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「ミュウツーの逆襲 EVOLUTION」には、大人だけに見えるもう一つの面白さがあった

あづま あづま


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1998年の時、僕はまだ幼稚園の年長だった。その時、ある1つの映画が幼心に強烈なイメージを植えつけ、将来に1つの夢を抱かせた。

「ミュウツーになりたい」

いま思えば恥ずかしすぎる夢を与えてくれたあの映画が今年ついに、帰ってきたーー。

ミュウツーの逆襲 EVOLUTION



出典:animate Times

あの憧れのミュウツーが帰ってきたということで、1992年生まれ男子の心が疼いたので見に行ってきた。少年の心と大人の心、両方持って映画館へ向かう。

大勢の子供の中、いい大人が1人。ひそひそ何か言われるのを聞こえないフリして、こっそり席に座る。

……正直そんな想像をしてたけど、思った以上に大人が多い。7割か8割が大人だった。みんな、ミュウツーになりたかった人たちだろうか。

大人気なくワクワクしながら座ると、映画が始まる。20年ぶりの再会。幼稚園児の時のヒーローが、スクリーンに映る。

初代ファンへの心遣いが見える冒頭の演出

まず、最初の演出が粋だった。

初代ポケモンのゲーム音が流れて、ピカチュウが走ってくる。その音から幼稚園の当時をなんとなく思い出す。初代からのファンへの気遣いを感じた。ゲーム音が途中から最新のものに切り替わり、ピカチュウのグラフィックも3Dに切り替わる。新しく見た子たちはワクワクしただろうし、初代からのファンは時の流れを感じてノスタルジックな気持ちも味わっただろう。20年の進化を感じながら、映画は始まった。

空想が現実になる映像の進化

3Dのリアルさ、映像の進化が僕の子供心に突き刺さる。ポケモンの感触が映像からイメージできるくらい、リアル。このリアルさからスタートしてる子供がいると思うと、なんだか羨ましいような、ドットの味も知ってほしいような、複雑な気持ちにもなる。完全におじさんだ。子供のころ一度は想像したであろうポケモンの実在する世界観が、そこには実際に広がっていた。ピカチュウがそこら中を動き回り、リザードンが空を飛び回る世界。僕も空想した世界である。その世界がかなりの現実味を持って感じられる。



出典:映画.com



出典:映画.com

原作に忠実なストーリーと新しい意味

ストーリーは原作に忠実に作られており、ストーリーのテーマはそのまま、映像技術の進化によって大きく変化をつけている。しかしストーリーそのものは原作に忠実であっても、原作を子供の視点で見て、今作を大人の視点で見た僕には、当時との変化も感じながら体験することができた。子供心と大人心を往復して見えたストーリーには、新しい意味が見出せる。

ミュウツーは僕だった

子供の頃、ミュウツーは強さの象徴であったし、かっこよさの象徴だった。だからこそ幼稚園年長だった僕も鼻垂らしながら「ミュウツーになりたい」とか言っていたわけだし、それはこの映画を見た子供も同じようにそう見ているのかもしれない。

でも、大人になって見たミュウツーは、少し見え方が違っていた。ミュウツーは強さの象徴だけではなく、何か別のものを象徴しているように思える。ミュウツーが象徴していたのは、

僕ら

ではないかと思うのである。

誰かの決めた目的に生きること

僕たちは少なからず、社会の目的に沿って生きている。学校へ行き、社会へ出て、愚痴とか言いながら働く。そんな時にふと、「あれ、僕って何のために生きてるんだっけ?」と考えることがある。人生には気づかないうちに、自分ではない誰かが決めたことのために生きていることがあるように思う。それは、ミュウツーに「最強のポケモンであること」という人為的な目的が決められていたことに似ている。

誰かと比べて存在理由を探すこと

そしてその状況に疑問を持って、「なんか違う! 自分にとっての特別な存在理由を見つけよう!」と思ったとき、どうしてもやってしまうことがある。それは、他人と比べること。他の人よりも、お金を持っている。他の人よりも、いいところに勤めている。自分の存在理由を、他人と比べて確かめてしまうことは大人になってからこそよくあること。これも、ミュウツーがオリジナル(人間)に逆襲することによって、相対的に存在理由を証明しようとしたことに似ている。

