(後編)声なき声を聞くこと
映画「沈黙-サイレンス-」
かつては広告の仕事をしていたような気がしますが今ではすっかり無職の僕が映画や音楽、本などのエンタテインメントを紹介していくというこの連載。
そうこうしている間隙を縫って雑な内容を雑に書いたりしています。
糸の切れたタコです【連載】ひろのぶ雑記
どんな映画を観るにしても、「かならず自腹で払い、いいたいことを言う」をルールにしているのですが、一回のお話で映画一本とは決まっていません。
なので、マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙 -サイレンス-」のお話は、まさかの前編・後編に分けてお送りします。
前編のお話はこちら。
映画のストーリーはざっと言うと
違いました。これ、『HUNTER×HUNTER』が連載止まってるとこまでのあらすじでした。もう今回の映画、難しくて、書けなくて書けなくて思わず休載しそうになったので、自分が冨樫義博先生だと思い込んでいました。
あらためて映画「沈黙 -サイレンス-」予告編をごらんください。
Reference:YouTube
そして今回は、前編のお話の後に、編集部が勝手につけたなんだか偉そうなツイッターのハッシュタグ、
#田中泰延よこれが沈黙だ
にみなさんからのご意見をいただきました。この映画に対するたくさんの感想、それぞれの視点、非常に興味深かったです。ありがとうございました。
とにかく、観た人は考えまくる映画ですよね。
この映画の脚本家、ジェイ・コックスは
「“考えること”はエンタテイメントだ。映画に刺激されることによって、自我や意識が拡大する」と言っています。
まさに、そんな映画でした。
ご意見を全部ご紹介できないのは申し訳ないのですが、いくつか採り上げさせてください。
みなさまからのご意見(抜粋)
「沈黙」という話|門松一里|note(ノート)#田中泰延よこれが沈黙だhttps://t.co/lo8oomobAc
— 門松一里 (@ichirikadomatsu) 2017年2月20日
まずはここから。
門松さんの『「沈黙」という話』はパート1から4まで更新されています。これを読めば、なぜ宣教師は日本へ来たのか、なぜ豊臣秀吉も徳川家康も「キリスト教はヤバい」と思って弾圧したのか、前提となる歴史を学ぶことができます。
沈黙を語る神と、“Amazing Grace”。そこを押さえておかないと、いろんなことがわかりません。
ただし、小説、そしてこの映画「沈黙」が描く時代では、もはやバテレン大名もいません。島原の乱も鎮められました。最後の2人の宣教師の、最後の物語となっていますので、遠藤周作やスコセッシが布教の歴史と意図を「ぼやかした」わけではないと思います。もはや最後の物語なのです。
「田中泰延よこれが沈黙だ」なんておこがましすぎてとても言えないんですけど、いい機会をもらったと思って、「ぼくのかんがえた『沈黙』」を3500字ほど書いてみました。https://t.co/qOei0SKgak #田中泰延よこれが沈黙だ
— negri-project (@negriproject) 2017年2月16日
圧巻です。ねぐりさんの3500字。これをまるまる引用すれば今回の原稿は半分終わるところでした。
- 「声」をめぐる映画
- 「絶望」の対義語は「狂気」
- 「拝む」ための対象
- モ『キチ』と『キチ』ジロー
- スクリーンのこちら側の「神」
もはや僕が語ることは何もありません。
このあともいくつか参照しながら話していきましょう。
田中さん@hironobutnkのとネグリさん@negriprojectのをもう二回づつくらい読もう。どうにも頭の中が整理できない。神とは?信仰とは?赦しとは? 結局は心の有り様なのかも・・・あと未見の人にこれだけは言っておきたい。スティーブン・セガールは出てないよ! pic.twitter.com/TOMKMjtYaW
— 付焼刃砥蔵 (@tackn_roll) 2017年2月19日
