<インド映画 ✕ 生理用品 ✕ サクセスストーリー>というぶっ飛んだ物語設定の「パッドマン」を存分に楽しむために、ぜひ鑑賞後に読んでほしい。
「アメリカにはスパイダーマンがいる。だがインドには・・・パッドマンがいる!!」のキャッチフレーズで話題の映画「パッドマン」。
映画『パッドマン 5億人の女性を救った男』予告(12月7日公開)
なんでインドでは、
- 生理だと外で寝るの?
- 生理だと男性に触れられたらいけないの?
- 男性がナプキンを持つだけで家族全員が号泣するの?
- 2001年なのにナプキンが普及してないの?
きっとこんな疑問を持つ人は多いに違いない。
私が書いているときには、パッドマンにまつわるインド文化や生理の歴史を言及するレビューがどこにもなかった。
このコラムは「パッドマン」の生理に関する<なんで?>を紐解く3つの話をしたい。
「パッドマン」を鑑賞して「え、なんで?」となった人が求めているものが、もしかしたらあるかもしれない。
・・・
1.「生理」を人前で話すことはいけないことなの?
2.ところで日本の「ナプキン」っていつから当たり前になったのだろうか?
3.結局、私は「無意識のタブー」の中で生きていた
・・・
「パッドマン」を一言でまとめるなら「インド映画×生理用品×サクセスストーリー」だ。
どう考えたって、面白くないはずがない!
と、私は公開日初日にわっくわくして映画館に行ってきた。インド映画らしくハイテンションな物語で話はよくまとまっている。
物語として、人生のどんでん返しもある。恋愛要素もある。
世界的なジェンダーの問題やインドの女性軽視などといった社会的なメッセージも取り上げた内容で、非常におもしろかった。
のだが・・・
なぜか、それ以上の感想が出てこない。
ただ、映画を見た後の爽快感というか「あ~~~!映画見たぞ!感動!」というあの読了感ならぬ、鑑賞感がないのだ。
そしてその理由は明確だった。
「なんで???」のオンパレードだからだ。
そしてこれは私だけでないようだ。ひどい生理痛の原因を擬人化したキャラクターで表現した漫画『ツキイチ! 生理ちゃん』の作者小山健さんも
「パッドマン」を見て、男性が生理に関することが「なんでダメなの?」という疑問を持つ主人公が、まるで自分にの体験のようで、感動したと言っている。
映画「パッドマン」を観たマンガを描きました!
映画館での放映は今日から!#パッドマン#PR pic.twitter.com/1GU1iXOfRO— 小山健 (@koyapu) 2018年12月7日
出典:twitter
しかし、この「なんで」には答えがない。
インドってこういう文化や習慣だから。と言われてしまったらおしまいな「なんで」ばかりなのだ。
多分、ここを解決するには「パッドマン」の舞台背景やインドの文化・風習を知る必要があるのだろう。
と私は映画鑑賞後1週間、ずっとパッドマンの映画批評を追っていた。誰かが歴史系の考察を書いてくれるだろう、と期待して。
しかし出てくる感想はもしくは、ラクシュミの経営者としての決意に対する感動レビューが大半。
「ラクシュミかっこいい〜♡」
「ラクシュミはデキル男だ!」
「生理用品について詳しくなりました〜」
「パリー、まじ女神〜♡」
と登場人物に対するレビューばかり。
まあ、 たしかにパリーは素敵だよね!!
出典:IMDb
パリーは都会的な女性。
ラクシュミがナプキン普及させようともがいていたときに、ラクシュミの想いに共感し理解を示してくれた救世主だ。
(インドの女性は生理について言葉にすることすらタブーとされているため、ラクシュミに誰も取り合ってくれない。)
そしてしばらくの間、ラクシュミと一緒にナプキンの普及に携わる。
そう、パリーは女神なのだ。
一方、ラクシュミの妻であるガヤトリ。ガヤトリは村社会で育った保守的な女性だ。
村の女性たちがラクシュミに激情しているときに、ガヤトリ自身も困惑しながらも、自分の旦那であるラクシュミを応援しようとしている。
宗教観・価値観を超えた愛である。
そこに気づくと「ガヤトリってなんであんなに健気なの!!」というレビューがあってもいいはのではないだろうか。
出典:IMDb
本当は、ガヤトリの健気さを主軸にした映画批評があってもいいのではないだろうか。
彼女たちが置かれているインドの生理に関する文化を知った上で、ガヤトリやパリー、そしてラクシュミたちの物語を改めて見てほしい。
なにより、ガヤトリめちゃくちゃ美人じゃない!?
