そのままは「リアル」ではない
西島さんのおっしゃる「リアル」に関して思い出しました。
わたし、ある作家先生、まさに老大家のお宅に何年も通う経験をして。いわゆる「師事」なんですけど。
でも文章を読んでもらうことは一切しなくて、ただ、お話を聞いて酒を飲む、ということを何年も続けたんですが、あるとき先生が言いました。
なんと?
「あのな、あったことをそのまま書いたら終わりやねん。あったことをそのまま書くほど落ちぶれたらアカン」
と。
その作家先生は、田辺聖子さんといいます。
ジョゼトラ! 『ジョゼと虎と魚たち』、好きな小説です。
はい。大先生ですね。
田辺聖子さんのお話、面白いですね。あったことをそのまま書かないこととは、視点を増やすということなのか、どういう意図なんでしょうか。
はい。さきほどの「静か」「節度」とまるで逆のようですが、そうでもないんです。
「リアル」というのは、「リアル」に感じさせる手の動きがないと、表現としての「リアル」ではないんですね。
あったことをそのまま書けば「静か」に伝わるかというと、そうではない。文章を静かに感じさせるというのは、かなり高度な精神作用と技術なんですね。実社会というのは人の声も、街の動きも、人間の心も、比喩的な意味で、「騒がしい」ですから。
それを、「少し経った時間と、少し下がった距離」で捉え直さないと、文章は「騒がしい」だけで、かえってリアルには感じられない。
田辺聖子さんは、その技術に注力しないこと、失われることが、ものを書く人間として「落ちぶれる」と表現したんだと思います。
それは、さっきの写真家・宮本敬文さんの「ただのデータは【画像】です。印画紙に焼いたもの、そして人の感情と記憶に残るように精魂こめたもの、それが【写真】です。」の話と繋がります。
面白いなー。要はそこにあるもの以上の何かがないとリアルが他者には伝わらないんですね。
最後に!
はい。
ひろのぶさんに是非「ボブ・ディランのノーベル文学賞」について伺いたかったんですが、率直にどういう感想を持たれてますか?
あいつ、電話しても出えへんねん。
なるほど・・・それだけかい!
女子高生の間で「彼氏がボブってる」
っていう言葉が流行ってるようです。「電話にでない」という。
ボブなあ、あいつ、だいたい「行けたら行く」しか言わへんし、
飲み会誘っても「友よ、答えは風に吹かれている」とかわけわからんねん。
いやあ、興味深い話を伺いました。
ひろのぶ・・・まじめか。
お前、平成何年入社や。
今日はとてもいいこと話しました。
機会をくださり、西島編集長様ありがとうございました。
機械の身体をくださり、プロメシューム様ありがとうございました。
999。
メーテル。
鉄郎。(はよ終われ)
(お前、平成何年入社や)
終わりに
まあとにかく日々、何かを書いてご飯を食べたりトイレに行ったりして生活している僕と西島編集長ですから、「書くとはどういうことか」について話したいことはたくさんあります。
そんなこんなで、映画評論「田中泰延のエンタメ新党」がおやすみの時は、へんしゅちょに限らず、この、【エア対談】「田中泰延のいい黄身だ」の場で、いろんな方とお話をしてみたいと思います。どこからでもかかってこい。
では、さえりさん風に締めくくりますので次回をお楽しみに。
それではみなさん、またね〜!