それは「沈黙の戦艦」とか「沈黙の要塞」のスティーブン・セガールやろ。沈黙違いやろ。
セガールは出ていませんでしたが、セガールより強そうなプロレスラーの高山善廣は出ていました。
高山さんといえばやっぱり僕はドン・フライとの伝説的な・・・それからプラモデルが・・・そんな脱線が許されるような映画じゃないので僕を止めてください一晩中話してしまいます。
『沈黙-サイレンス』で一番印象的だったのはエンドロールの自然音。自然音は母音で、日本人とポリネシア民族だけが母音を言語野で聞くという説がある。彼らは自然音からメッセージを感じ取ることができる。でも、他の民族には自然音はただの雑音か、沈黙に聞こえるという説 #田中泰延よこれが沈黙だ
— oʞoʎ (@yokohime) 2017年2月18日
そうなんですよ。この映画、虫の声で始まり、虫の声で終わる。また、井上筑後守がやたらに虫の羽音を気にする。
虫や自然は日本人にとって遍在する神のようである、という表現のようにもとれるし、また遠藤周作の原作では、人の世にどんな悲惨なことが起ころうと虫は関係なく鳴いている、という叙述もありました。
劇中で信仰について、根を張るとか葉が付くとか花が咲くとかって会話があるけど、種っていう言葉が出ない。沼に種を撒くっていう話がしたかったんじゃないかと思うんですよ。せっかくなのでタグ使わせてもらいますw #田中泰延よこれが沈黙だ #沈黙
— 赤松崇麿 (@aka_macka) 2017年2月19日
それ、わたしも思いました。種をまいて育てるという発想が、出てこない。僕が前編で書いた「聖書の翻訳がない」という話とも繋がってきますね。
この「種」と「沈黙」という言葉は、僕が昔から何度聴いても意味がわからない、この歌の歌詞を思い出しました。
サイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』です。
Reference:YouTube
Hello darkness, my old friend
暗闇よ、我が古き友よ
I’ve come to talk with you again
また君と話そう
Because a vision softly creeping
幻影が忍び寄り
Left its seeds while I was sleeping
眠りの中に種を残して去った
And the vision that was planted in my brain
脳裏に植えつけられた幻影は
Still remains within the sound of silence
消えないまま、「沈黙の音」と共に
これも、なかなか示唆を含んでいると思うのですが、それはまたの機会に。
ご意見をお寄せくださった皆様、ありがとうございました。全部を読まれたい方は、ツイッターで
#田中泰延よこれが沈黙だ
#党首よこれが沈黙だ
#ひろのぶさんよこれが沈黙だ
を検索していただけましたら幸いです。
God’s Point of View – スコセッシの神の視点
出典:「沈黙」予告編
出典:「沈黙」予告編
前編では、篠田正浩監督版の映画「沈黙」を紹介しましたが、そちらは徹頭徹尾、人間目線の映画化でした。スコセッシ監督は、彼の多くの映画でもそうなのですが、この導入部分のショットでも顕著なように“God’s Point of View”と呼ばれるカメラアングルを使います。
これにより、上でねぐりさんが指摘しているように、スクリーンのこちら側でこの映画を観ている私たちが、沈黙するしかない神の立場になってしまうんですね。
もっとも、僕が観た大阪・箕面の映画館では、大阪のおばはんが「踏んだらアカン! 踏み絵踏んだらアカン!」と叫んでいましたからあのおばはんは神以上の存在だったのかもしれません。
主人公が神の視点で全体を眺め、さらにそれを観せられる私たちも神々の一員のように、とってもつらい思いをさせられるすごい映画がありました。「神々のたそがれ」です。
