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アウトレイジ 最終章【連載】田中泰延のエンタメ新党

田中泰延 田中泰延


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https://pbs.twimg.com/media/DEqQYIGVYAAq0Xc.jpg出典:ファッションプレス公式twitter

ストーリー自体はネタバレになるので書きませんけれども、ヤクザの世界の補償、暴力、権力闘争を描いているようでいて、これは一般社会、実社会の組織における人間関係、力関係そのものであること。登場人物のすべての行動は、「他人が起こした責任と補償をめぐって」のものです。主人公である大友もその原理から逃れられません。
 

本作では、何もすることがなく、大友たちが平和に突堤で釣りをするシーンからはじまるのでなおさらです。
 

しかし、冒頭の太刀魚のシーンは、北野武監督本人も語っているように、封印された暴力のメタファーです。太刀魚は夜行性なので昼間は姿をみせない。しかし一発の銃弾によってその刃物のような姿をあらわにする。それは眠らせていた暴力性を発動させる大友そのものです。
 

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キタノ映画のコード

https://pbs.twimg.com/media/DMJ0nngVoAEBgkQ.jpg出典:アウトレイジ公式twitter

この第3作「最終章」は、物語を「終わらせるため」に作ったんじゃないかと思うんですよね。そもそも第2作のキャッチコピーは「全員悪人、完結。」・・・因果の連鎖としても終わったようなものだったんです。ダークヒーロー大友=ビートたけしがある種の決着をつけている。ですから、あそこで終わっていても何の問題もなかった。

 

非常に因縁を感じますが、北野武は1989年、深作欣二からメガホンを引き継ぐ形で「その男、凶暴につき」で監督デビューします。

http://eiga.k-img.com/images/movie/37573/photo/2ec32c38ef7e135e.jpg?1469169322出典:映画.com

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それが先にも述べたように、結果、「スジを通すか否か」、そして「生と死に意味はあるか」という深作欣二的なるものを葬り去る形になりました。まったく新しい、衝撃的な映画表現がそこにあった。ただ人間が立ったまま撃ち合う。人間の死には、何の意味もない。死に意味がなければ、すなわちそこまで描かれた生にも意味がない。また主要な登場人物には必ず希死念慮がある。

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/41ytbHGIG%2BL.jpg出典:Amazon

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で、すっかり忘れてましたが、僕が作家としての映画監督を概観するときに物差しにしているのは
 


1. 映画監督は何本映画を撮っても言いたいことは同じ
2. 映画には意図のないシーンはひとつもない
3. 映画の半分は音だ

 

って話なんです。
 

1. 映画監督は何本映画を撮っても言いたいことは同じ
上にあげたキタノ・フィルム、予告編だけでもざっと眺めてください。基本的にぜんぶ同じなんですよ。暴力連鎖のメカニズムの発動と、破滅。そして監督・北野武が主演・ビートたけしに託して実行させる自殺。そしてそれは実生活での「フライデー編集部殴り込み事件」と「バイク事故」で実行に移されてしまうんですが、彼は(たまたま)死なずに映画を創り続けることになります。
 

2. 映画には意図のないシーンはひとつもない
キタノ・フィルムの「死への願望」は共通する「キタノ・ブルー」と謂われる「あの世の色調」でフィルムに写し取られていました。あれは冥土の色なんですよね。
また、すべての死にゆく登場人物は、必ずと言っていいほど、なんということはないルーズなバストアップのショットが2秒から3秒続いてから、死んでいた。それは死を切望する長い長い時間そのもの、甘美な「死を待つ時間」でした。
 

ですが、「アウトレイジ」「アウトレイジ ビヨンド」の2作には、そのような甘美な「死を待つ時間」は許されていませんでした。暴力の連鎖と死の系譜としては「3-4×10月」「ソナチネ」「HANA-BI」「BROTHER」などに連なる変奏曲に過ぎません。しかし決定的な転調があった。その転調のコードは、一言で言って「生への疾走」にあるのではないでしょうか。

 

不意にばしばしと小気味よく、人が死んで行きます。それは登場人物が死を望んでいないがゆえです。また、その小気味よい死は、実は効率のよいコメディ表現としてこの作品を長調へと転調させています。
 

暴力表現は、突き詰めると笑いに転化します。暴力表現はユーモア、さらにいうと爆笑につながる、というのをよくわかっているのは、もちろんタランティーノでしょう。「デス・プルーフ」や「イングロリアス・バスターズ」を観れば顕著ですよね。
そういう意味では、「風雲!たけし城」「THEガンバルマン」「お笑いウルトラクイズ」と、暴力表現=笑い、のコードを追求してきたビートたけしなんですが、「アウトレイジ」「アウトレイジ ビヨンド」では自殺願望から解き放たれて、ついにスクリーンで「暴力による長調」を演奏することに成功したのではないでしょうか。
 

自殺願望からの解放は、主人公の行動にはっきりとあらわれています。「アウトレイジ」では、観客の誰もが彼の大立回りと壮絶な死をカタルシスとして望んだその瞬間、彼はあっさりと手錠を選ぶのです。「アウトレイジ ビヨンド」では、まさかのさわやかエンディングさえ用意されていました。
 

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