(ちなみにインド宗教文書『ヴェーダ』では「ガヤトリ」は知性や直感力を授け、それを育み活性させる神のことを指すらしい。
- ラクシュミは、美と豊穣と幸運を司る神とされている。たしかに、ラクシュミがパリーと出会ったのは奇跡だし、学会で出れたのも奇跡だった。)
出典:IMDb
1.「生理」を人前で話すことはいけないことなの?
なんとなく生理って人前で話すことって抵抗ないだろうか?
男性だったら普通に生活していれば使うことがない単語だ。女性も「生理」と言わずに「あの日」「女の子の日」「あれが来た」という。
私は、比較的抵抗ないので「今日、生理だから腰が痛くて」と言うが、少し嫌な顔、とまでは言わないが、「ああそういうタイプなのね」という顔をされる。
なぜか「生理」という単語に触れない。
どうにも秘密にされがちな生理。たしかに言葉を口にしづらい日本社会だが、一方では「男性も生理について理解をしよう」という流れになっている。
最近では、13万フォロワーを誇るツイッターで大人気の愛妻家、「5歳(嫁公認アカウント)」さんが書いた男性視点の生理コラムが話題にもなった。
【男が語る生理コラム】
結婚生活においてパートナーの生理をどう考えて、どう受け入れて、どんな対策をすべきかを定期的に発言し続けてきた僕ですが、今回はその事をわかりやすく徹底的に書いてみました。
夫婦やカップルだけではなく、生理理解が全国に広まる事を願います。https://t.co/lsOqDRtRo4— 5歳(嫁公認アカウント) (@meer_kato) 2018年9月13日
出典:twitter
ようやく社会が「女性の生理について理解をしよう!」という流れが来たタイミングで、インドの「パッドマン」という映画が上映されたのだ。
生理用品の物語が、すなわち、超大衆メディア「映画」という黒船に乗って現れたとも言える。
日本よりも「生理」がタブーであるインド
日本でもまだまだ「生理」について公で話せる雰囲気ではないのが現状だ。
だから「パッドマン」の舞台であるインド(日本よりも厳しそうなイメージはある)でも似た状況であることは想像ができるが、
その拒絶反応があまりにも凄まじい。
出典:IMDb
(こんなににこやかにナプキンを持っている写真を見つけたが、多分これはラクシュミが見た夢だと思われる)
ラクシュミがガヤトリにふと「生理」について質問をする。まるで汚いものを見るような目をされる。
「生理」のときの大変さを知り試作品のナプキンをもって実姉のところに行く。それを知った姉家族は、親の敵なのかと思うほど「家族の恥だ! 絶交だ!」と泣き叫ぶ。
ちょっと待って。
インド人、大げさ過ぎない???
えっ、そこまで拒絶するものなの???
確かにラクシュミのやり方は不器用だった。それにしても彼女たちのあまりの激しさに正直、私はついていけず「おぅ……」となってしまった。
彼女たちの価値観はどうしてそこまで頑ななのだろうか。
インドでは、なぜそこまで生理がタブーなのか?
