてワンパン入れている。

ちなみにマンディはアンドレア・ライズブロー演じるレッド(ニコラス・ケイジ)の嫁さんの名前であるからして、サブタイトル的につけられた「地獄のロード・ウォリアー」とは直接の関係はない。しかし、「○○ ○○の○○」といったタイトルに対して、我々は「ドラえもん のび太の海底鬼岩城」、「ドラえもん のび太と竜の騎士」などの「ドラえもん」長編劇場シリーズによって免疫を獲得している。

たとえば本作が「ドラえもん のび太と地獄のロード・ウォリアー」だったとしたらどうだろう。まったく違和感がないどころか、もっと観たくなる気がする。これは「ドラえもん のび太と地獄の黙示録」、「ドラえもん のび太とドラゴン・タトゥーの女」のように作品名を変えても通用することから明らかである。

なので、「マンディ 地獄のロード・ウォリアー」というタイトルは、日本の伝統というか作法というか、安易なネーミング「あるある」に則った、正統派な良タイトルと言えるだろう。同じくニコラス・ケイジ主演作である「俺の獲物はビンラディン(原題:Army of One)」とはえらい違いである。と書いたが、「ドラえもん のび太の獲物はビンラディン」はちょっと観てみたい気がする。

いつもどおりワンパンを入れてくる本作の、その後はいかに

というわけで、ニコラス・ケイジ主演作においては、オープニングシークエンスが素晴らしかった場合、後に続く物語はすべてがアウトロ扱いになってしまう錯覚が起きがちであるが、本作は決してそんなことにはならない。

なぜならば、本作はヨハン・ヨハンソンの遺作となってしまった劇伴はもとより、ゆったりとしたテンポをはじめとして、果てはニコラス・ケイジの扱い方まで、かなり「贅沢に」撮られた作品であるからで、誤解を恐れずに書いてしまえば、監督のパノス・コスマトスはやりたい放題やっている。

監督がやりたい放題した結果、作品は全体的に不穏な空気が漂い続け、靄がかったようにいまいち乗り切れないシーンが連続する。しかし、これは「退屈」というわけではない。コスマトスの「やりたい放題」に、ニコラス・ケイジが参戦することによって本作はド派手に爆発する。

https://www.machikado-creative.jp/wordpress/wp-content/uploads/2018/11/e4d1983560521a09ebfe8f871b787a57-e1543564271338.jpg出典:IMDb

コスマトスは「私はこの作品をナイーヴ・アート(素朴派)だと考えています」と語る。ナイーヴ・アートとは、専門的な教育を受けていない作家が、独学して作品を制作した結果、素朴さや独創性が現れた作品のことである。

痛いところを突かれたら「自分、ナイーヴ・アートっすから」と逃げ口上にも使えそうなジャンルだが、コスマトスがナイーヴ・アートを言い訳に用いていないことは観ればわかる。だが、彼の父は「カサンドラ・クロス」や「コブラ」の監督、ジョルジ・パン・コスマトスである。そして再び息子コスマトスは「父は私に映画製作の工程の実用的な現実を教えてくれました」と語る。

「むしろ現場の声を交えた超専門的な教育、受けてるじゃないっすか」という疑惑はさておき、映画監督の父と彫刻家の母を両親にもつコスマトスは、料理店の倅が一般家庭と比べて自然と料理を覚えたり、鼻や舌が鋭敏になったりするように、映画やアート方面に素養や地力があるゆえ「なんだかよくわからないけれども、結果としてよくできてしまう」といった、おそらくコスマトス自身も「納得できない」実力をもっていると私は見積もる。

だが、これは「上手くなることが(主に自分のなかで)許されない」ということで、劇中でも「上手くなってしまったらどうしよう」といった恐怖心がパノフレアや違和感を感じるほどのカラーグレーディング、時折挿入されるアニメーションなど、ともすれば稚拙であると捉えかねられない演出や調整に姿を変えて次々と駆使される。

しかし、本作はそれらが功を奏し、色彩ひとつとってみてもクリスチャン・ラッセンの作品に核爆弾を撃ち込んだようなブリッブリの極彩色を極北として、ゴッホやシャガールなど、ありとあらゆる著名画家の作品を想起させるような色彩感覚が羅列されていく。

https://www.machikado-creative.jp/wordpress/wp-content/uploads/2018/11/6b1f596d0eb700c892c9d4afcd3bdc0d-e1543564352301.jpg出典:IMDb

