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清水翔太が売れきらなかった理由をback numberを通じて考える(後編)

岡本拓 岡本拓


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出典:清水翔太OFFICIAL WEBSITE

女々しさをそのまま歌った清水翔太

前編ではback numberの歌詞の持つ“女々しさ”と、彼らがそれをうまく魅力に昇華していることを解説したが、一方の清水翔太はどうなのであろうか。back numberと同じように、彼の代表曲を例に考察していこう。

君が好き 一番大切な人
ずっと側にいて 駄目な僕を叱ってよ
(『君が好き』)

「アイシテル」愛してる
ちっぽけな僕だけど 君を失いたくないよ
(『アイシテル』)

痛みのない愛があれば どんなに楽だろう
君を想えば想うほど 僕は、君を傷つけてしまう
(『love』)

Reference:YouTube

ただ僕が心から願うのは
いつかまたどこかで出会うなら お互いが許しあい
理解りあい そしてできれば笑いたい
愛なんてそこになくていい もう一度やり直したい
(『Love Story』)

だけど最近の冷めた態度 愛せば愛すほど虚しいよ
君が友達と一緒に話してるとき 僕と2人でいるより楽しそうだね
(『GOODBYE』)

上記の楽曲は、ほんの一例である。(5曲中、4曲がシングルとして発売された曲だ)シングル曲に限らず、彼の曲はこのような叶わない、続かない恋愛の曲が多い。『アイシテル』や『君が好き』で見せた自分の弱さを恋人に預ける姿勢、『love』『Love Story』など、多数の曲でモチーフとして用いられる恋人との喧嘩とそれに付随する別れ、『GOODBYE』などに見られる、恋人への自信のなさと疑念の感情…など、男子ならきっと「ドキッ」としてしまう、そんな女々しい感情のオンパレードである。

作詞表現としての全体的なクオリティは一旦置いておくとして、男性の女々しい感情を表現した歌詞としては、とてもリアルで、正直なかなかクオリティが高いと言わざるを得ないだろう。
しかし、これらの楽曲を連続して聞いて頂いた今、あなたの心の中にはきっと「いい曲だ」「言い歌詞だ」という以外の、他の感情が芽生えているに違いない。それはきっと「女々しさに対する嫌悪感」だ。

女々しいという印象はback numberと同じなのに、どうして清水翔太の歌詞から受ける印象は全く違うのだろうか? 前編で「社会の雰囲気が男の女々しさを受け入れ始めている」と書いたくせに、矛盾しているのではないか、と問う人もいるだろう。しかし、長々と書いてしまって申し訳ない。答えについては、前編ですでに説明している。清水翔太の歌詞には、back numberの歌詞にあるようなユーモアのエッセンスが全くないのである。

現実の男で考えてみよう、どちらを恋人にしたい?

分かりにくいのであれば、現実の男として考えてもらうといいかもしれない。
例えばここに、A君という一人の青年がいたとする。彼は自分に自信がなくて、女の子に対しても奥手な面があるが、言葉のチョイスが面白いところがあったり、自分のことを『ネタンデルタール人』と言う意味不明さがあったりして、女々しさを笑いに変える能力がある。ダメな部分が多く、自虐的なことも言ったりするが、愛嬌があってなぜか嫌いになれない。結果、「もー、しょうがないなあ」となってしまう、そんな男だ。きっと、あなたの周りにも一人や二人はいるのではないだろうか。

方や、B君というもう一人の青年がいたとする。彼もA君と同じように自分に自信がなく、女の子に対して奥手、おまけにどこか影を感じさせる部分もあり、何かの理由があって故郷にも帰れないらしい。控えめに言って、明るい元気なメンズではない。もっとはっきり言うなら、女々しい感じの若者だ。しかし、A君と致命的に違うのは、彼には女々しさをネタにするような、ユーモアの感覚がないということだ。批判ではない、痛みや悲しみと言った感情にあまりにも真摯に向き合っていて、それを茶化したりしない、ある意味での誠実さを持っているということなのだ。その姿勢はとても立派だし、学ぶべきことも多いが、ずっと一緒にいたいかと問われたなら、簡単にはYesとは言えないはず…。

二人の青年の中から恋人を選ぶとして、どちらを選ぶだろうか。好みは人それぞれであるが、あくまで多数決をとった場合、前者の青年になることは目に見えているだろう。商業的にヒットするというのは常に多数派に寄り添うことであり、単純に楽曲のクオリティが高ければ多数派に選ばれるわけではないのだ。

アーティストは「お耳の恋人」である

そして、なにもこの話は恋人関係に限った話ではない。同じように音楽でも当てはまる話だ。アーティストというのは結局、リスナーにとって“お耳の恋人”にならなくてはいけないのだ。それなのに、「駄目な僕を叱って」「僕のことを分かって」「傷つけても許して」などと、シリアスな感情ばかり歌っている…これでどうしてより多くの人の“お耳の恋人”になることができるだろう? 明るい未来が常にイメージできた時代なら良かったかもしれないが、今はそんな生易しい時代でもない。

自己憐憫の危険性

また、痛みに対して真摯に向き合い過ぎることには、他の危険性も伴う。一言でいうなら、メンヘラ認定されてしまい、自己憐憫と一蹴されてしまう危険性だ。「痛みに対して真摯に向き合うこと」は、ある一線を越えると「痛みを通じて自己を認識している」と受け取られてしまう。そうなった場合、人は「でも、そんな自分が好きなんでしょ?」「可哀そうな自分がかわいいんでしょ?」と、うがった見方で見てくるようになる。感情移入する前に、冷めてしまうのだ。

これは作詞表現に限らず、表現者が陥りがちなミスだ。「自分の傷を癒した創作物が、大衆の傷も癒す」ことは、古今東西数多くの芸術表現に見られ、創作の不思議かつ醍醐味のひとつであるが、単なる自分への憐みは不思議と他者の傷を癒さないのである。

いくら良い曲を歌っていても、リスナーの視点がなければ意味がない

想いを込めれば、心を込めて歌えばそれだけで多くの人の心に響くわけではない。清水翔太がいくら質の高い失恋曲、悲恋曲を歌ったところで、広く大衆に支持されるわけではないのだ。時代の雰囲気に合うか、歌い手が男性か女性か、本人のキャラクター…などなど、より多角的な観点からの分析が必要なのである。

「心を込めて歌えばいい」

より大衆に支持されるために必要なのは、そのような自己満足な精神論ではなく、受け手であるリスナーの立場に立った思考なのだ。歌詞の書き方ひとつをとってみても、語れるポイントはたくさんあるのである。

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