1つ目の話は、インドのタブーについてだ。ラクシュミ夫妻の信仰宗教である「ヒンドゥー教」について知る必要がある。
ヒンドゥー教は、
・インドの全人口(13億)の8割強を占める
・インドの文化そのもの
と言える。
(なぜラクシュミ夫妻がヒンドゥー教であるかは、オープニングの結婚式が伝統的なヒンドゥー教の式だったり、
腕にミサンガのようなものを結ぶシーンは「ラクシャー・バンダン」というヒンドゥー教のお祭りをしていることからわかる。
「ラクシャー・バンダン」は家族のつながりを確かめる儀式で、兄弟姉妹のつながりを大切にすることを誓うお祭りである。)
出典:IMDb
ヒンドゥー教の法典を紐解く
紀元前2世紀~紀元2世紀につくられた『マヌ法典』という教えがヒンドゥー教の元になっている。
生活に関するあらゆること、考え方、倫理観が書かれており、信者はこれにのっとり、生活をする。
『マヌ法典』では、女性の月経・妊娠・分娩という生理現象に不浄観を持ち、さらに女性を一般に汚れたものと見ている条文が書かれている。
女性の独立を認めず、常に夫に対し従属的存在とする条文もある。
そして、上のような不浄は沐浴によって浄められるという。(条文の引用なので、読み飛ばしても問題ない)
「バラモンは、(次のようなものを)決して口にしてはならない。月経中の婦人の触れたもの、娼婦あるいは不貞の女によって与えられたもの、妊婦のために容易された食物、産後10日を経過しない婦人によって与えられたもの、・・・」(4・206-212)
「バラモンは、婦人あるいは去勢者によって供養された祭儀においては、食をとってはならない」(4・205)
「チャンダーラ(最卑賤階級のもの)、豚、牡鶏、犬、月経中の婦人および去勢者は食事中の再生族(上位三階級のもの)を見てはならない」(3・239)
「たとい情欲に激しても、月経中の妻に接近してはならない。また臥床を共にしてはならない。」
「何となれば、月経中の婦人に接近する男の知力、威力、体力、視力、寿命は減退する。」(4・41)「独りで空き家に眠ってはならない。眠っている長上をおこしてはならない。月経中の女と語ってはならない。・・・」(4・57)
「婦人が流産した時は、(懐妊後経過した)月と同数の(日)夜の後に浄められる。また月経のある婦人は、月経の終わった後、沐浴によって浄められる。(5・66)
「チャンダーラ、月経中の女、堕姓者(カーストの転落者)、産檮中の女、死体、あるいはそれに触れたものに接触したものは、沐浴によって浄められる。」(5・85)
出典:マヌ法典
現代の日本人から見たら「女性軽視・差別」だと憤りたくなる条文である。
ここまで女性軽視という視点で条文をいくつか挙げたが、ヒンドゥー教はただひたすらに女性を卑下しているだけではない。
結婚式や初経の儀礼で女性が重要な役割を担うこともある。結婚して子どもを授かる女性は非常に高い地位を与えられる。
ヒンドゥー教において、女性の役割はこの条文だけを見て判断できるものではないことをお断りしておく。
ちなみに、法典というと宗教団体に行かないと手に入らないわけではない。Amazonでも取り扱っているので興味があればぜひ読んでみてほしい。
ガヤトリへの評価がもっとあってもいい
マヌ法典によって築かれたヒンドゥー教を知ると、ラクシュミとガヤトリの置かれている環境が少し想像できるのではないだろうか。
出典:IMDb
彼女は疑いもせず「生理中」は自分自身が汚らわしい存在であると思っている。
だから、生理中は家の外で寝るし、ラクシュミに体に触れられることを極度に嫌がる。そして2000年以上続く宗教の教えとして「生理=不浄なもの」という価値観を持ちあわせているがゆえに、言葉にしたがらない。
ガヤトリは実兄が決めた結婚相手であるラクシュミに嫁ぎ、家事に従事し、ラクシュミと引き離されるシーンでは、彼女の想いはあるが素直に従う。
個の意見ではなく、従者としての選択をする。
ヒンドゥー教の信者であるにも関わらずガヤトリは、突飛なラクシュミの行動を許し、そばに居続け、再び歩み寄ろうとする。
彼女の姿は、宗教という支配的な価値観をもつ自分自身と葛藤しつつ、愛する相手を信じ続ける心の強さ、そして愛情の深さを語っている。
出典:IMDb
ヒンドゥー教の価値観を知っているとラクシュミを待ち続けたガヤトリの想いを想像することができ、最後のシーンへの感動度が増す。
知らなければこの映画の前半は「ラクシュミ、イケメン♡」「いい旦那さん♡」で終わってしまう。
理解できないから、共感できない。
だからだれもガヤトリについて何も言わない。
本当は「ガヤトリ超良妻♡」「見習うべき熱心なヒンドゥー教徒♡」ともなるべきシーンでもあるのだ。
2.ところで、日本の「ナプキン」っていつから当たり前になったのだろうか?
