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無職は冷たい玉座に座る【連載】神様がボクを無職にした

フミコフミオ フミコフミオ


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世の中は、本来ならば誰にとっても生きやすい社会に向かっていっていなければならないが、基本的には便利になる一方である。それでは今、一方的に便利になっているはずの世の中で、僕が感じているこの生きにくさ、窮屈さはどこから来るのだろうか。

たとえば最近のSNS。発言にわずかな瑕疵があるだけで、面識のない人たちから断罪され、謝罪を求められる。酷い場合は「死ね」「イ〇ポ」などと誹謗中傷される。人が誰でも死ぬことは自明の事実であり、僕がEDであることも逃れられない現実なので、悪口としては事実現実を指摘しているだけの低レベルの出来損ないにすぎない。

問題は、面識のない人であっても誹謗中傷できてしまう、ということだ。

以前は越えられなかった一線をイージーに越えてしまう。無論、それなりの問題発言をすれば叩かれて然りなのだけれども、あまりにもそれが行き過ぎると、冗談もいえない息苦しさになってしまうのもまた然りなのである。現代には総じて余裕がない。笑って流すような余裕が。「いいじゃん」「ええやん」みたいな。
 
 
今、僕はこの文章を野球の国際試合のテレビ観戦をしながら書いているのだが、ちょっとした事件があった。ホームランになるかどうか微妙な打球を、外野席にいた子供がキャッチしてしまったのだ。ホームランはツーベースヒットになってしまった。

僕は、当該子供がSNSで激しく叩かれているのを見た。その子供がしたことは褒められたものではない。だが、何千だか何万だかの大勢から袋叩きにされなければならないほどのものだろうか。「アホなことするな」とお灸を据えればいいだけのところに、火炎放射器を持ち出すのは人としてどうなのだろうか。罪と罰のバランスが崩れている。余裕をもって受け流すことの重要性について考える今日この頃なのである。
 

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