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『暇と退屈の倫理学』を読んで、転職の言い訳を考えてみる

岡田麻沙 岡田麻沙


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ちょっとの違いに金を払うのが興奮するんだ

第三章では、資本主義によって人間の退屈との付き合い方が変わっていった様子が考察されている。有閑ゆうかん階級についての箇所などは、心えぐられる内容だ。有閑階級とは、金が有り余っているので労働の必要がなく、人生全体が暇つぶし、いわば「ひまじん」職のことを指す。暇であることを許された階級の人々がいたことは、かつて、「暇」というものが尊敬の対象であったことを示している。

また國分功一郎はこの章で、消費主義社会が「退屈しのぎ」のあり方を大きく変えたことにも触れている。例えば、<2年前に発売された商品>と、少しだけモデルチェンジした<新しい商品>。ここで私たちが買い求めるのは「商品の新しさ」ではなく、「2年前の商品との違い(=差異)」である。このちょっとの違いに金を払うという行為自体が、暇つぶしであり、退屈しのぎなのだ。

第四章も引き続き、消費の話である。「うおおお! 新しいものが欲しい! ちょっとの違いに金を払って興奮したい!」と突き動かされていた人間が、「あれ、オレ、何してるんだっけ・・・」と真顔になる瞬間、何が起こっているのか? 「オレ、何してるんだっけ・・・」という思いは、「こんなはずじゃなかった」という感覚を呼び起こす。「こんなはずじゃなかった」感は、暇と退屈を理解する上で重要な存在なのだが、うっかり使用すると「こうあるべきだ!」という“本来性の主張”を呼び起こしてしまう危険があるという。國分功一郎はここで、「人間はこうあるべき」という本来性を放棄した状態で、「こんなはずじゃなかった」という感覚をも受け入れよう、というテクニカルな着地をしている。

「転職します。こんなはずじゃなかったんです。あ、でもこれは、自分がこうであるべきだったという本来性を受け入れたうえでの“こんなはずじゃなかった”、という意味ではありません」

意味が分からない。わたしが上司だったら多分、殴ると思う。

第五章以降ではいよいよ退屈の深部に潜り込む内容になっているため、ここからはぜひ本書の内部で楽しんでほしいが、例えば全てを読み終えた暁には、「じゃあ部長はダニには味覚が存在しないってことを知ったうえでも、わたしに仕事を続けろっておっしゃるんですか!?」と逆ギレしたりできるようになるはずである。

國分功一郎は結論で、以下のように記している。

人はパンのみに生きるにあらずと言う。いや、パンも味わおうではないか。そして同時に、パンだけでなく、バラももとめよう。
引用:『暇と退屈の倫理学 増補新版』國分功一郎(2015年)太田出版、P362

イカす、の一言に尽きる。なにはともあれ、転職を考えている方々は、パンとバラと本書とを、用意されたい。

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