「パッドマン」を見ていたら必ず誰しもが思う疑問に思うのでないだろうか。
「なんで2001年なのにインドではナプキンが普及していないの?」と。
たしかに宇宙への移住は叶わなかったし、車も空を飛んでいない。だが、2001年の日本では「千と千尋の神隠し」がヒットし、宇多田ヒカルが「Can You Keep A Secret?」を発表した年だ。
大阪にユニバーサルスタジオジャパンができた年で、近年の話だ。
パッドマンの物語の中でも、教授の子どもが「脳みそならここにあるよ」とGoogleを指し示す時代だ。
インターネットがある時代に、ナプキンはほぼない。
ここまで生理用品の普及が遅れたのは、ヒンドゥー教という宗教文化が背景にあり、社会としてタブー扱いであったこと。
それゆえ女性同士でも生理について話す機会があまりないからだと想像することができる。
しかし、日本も生理用品の普及に関して似たような物語があることを知っているだろうか。
アンネナプキンの誕生が日本が生理用品大国とした
2つ目の話は、生理用品「ナプキン」がどのように私たちの生活に浸透したのかについて。
現代の日本には、あまりに多くの種類のナプキンが売られている。多い日用・普通の日用・少ない日用、昼用・夜用、羽つき・羽なし、香りつき……。可愛らしいパッケージに包まれている。
世界を回るバックパッカーたちは「日本の生理用品が一番いい」とも言う。
しかし、実は日本も戦前までは「生理は不浄なものである」という認識であった。
現在のように「生理」が生理現象であるという認識になったのは、近代の話だ。それまでは「穢れ」「月のもの」という感覚が当たり前だった。
女性を生理の不快感から解放したナプキン
生理用品として現在の「ナプキン」が浸透したのは、そのあとの話だ。
日本の「ナプキン」の普及の立役者は、1961年に誕生したアンネナプキンである。
アンネ社は、開発に女性の意見を取り入れ、会社として宣伝プロモーションを戦略的に行い、流通や広告を考え抜いて、華々しい成果をあげた。
一人の女性の「生理を快適にしたい」という願いが、アンネ社を立ち上げ「ナプキン」を浸透させたのだ。
ちなみに『ツキイチ!生理ちゃん』の小山さんの漫画でも、アンネ社が何を想いどのようにナプキンを普及させたのかを描いている。
ツキイチ!生理ちゃんの最新話が更新されました!最後にお知らせもあるのでチェックしてみてください〜
今回は今から57年前、はじめて日本人むけ生理用ナプキンを作った女性のお話です
「ツキイチ!生理ちゃん9」小山健https://t.co/RqMiNx5CTp
— 小山健 (@koyapu) 2018年4月26日
出典:twitter
この回はアンネナプキンの開発秘話が描かれているので、未読の人はぜひ読んでほしい。
アンネナプキン以前の生理用品事情って?
