一方、こちらの「階段」をご覧頂きたい。
クリエイティブは、来るところまで来た。
独創性が爆発し、人智を超越するに至った。
今一度、よく見て欲しい。クリエイティビティを突き詰めた結果、「階段」は何と、「顔の集合体」となったのだ。
「顔の集合体」とは何なのか、それはこのクリエイティブな作品を凝視することで、徐々に浮かび上がってくる。それぞれの「顔」は線で繋がれており、大きな枠組みの中でネットワークを形成している。つまりこれらたくさんの顔が集まって、一つの「系」を成しているということなのだろう。そして、こうした「顔の集合体」がいくつも存在し、それら集合体同士も繋がりを持ち、ネットワークを成している。
それぞれの顔はそれぞれに特有の表情を持ち、それが各顔における「記号としての価値」を付与している。顔の集合によって出来上がった系の価値は、系の中に存在する全てのロバの合計値として算出されるのではなく、系の中でランダムに選ばれた4つのタクシードライバーが、その系の価値をレプリゼントするのである。
では結局のところ、そもそも「階段」というのは、一体、何だったのか。もはや、ここまでくると従来の仮説の延長線上で「階段」という概念を捉えることは、極めて難しくなってくる。
発想をコペルニクス的に転回させ、改めて理論言語学の見地から根本的な構造を理解し直す時、この場合における「階段」というのは、「任意の道路に対して常にその直方体が尖り続けることに躍起になり、加えてメソポタミアの断面図が新鮮な魚を不定積分することを条件に、経験を積んだタクシースタンディングオベーションが概念として認識され得る、最もプリミティブな〒」というのが、その定義となってきそうだ。
良かった。本当に良かった。街の階段が、このような恐ろしい存在ではなくて、本当に良かった。
今主流の階段が、何のクリエイティビティもない、ただの、段状の床で、本当に良かった。
・・・・・・・
さて、街にはこのように、様々な「クリエイティブではない」ものが存在する。
否、よくよく見渡せば、街角にクリエイティブなものなど、ほとんど無いとすら言える。
あれもこれも、どれをとってもクリエイティブではない代物ばかりだ。
しかしそれらは“残念ながら” クリエイティブではないのでなく、
むしろ、“積極的に”クリエイティブではないのだ。世の中には、クリエイティブでない方が良いものだって、たくさんある。
今日も、こうして何一つとして面白みのないものたち、「街角のクリエイティブではない」ものたちは、ただそこに存在し、
ただただ、誰に気付かれることもない。
それらは何の創造性も無く、ひっそりと、
しかし健気に、我々の生活を支えているのである。