神々のたそがれ【連載】田中泰延のエンタメ新党
また、スコセッシのアングルは神の視点なのに、すべてが見渡せるかというと、そうではない。たとえば主人公が乗る舟には視界を遮る霧がたちこめるんですね。これは神でも全部は見えないという表現ですね。多くの人が指摘していますが、これはスコセッシが敬愛する溝口健二監督の「雨月物語」へのオマージュですね。
モキチ
出典:「沈黙」予告編
この映画、とにかく「拷問」そして「殉教」の描写が観客の心をズタズタにします。
僕、なかなか気がつかなかったのですが、あとから考えたところ、驚くべきことにスコセッシは、この映画を宗教的にしないために「拷問」と「殉教」を図式的だったり、メタファーにしなかったんじゃないかと思うんですよね。そこをリアルにしなかったら、それこそ観念的になってしまう。
それはある意味、「宗教的恍惚」の描写になっちゃって、思考停止になるからなんですね。
前編で、遠藤周作の創作を「真に受けた」スコセッシが、リアリズムタッチの映像にしてしまって、それを日本人である我々が観ることは一周回った倒錯だと言いましたが、この映画は、この倒錯によって、すごいことになったんだと思います。
日本におけるカトリック教徒として悩んだ遠藤周作が、自分の心の投影として役割を振って造形した人物たちが、スコセッシのリアリズムによって投影ではなく人間としての姿を見せた。これ、原作でも、篠田正浩版でもなし得なかったことだと思うんですよね。
遠藤周作がほんとうに描きたかったことが、歴史の沈黙が、この映像でようやく、ついに、打ち破られた。
遠藤周作は述べています。
「弱者たちは政治家からも歴史家からも黙殺された。沈黙の灰の中に埋められた」
強者がルール・ザ・ワールドしようとしている、今2017年にこの映画を突きつけられたからこそ、観た我々はめちゃくちゃ考えてしまうんだと思うんです。
通辞とイノウエサマ
映画でそこが割愛されているのが残念なのですが、通辞も、井上筑後守も、かつてはキリスト教徒だったんですね。
その教義に疑いを抱いたから、またヨーロッパ人の態度に問題を感じたからこそ、非常に理詰めで神父たちを追い詰めていく。文明の衝突もこの映画では描かれていますが、理知的、論理的なのはむしろ日本の知識階級の方ですね。キリスト教のほうがむしろ理屈がないんですね。ヨーロッパ人が「土人だから教化しなければ」と考えていたはずの日本人に思いっきり論破されてしまう。
しかし彼らは絵踏みを、「形だけでいいから」とも言うんですね。心まで支配できないことは彼らもよく分かっている。
フェレイラ
論破されるを通り越して完全に日本側になってしまった人として描かれるのが日本名・沢野忠庵こと元・フェレイラ神父ですね。キリスト教はおかしいという本「顕偽録」まで書いています(本人が書いたかどうかに関しては諸説あります)。
ロドリゴ神父と沢野忠庵の議論はこの映画の中で最もスリリングな時間です。
フェレイラが言う、「殉教者は神のために死んだんじゃない、お前のために死んだんだ」・・・これは前編でも指摘した、白人を拝んでしまう日本人のことを言っていると同時に、驚くべきことにキリストにも言ってるんですね。
そして、この国は沼だ、キリスト教は根付かない、という話になります。
僕はこの芥川龍之介の小説を思い出してしまいました。
芥川龍之介『おぎん』
『芥川龍之介全集5』(1987年)ちくま文庫、筑摩書房(出典:青空文庫)
キリシタンのおぎんは、仏教徒として死んだ両親の娘である。おぎんは、幕府に棄教するか殉教するかと迫られ、ギリギリのところで「邪教を信じて死んだから両親は今ごろ地獄にいるだろう。自分だけ殉教して天国へはいけない、わたしも地獄へ堕ちます」と涙を流して棄教する、というお話です。
この話に涙して、ああそうかと膝を打つ日本人の心、日本の風土というものを考えてみてください。
ベルイマンの映画「沈黙」
さて、人間が何をしようと、なにを祈ろうと、神は沈黙しています。沈黙していないのは人間のほうで、絶えずコミュニケーションしています。