アンネナプキンが生まれるまでは、日本の女性たちもガヤトリと同様の衛生状態だったという。
インドと同様に、生理中は「家の外で寝る習慣」は明治時代まであった。生理の時は「あまり清潔でない布」をあてがうか、もしくはお手製のタンポンを使用していた。
『生理用品の社会史: タブーから一大ビジネスへ 』では、明治(1907年)生まれの女性は生理のことを親や姉妹と話すことも許されていなかったという。
とある女性は、初経が来たときに母親に相談すると、あて布を手渡され「あて布は汚いものだから、お日さまに遠慮して日陰に干すように」と一言教わっただけだと証言している。
その後、1921年にアメリカで現在のナプキンの原型である生理用品が発売された。
しかし日本には高級すぎて入荷されることはなく、アンネナプキンが登場するまで当時の人たちはあて布か自家製タンポンで過ごしていた。
アメリカに遅れること40年。
「40年間お待たせしました!」
というキャッチフレーズとともに日本のナプキンは誕生した。アンネナプキンはそれまでの「生理」に対する女性の価値観は大きく変えたとしか言えない。
生理=穢れの概念は平安時代の宮廷で生まれた
しかしさらに遡ってみると、日本古来では生理を穢れだという認識はなかったとされている。
『古事記』は世界でも類を見ない性に関してオープンな文書だ。
日本神話でもっとも有名な倭健命(ヤマトタケルノミコト)の時代まで遡ると、倭健命(ヤマトタケルノミコト)が宮簀媛(ミヤズヒメ)に送った歌に「月のもの」という表現が残っている。
「契をかわそう(セックスをしたい)と思っていたのに、月が来ていて(生理じゃ)できないよ」
「待ちわびすぎて、月が出てしまったのよ(わたし、待っていたのに……!)」
出典:古事記
という歌のやり取りをし、倭健命が感心し、婚合したという。
今の感覚からすると、性に対してオープンもいいとこだ。当時の性に関する感覚は特別なものではなく「生活」と同義だったのだろうか。
(ところで西洋では、アダムとイブはりんごを食べて、知恵を得て、性を恥ずかしいということを知ったという。
一方「ガヤトリ」とは、知性や直感力を授けそれを育み活性させる神の名前だった。つまり、もしかしたら、性を恥ずかしいと思うことを示唆する名前を、彼女は与えられていたのではないか、なんて考察してみたり。)
古来の日本は、性に対してとてもフラットな世界だった。
時はたち、12世紀。平安時代に、朝廷(政府)が男性社会のため女性を抑圧するために穢れの概念をを生み出されたとされている。
穢れの概念をつくるために生理中は神聖な祭事・宮には立ち入ってはならないと決めた。概念は都市部から地方へと広がり、純化されて、女性への不浄観として根付いていった。
元は祭祀場というと特殊な空間での話が、地方に伝わると女性が家の外で寝るという習慣を生んだ。
女性性に関する価値観は近代になるとゆるやかにいい方向に変化しながら、大正、明治、昭和、そして平成と続いていく。
日本の生理用品の歴史を紐解いてみると「一つの価値観というものは、時代によって変わるものである」ということが実感を持って見えてくる。
80年間お待たせしました!
1921年にアメリカで、1961年に日本で、そして2001年にインドでラクシュミがナプキンを発明する。
出典:IMDb
アメリカに遅れること80年。
まさに「80年間お待たせしました!」だ。
ラクシュミは女性の生理に対する価値観を変えるナプキンを発明した。
きっと2050年には、彼が生み出した女性性への概念は、インドではきっと当たり前なものになりヒンドゥー教という宗教を乗り越えて、価値観を変化させているに違いない。
3.結局、私は「無意識のタブー」の中で生きていた
実は映画鑑賞中ずっと思っていたことがある。
なんで、ラクシュミはここまで不器用なのか?
「なんで、インドでは……?」の疑問は、鑑賞中「文化の違いだからね、仕方ないね」と思ってごまかせていた。
しかし、物語が進んで、何度もラクシュミが生理に関するタブーにぶつかるたびに「もっとうまくやろうよ!」とつい突っ込んでしまう自分がいた。
ラクシュミは「自分は妻が心配だ」という一方通行な、でも愛ゆえに全身全霊をかけて生理に関する問題解決をすべくひたむきに行動する。
しかし、映画の前半パートではラクシュミの想いはまったく受け入れられず、むしろ彼が妻を助けたいという想いは、彼女を悲しませ、家族を引き裂き、妻と別れることとなる。
生理って汗をかくことと同じような人間の生理現象なのに
なぜ、私はラクシュミのやり方を受け入れられなかったのか。これが3つ目の話である。
実は、日本にも生理用品の普及を担った男性がいた。それが、先程紹介したアンネナプキンの立役者である渡部という男性だ。
日本独自のナプキンを開発し、マーケティングを行い、そして「ナプキン」を一プロダクトとして社会的な地位を築いた人がいる。
彼は、おもしろいほどラクシュミと同じような物語を経ている。
渡部も「女性を生理から救いたい」と一念発起し、自力で生理用品を作っては自分で試しに履いてみたり、女性に意見を貰うべく質問を重ねたりしている。
その姿は、ラクシュミと同じである。
しかし渡部は、タブーを表に出すということに対し「女性が恥ずかしい思いをするわけにはいけない」と考え、最大限の気配りをする。
漏れる心配のない性能の追求から、女性が手にしたくなるようなパッケージデザイン、男性の前にも出して恥ずかしくないよう広告の謳い文句まで、
彼は、性に対して細心の気配りをした。
出典:オモコロ
私はこれが普通だと思っていた。
だって、生理のことなのだから。
そりゃ、ラクシュミが受けいられないのは当然だと。
生理を人前で話すことはいけないことなの?