誰かと比べて疲弊するのをやめるとき

オリジナルv.s.レプリカの戦いでお互いが傷ついて疲弊していく様子も、誰かと比べ続けて疲れ果てていく閉塞感と被って見える。そして最後、ミュウとミュウツーの戦いを止めようとしたサトシが石のようになって動かなくなり、それをピカチュウが必死に起こそうとしている様子を、ポケモンたちが見守るシーンがある。このシーンのあと、ミュウツーは真理を悟る。そこに、新しいメッセージを感じる。

「生きている。」

必死に電撃を当て、起こしても起きないサトシを見てピカチュウは涙を流す。もらい泣きする。観客みんなのぐすぐすが聞こえる。



出典:映画.com

動かないサトシを見て、戦っていたオリジナルとレプリカが一緒になってサトシに向かって涙を流し、その涙がサトシを復活させて、気づけば戦いが終わっていた。オリジナルv.s.レプリカの構図だったものが、オリジナル&レプリカの構図に変わっていた。お互いにエネルギーをぶつけ合い、消耗していく構図から、レプリカも1匹のポケモンとして、「サトシを救う」という1つの役割を果たす構図に変わった。そうやってレプリカもオリジナルと等しく1つの役割を果たす様子を見て、ミュウツーは1つの真理に気づく。

「レプリカだろうが、私たちは生きている」

という真理に。オリジナルという“外”に求めていた存在理由を、レプリカの“内”に見つけたのだ。ミュウツーと同じように僕たちも、存在理由を“外”に求めてしまうことがある。そうして他人と比べ続け、消耗していく。比較することで成長していけるかもしれないが、肝心の存在理由は見つからない。最強のミュウに勝ったとしても、人間を滅ぼしたとしても、ミュウツーは存在理由を見出せなかっただろう。じゃあどうやって存在理由を見つけるのだろう? ミュウツーが気づいたのは、

「存在することに理由など必要ない」

その1点である。誰かと比較して存在理由を見つけるという考えは、「答え合わせ」の考えに近い。どこかに「答え」がある前提で、それを確かめようとする。でも、人生にいわゆる「答え」はない。だから必死に確かめようとしても、確かめることはできない。そもそも外には存在しないからである。その矛盾にミュウツーは気づいたのだろう。「答え合わせ」の考えが使えないなら、残るは1つ。「答えづくり」の考え方。最後、飛び立つミュウツーやレプリカのポケモンたちに、サトシは「みんな、どこへ行くの?」とミュウツーに尋ねる。ミュウツーは「我々は生まれた。生きている。生き続ける。この世界のどこかで。」と答えた。どことは答えない。ただ、生きるという宣言。このシーンはまさに答え合わせをやめ、自分の人生を生きるという宣言であろうし、ミュウツーの人生が「答えづくり」にシフトしていくクライマックスだろう。

ミュウツーと僕がリンクする

この裏に見えるストーリーは原作公開当時の1998年以上に、現代的なストーリーに思える。SNSやインターネットによって、知らない、華やかな世界が嫌でも目に入ってきて、自分の存在理由がちっぽけなものに見え、「もっと、もっと」と外に存在理由を探してしまうことはよくある。ミュウツーの逆襲のストーリーは、僕たちが時々感じる人生へのネガティブな感情を映して、克服していく様を表している。その様が、自分自身の人生に対する「もがき」みたいなものと被って見える。その部分に共感できるのは、やっぱり大人になって当時よりは多少人生を知った僕だからだろうし、タイムスリップして当時の僕に今作を見せても、「うおー! すげー! ミュウツーになりてえ!」とやっぱりなるだろう。楽しみが二層になっているのである。今作をより楽しめるのは、もしかすると二層目が見える大人の方かもしれない。

ミュウツーの逆襲は、ミュウツーがかっこいい映画であると共に、ミュウツーの内面の成長を辿る物語でもある。この物語が誰の物語なのかと言えば、僕たち大人だろう。ミュウツーは、ある意味で僕らなのである。ミュウツーになりたかった1992年生まれの男子は20年の時を超えて、ついにミュウツーになったらしい。憧れと共感、子供心と大人心を行ったり来たりしながら見られる作品だった。

子供心に見た経験があるからこそ、こうして時の変化を楽しめるのだし、別の物語を見ることもできる。ミュウツーの苦悩と変化まで含めて、意義を見出せる。ミュウツーが空のかなたへ飛び立つシーンを見て、「そういえば俺、生きてんなー」なんて思う。20年経ってやっと、憧れのミュウツーの苦悩も理解して、ミュウツーから受け取ったメッセージは、これだった。

「お前も生きている」


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[イラスト]清澤春香

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