コミュニケーションを求める事によって人間が救われるかというと、これが往々にして、うまくいかない。現世に口を開けた地獄に堕ちる。そこから救われないことでさらに人は神の沈黙を知り、絶望する。
このことを描いた映画には先駆者がいます。
タイトルもズバリ、「沈黙」。
イングマール・ベルイマン監督の1963年のスウェーデン映画です。
出典:Amazon
遠藤周作の小説『沈黙』は1966年の刊行ですから、きっと意識していると思うんですよね。
出典:YouTube
映画は、3人の登場人物で構成されています。
キリスト教的な倫理をふりかざす姉。
それに逆らい反道徳的な行為を繰り返す妹。
出典:YouTube
そして妹の幼い息子。
妹は色んな男と手当たり次第に乱れた性生活を送ります。しかしそれを非難する姉は妹を叱るのに、実は妹に嫉妬していて、禁欲的なようで心の中は千々に乱れているんですね。自慰行為をしたりします。2人とも、まったく救われない世界で生きてるんですよ。
で、妹の息子は、何も言わないで、というより2人のやってることがわからないから、幼い目で2人のことをただ、見続けるんですね。この子供の視線が、神の目線であり、沈黙なんですよ。
救われない2人を神は救うかというと、何もしない。できない。
姉も妹も沈黙しないで、人間としてコミュニケーションを求めていろいろ、言ったりやったりするんですけど、やればやるほどひどい状態になっていくんですね。
この映画は神に対する絶望の問題としての「沈黙」を扱っています。
まったく違う時代、題材なのに、遠藤周作の小説とどこか通じ合うものがあると思うんです。
キチジロー
もうね、キチジローは、まさしく逃げるは恥だが役に立つですよね。
家族が殺されるというギリギリのところで彼は「転ぶ」わけですが、わたしたちが同じ立場になったらどうでしょう。
遠藤周作も「キチジローは私です」と言っている。
キチジローは頼りにしているはずのロドリゴ神父まで売ってしまいます。そのとき、銀貨を投げられるシーンはまさに、キリストを裏切ったユダになぞらえられてますね。ユダも、銀貨を投げられるのです。
ただただ救いを求め続けるキチジローは、しかしあっと驚く反転を見せます。
ロドリゴに対するユダだった者が、ただ救いを求めるうちに、キリスト的に変化してくるんですよね。
イエスは聖書でもユダに「汝のなすべきことをなせ」と言います。これは聖書の中でも大きな謎で、それは、ユダが裏切り、イエスが磔になってこそキリスト教が生まれるのであって、その予定を告げた部分とも解釈されています。
ロドリゴ神父は、どこまでも追いすがってくるキチジローに呆れはするが見捨てはしない。すると、窪塚洋介が演じるキチジローは、だんだん、ロドリゴが思い浮かべる肖像画のイエスに似てくるんですよね。そしてロドリゴ自身、絵踏みしてしまった後はキチジローは自分と同じだと気づくんですよね。さらには、ロドリゴ自身がキチジローに救済される。
映画的なビジュアル、演技、目線、でこのユダからキリストへの変化が語られるというのは、ここはスコセッシの発明で、スコセッシの発動した救いなんじゃないか。
救いとは – ラストシーンへ
出典:「沈黙」予告編
なんどもロドリゴが聞くイエスの声に対して、「沈黙」というタイトルのくせに神が喋っとるやないか、と言う意見もありますが、どう考えてもあれはロドリゴ自身の心の声でしょう。
ただ、
「私の人生が彼について語っていた」
というナレーションと、最後に手に握らせてもらったものは何か、その意味については、簡単には語れないように設計されています。僕にはまだ結論が出せません。
スコセッシ監督は来日時のインタビューで言っています。
「傲慢さが絵踏みによって崩され、ロドリゴは真なるキリシタンになった」
遠藤周作自身が語る『沈黙』
Reference:YouTube
1966年、遠藤周作は原作執筆直後の講演で語っています。