しかし、ここまでヒンドゥー教の価値観や、日本での生理についての価値観の変遷、生理用品の歴史を調べてかきあげている途中で気づいた。
私自身が、現代日本の固定概念に囚われていた。
たしかに、私は生理のことを穢れだと思っていない。外で寝ることはない。
けれど、生理の話はなんとなくしない。
時代も、国も、生理に対する価値観の程度は違えど、私はガヤトリと同じだった。
彼は生理の概念を変えたかったわけではない
ラクシュミは「生理というタブーに立ち向かった」のではない。
ただ当たり前に、彼が妻の幸せや健康を得るために行動をしていただけなのだ。
ラクシュミに「もっと繊細に扱ってほしい」と思うのは、私が生理をタブーと意識しているからだ。
確かに、私たちは優れたナプキンによって生理の不快感からは解放された。
しかし私は、生理を人前で話しをしてはけないという常識=生理のもつ社会的なタブーからは完全に逃れられたわけではなかった。
「パッドマン」は「生理ってさ、別に生理現象で汗をかくことと変わらないんだって」と知識でわかってはいても、
結局は誰しもが持っている「潜在的なタブー」を気づかせる。
この映画は誰かにセリフを言わせること無く、ラクシュミの言動で示している。
私がずっと引掛っていた「なんで」という問いかけは、「パッドマン」という映画作品やインド文化にではなく、
なんで生理って言葉にしたらいけないのだろう、と私自身が私に感じている疑問だったのだ。
なんで私は生理をタブーだと思っているの?と。
私は人前でも言葉にすると言ったが、結局は心の底から「いい」と思っているわけではなかったのだ。
パッドマンは実話を元にした物語
出典:「パッドマン」公式サイト
ちなみに、クライマックスでの国連の演説の元ネタであろうTEDがあるので、ぜひ見てほしい。
TEDで演説しているのは、ラクシュミの元になったアルナーチャラム・ムルガナンダムさん。
映画は作品として脚色しつつ物語をまとめられているが、彼は、現在進行形で妻を始めとしてインドの女性たちに幸せを届けている最中だ。
アルナーチャラムさんの言葉で彼の思いが物語られている。
そこには、お金も名声でもなく、助けたいという信条で動くラクシュミの姿が重なって見えるだろう。
※かなりのネタバレです。まだ観ていない人は鑑賞後に見ることをおすすめします。
アルナチャラム・ムルガナンタム:どうやって私が生理用ナプキン革命をはじめたか!
「パッドマン」はすべての人に向けての「普通」を疑うことを示す映画だ。
当たり前を「なんで」と疑い、自分のできることを考えてみる。
<インド映画 ✕ 生理用品 ✕ サクセスストーリー>というぶっ飛んだ映画作品である黒船「パッドマン」が私に与えてくれたものは、
自分の隣にいる人を幸せにするためには「普通」や「常識」を疑い超えていく行動力と誠実さを勇気をもつことだった。
もし少しでもパッドマンを見て違和感を感じて「なんで?」と思った人にこの記事が届いていたら、それほど嬉しいことはない。
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[イラスト]ダニエル