「これしかなかった」と、「これしかできなかった」は驚くほど大きく違うが、ときに後者のほうが劇的な効果を挙げることがある。音楽ではよく「初期衝動」といった雑な言葉で扱われるが、映画も小説も「処女作こそ最高傑作」と、これまた雑な言葉で扱われることが多い。のだが、雑な言葉だと雑に放ってしまうのはそれこそ雑というもので、ある意味で正しい。そして、本作においてコスマトスは意識的に「これしかできなかった」を選択している。無意識的に「これしかなかった」を避けたと言い換えてもいい。

その結果、専門的な教育を受けていないものの、バックグラウンドでの素養がかなりある(そんで、上手くなりたくない)。というマーブル模様のようなコスマトスの状況は、作品全体に漂う不穏で、靄がかった、いまいち乗り切れない雰囲気にガッチリはまる。

しかし、そのままでは映画が退屈なものになってしまう。起爆剤とデカい爆弾が必要だ。その役割を果たすのが、カルト宗教に嫁を焼き殺され、復讐に燃えるダッセぇラグランを着た林業従事者レッドこと、ニコラス・ケイジである。

振り切れるニコラスケイジメーター

先ほど「贅沢に撮られた」作品であると書いたが、贅沢のなかでもニコラス・ケイジの扱い方は別格で、まず想像したよりもはるかに登場シーンが少ない。数あるニコラス・ケイジ主演作のなかでも、かなり少ないほうではないだろうか。

決して小出しではなく、ここぞという場面で出てくるニコラス・ケイジ使いは、まさに「ちょうどいいニコラス・ケイジ」具合で、もし映画内でのニコラス・ケイジ度合いを示すニコラスケイジメーターなるものがあるとすれば、メーターの針がエンプティマークに近づき、ニコラス・ケイジ切れを起こしそうなると、実に見事なタイミングでニコラス・ケイジが登場する。

コスマトスはニコラスケイジメーターを上手く調節しつつも、ときに振り切り、ついにはメーターを爆散させてみせる。メーター爆散後のニコラス・ケイジ具合は「やりすぎかな?」どころじゃない「やりすぎだよ!」である。

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と、ニコラス・ケイジ具合は「(後半)やりすぎだよ!」なのだが、やりすぎとは逆に、彼の台詞は驚くほど少ない。これが凄まじい。前半こそマンディとポエティックなやり取りをするものの、彼女がカルト宗教に拉致され、凄惨な最期を迎えてからは、ほぼ咆哮するのみである。もう「マッドマックス 怒りのデス・ロード」のマックス(トム・ハーディー)くらい台詞がない。マックスはまだ人間なので「それは俺の車だ」とか言うが、完全にキマったレッドは、ただただ野獣のように唸り、吠え続けて復讐を果たしていく。

レッドが絶っていたであろう酒をあおり、虎のラグランと白ブリーフ、白ソックスというフル装備で覚醒するシーンをはじめとして、それこそ死神の鎌のような武器を制作するシーンなど、「ああ、ちょっとだるいかもこの映画」と感じはじめていた観客は、レッドが行動を起こすたびに再び映画への集中力を取り戻せる仕組みになっている。

なかでも、トレーラーハウスに住んでいる知人(カルザース/ビル・デューク)を訪ね、預けていた「死神(リーパー)」と名付けた厨二病全開なボウガンを回収するシーンでは、いかにも軍関係者のような立ち居振る舞いのカルザースと

カルザース:「獲物はなんだ?」

レッド:「カルト宗教だ」

カルザース「シーズンなのか?」

という、個人的に映画史に残る爆笑もののやりとりを繰り広げるなど、気の利いた演出が随所に光る。

配置された爆発物は、ニコラス・ケイジだけではない

要所に配置される爆発物はニコラス・ケイジだけではない。カルト宗教の長であるロックスター崩れのジェレマイア(ライナス・ローチ)の、チャールズ・マンソンやシャロン・テート事件を引き合いに出すまでもない「いそうですよね、こういう教祖」というリアルっぷりは、シャツの外したボタンの数から自身が制作したオリジナルソングのダサさ具合も含め完璧である。

https://www.machikado-creative.jp/wordpress/wp-content/uploads/2018/11/a8fba25e17a06d65cf6e554188960916-e1543564497217.jpg出典:IMDb