「自分にとって最も尊いものを踏むのが絵踏みです。誰も皆、なにかの踏み絵を持っています。生きて行くために、最も理想としているもの、自分の大切なものを踏まなければならないとき、あなたはどうしますか」
「小説家もみんなと同じ普通の人間です。我々は人生の結論が出ないから小説を書くのです」
また、随筆『切支丹の里』のなかでこう述べています
「私は彼等を沈黙の灰の底に、永久に消してしまいたくはなかった。彼等をふたたびその灰のなかから生き返らせ、歩かせ、その声をきくことは――それは文学者だけができることであり、文学とはまた、そういうものだという気がしたのである」
文学でも、映画でも、音楽でも。芸術とはなんでしょう。
声なきものの声を聞く試みでしょう。
死んだものの声を聞く試みでしょう。
そして、自分の声を聞くことでしょう。
それは、神の声を聞こうとすることでしょう。
そしてそれに触れた人にとって、生きていくための情報があるなにかでしょう。
遠藤周作は、日本に生きるキリスト者としての葛藤を、声なき人々に投影して、その姿を文章のなかに甦らせました。
そしてスコセッシは、遠藤が心の中に投影した灰の中の人々を、ほんとうにスクリーンに投影できる形にしてわたしたちに見せつけた、これが映画の力です。
転んだ人たちを、最も弱い者の声を、拷問の痛みから、背教の謗りから、沈黙の絶望から、救ったのです。
ユダたちを、救ったのです。
今日も神は沈黙しています。人智を超えているから神なのであり、対話できないから信仰という形をとらないといけないわけです。
パスカルは、「信仰とは賭けである」と言っています。
ただ、人間が沈黙するとき、
「沈思黙考」
という言葉があります。よく文字をみてください。沈黙と、思考はワンセットなのです。そうです。沈黙とは、思考することなのです。
ここからすこしアクロバットになるんですが、沈黙する神も、考えているのではと仮定できないでしょうか。
神だけが完全な言葉を持っていると考えるのがあらゆる宗教、信仰、ロゴスの考え方です。
ところが、神も思考しているのだ。だから沈黙しているのではないかなぁと、この映画を観て、ちょっと、思ったんだよなぁ。
それは、遠藤周作の「キリスト教という洋服を日本人にも合うように仕立て直す」という手の動きと、スコセッシの、弱き者を映像で克明に蘇らせ、赦そうとする手の動きの、両方が合わさって、こんな気持ちになったのかもしれません。
ていうか、ほんとに頭壊れるぐらいいろいろ考える映画でしたし、ここを起点に10年ぐらい思考したり、沈黙したりできる映画でした。
最後の最後の最後に。
文学とは、芸術とは、声なき者の声を聞き、その姿を何度でも甦らせるものと言いました。さて、この詩を書いたのは誰でしょう。
いにしえのこと
されど遠からず
波止場で働く男ありて
その糧を失ふ
ただ試練の時
炊事場で働く女ありて
その男のため
ただ愛ゆえに
女曰く
我等が手にしたもの
未だ我等が手中にあり
ことが成れども成らずとも
我等は互いを失わず
愛をもて立ち向かう
我等の道半ばにして
祈りの中に生きる
我が手を取りて誓い給え
祈りの中に生きよと
その詩人の名前はジョン・ボン・ジョヴィと言います。
声なき者の声を、祈りの声を聞く、これこそ文学でしょう。
もう、考えすぎて頭痛いから、歌って終わろう!!
Bon Jovi『Livin’ On A Prayer』
Reference:YouTube
今回、勝手に前後編に分け、勝手に記事公開日を予告して勝手に遅くなり、大変失礼いたしました。前後編の間に、たくさんのご意見をお寄せくださった皆様、そしてはよ書けはよ書けと無責任かつ生温かい声援をくださった皆様、冨樫義博先生に代わって御礼申し上げます。
「田中泰延のエンタメ新党」は毎月第三水曜日に連載(のはず)。次回は3月15日水曜日(のはず)。
地球の公転自転の変化及び巨大小惑星の衝突また戦乱災害などがなければ・・・。ほんとに、そんなことのないことを願います。
今度は、たぶん「ラ・ラ・ランド」観て、書きますね。