主語が誰か(何か)、明確に分かる文
日本語は主語がなくても成立するという点で、英語と比べて特殊であると思います。ほら、今の文章も主語がありませんでしょう?
主語が省略されるのは、たとえばこんな時です。
- わざわざ言わなくても誰が話者か分かる時
- 何度も同じ主語を使うとくどい時
- 話者を特定したくない時
- 話者を特定できない時
この省略された主語が文脈から判断できればいいのですが、できない時もままあります。たとえば次のような場合です。
やがて御釈迦様はその池のふちに御佇(おたたず)みになって、水の面(おもて)を蔽(おお)っている蓮の葉の間から、ふと下の容子(ようす)を御覧になりました。≪中略≫その地獄の底に、 陀多(かんだた)と云う男が一人、ほかの罪人と一しょに蠢(うごめ)いている姿が、御眼に止まりました。この 陀多と云う男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊でございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。
※注 青字は本稿筆者による
出典:『蜘蛛の糸』芥川龍之介(1986年)
まず2文目の「御眼に止まりました」の主語は、文脈と「御眼」の単語から「御釈迦様」であると容易に推察できます。ただ3文目の「覚えがございます」でつまずきます。覚えがあるって、一体あなたは誰?
「『蜘蛛の糸』の話者は誰か」というテーマで論文が書けてしまいそうなくらいの深い命題を読者に投げかけるこの文章。文学という観点から見れば名文でしょう(芥川龍之介をつかまえて、名文も何もあったものじゃありませんが)。しかし英語という観点で見ると翻訳不可能、もっといえば意味不明な文なのです。無理やり主語をI(わたし)と設定するか、「覚えがございます」の部分を落として訳さなければなりません。
すなわちプレゼンなどの場面にも不向き。「覚えがございます」なんて言えば、十中八九「覚えがございますって誰が覚えてるんや?」と上司につっこまれることでしょう。
話者を明確にすることは、責任の所在をはっきりさせること。社会人として必要な条件です。分かりやすさ第一の文では、英語のように主語を明確にした方がいいですよね。