またジェレマイアを崇拝する信徒たちも、キモすぎるブラザー・スワン(ネッド・デネヒー)、場末すぎるスナックのババアのようなマザー・マルレーネ(オルエン・フエレ)、ただのキチ○イ、ブラザー・クローペック(クレメント・バロネット)など、軒並みキャラ立ちしている。

そして、本作でもっとも残酷で、衝撃的で、爆笑できる存在が謎のクレイジーバイク集団である。バイク集団といっても4人くらいしか登場しないのが「チャリンコ版マッドマックス」として名高いB級作品「ターボキッド」並の哀愁を感じさせなくもないが、ブラザー・スワンが森のなかで「アブラクサスの笛」を吹くと、どこからか轟音を響かせながら頭が釘だらけだったり、全身レザーのドM野郎みたいな出で立ちだったりをした連中が鉄馬にまたがりやってくるのだから、テンションが上がらないわけがない。

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ちなみに「アブラクサス」とはグノーシス主義において、アイオーンとして選ばれし者を天国に連れていく役目を果たすが、ジェレマイアは影響は受けているものの、そのままズバリというわけではない。

本作においてコスマトスはメタルからの影響を公言しているが、アブラクサスの使い方についてはフィンランドのメタルバンドが、同じくフィンランドの民族叙事詩である「カレワラ」を引用するようなものだろう。ちなみに、フィンランドのフォークメタルバンドであるコルピクラーニの1stアルバムタイトルは、邦題が「翔び出せ! コルピクラーニ」であり、1曲目は「酒場で格闘ドンジャラホイ」である。「ドラえもん のび太と酒場で格闘ドンジャラホイ」はちょっと観てみたい。

「酒場で格闘ドンジャラホイ」とタイプしたくなり、無理やり話をフィンランドにもっていってしまったので話を戻すが、この地獄のロック・ライダーたちはマンディを拉致する役目を担った咎により、レッドの復讐の標的となる。

この後半で畳み掛けられる復讐/戦闘シーンも秀逸で、レッドはヘロヘロになりながら、ときにバイク軍団たちのクスリでハイになりながら、ゆるぅ〜い戦闘を繰り広げる。よくある「森で暮らしていた男は、実はとてつもない達人だった」などということはまったくないので、テンポのよさや爽快感はない。ないのだが、じりじりと復讐を遂げていく様は、まさに憎しみの炎を映像化したような美しさで「上手く動きたいのだけれども、動けない」といった不自由さを感じさせ、やはり贅沢さがある。

爆破の後には何が残るか

レッドはマンディが予言したように、ジェレマイアにとっての死神となり、カルト宗教に終焉をもたらす。しかし、復讐を終えたレッドは、もはや復讐者ではない。地獄のチキチキ・バイク軍団と同じく、キマったままの異形である。物語の最後になっても、彼が摂取したクスリは切れていない。赤く深い霧に包まれたような画面のなかで、レッドはマンディを幻視し、彼女に不気味すぎる笑顔で微笑みかける。

復讐を果たしたレッドは幸せなのか、そもそもマンディは復讐を望んでいたのか、復讐は憎しみの連鎖を生むのだろうか。そんなことはどうでもよろしい。ラッセンの絵に悪夢をありったけ塗りたくったような精神世界で、彼はドライブを続けるしかない。

本作において、コスマトスは要所に爆薬を配置し、絶妙なタイミングで導火線に火をつけて爆破させていく。爆破の後には何が残るのか。残響音である。

まさかの無音エンドロールのバックで微かに聴こえる夜の森のような静けさに、今までの劇伴を手がけていたのは故ヨハン・ヨハンソンであることをふと思い出すと、冒頭でクレジットに出された「俺が死んだら、深く埋めてくれ。足元に1対のスピーカーを並べ、俺の頭にヘッドフォンをつけろ。ロックで揺さぶってくれ、俺が死んだらな」というテキサスの死刑囚、ダグラス・ロバーツの最期の言葉もまた、残響として木霊する。合掌。


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