今日からシン党。
映画「シン・ゴジラ」
ふだん広告代理店でテレビCMのプランナーやコピーライターをしている僕が映画や音楽、本などのエンタテインメントを紹介していくというこの連載。
「かならず自腹で払い、いいたいことを言う」をルールにしているのですが、相変わらず間があきました。参考までに去年の年明けから8月末までに何本映画コラムを書いていたか。数えたら14本でした。今年はこれでまだ4本目です。大発見です。2016年は時間の進み方が3.5倍になっていることが立証されました。
さて、前回「レヴェナント:蘇りし者」の回の最後に、次回はドキュメンタリー映画「FAKE」を観に行きます、と書いたんですが、
観に行きました。面白かったです。おしまい。
いや、いろいろ書きたかったんですけどね、敬愛する「燃え殻」さんがこう書いてたんです。
ユーロスペースは立見も出る満員御礼だった。佐村河内守のドキュメンタリー『FAKE』を観にあらゆる年齢層の方々が集まってた。一見、常識的な社会人と呼ばれる人間の滑稽さ、如何わしさの中に存在する光。闇の向こう側に光が一瞬見えてまた霞んだ。全文を取消す。これは男と女と猫の日常の断片です
— 燃え殻 (@Pirate_Radio_) 2016年6月6日
こう書かれたら書くことないので、いいんじゃないかと思いました。
てなわけで、観に行ったのはこちら。
もうね、まったく期待してませんでした。この予告篇、2本が2本とも、なんとなくダメ感を出していました。ゴジラはあんまり怪獣らしく暴れてないし、なんだか政治家が会議ばっかりしてる風だ。
これはきっとアレだな、ちゃんとした映画じゃなくて、「THE NEXT GENERATION パトレイバー」みたいな、あえて本論から逃げた“ ハズシ芸 ”に違いないと。
あと、もうゴジラ復活に懲り懲りしてたのもあるんですよ。
出典:amazon
一昨年、2014年のギャレス・エドワーズ監督の「GODZILLA」。悪くはないんだけど、いや・・・これ、ゴジラ? 熊ちゃうん? それから何回観てもこれに出てくる渡辺謙、なにやってる人かわからない。加えて、やっぱり原子力とか放射線のことをアメリカ人は舐めてないか? ましてや1998年ローランド・エメリッヒ版のゴジラなんかもうあのイグアナの写真を貼るのすらイヤなので貼りません。
ということでさっぱり期待していなかった怪獣映画です。しょうもなさそうだけど、公開2日目、とりあえず観てみました。映画館、すいてました。
それから3週間。どうなったか。わたくし、映画「シン・ゴジラ」、まだ4回しか観ておりません。本当に申し訳ございません。3週間あれば21回は観られるのに会社の仕事などして本当にすみません。すいてた映画館は1回ごとに人が増えて、今では満員です。
これ、怪獣映画じゃなかったです。あ、やっぱり怪獣映画でした。
4回しか観てない身分であれこれ言うのはおこがましいかぎりですが、なんだかんだ言ってしまいには書かせていただきます。ちなみに「なんだかんだ言って」と言う人はそれまでその話題に一言も触れていなかった人なのです。そして「しまいには怒るぞ」という人はもう怒っているのです。
総監督は庵野秀明。「エヴァンゲリオン」のという説明はいまさら不要なんじゃないでしょうか。
出演者は膨大なんですけど328人だそうです。
前田敦子まで出ています。3回目観た時「ああ、あっちゃんだ」と思いました。CGのゴジラの動きは野村萬斎がやってるのもややこしや。
ほんとにメインといえるキャストは3人。長谷川博巳、竹野内豊、石原さとみ。監督との写真がありました。
出典:スポニチ
石原さとみはあとでカヨコ・エン・パラースン問題として浮上してきます。
さて、この映画「シン・ゴジラ」。公開3週間で、これほどまでに莫大な、膨大な言説があふれた映画があったでしょうか。ためしにネットで検索してください。もう、ありとあらゆる人が、ありとあらゆる言葉で、ありとあらゆる立場で、ありとあらゆる観点で語って語って語っているのです。1本の映画に関してこんな光景は初めて見ました。
昨年の「マッドマックス 怒りのデス・ロード」でも日本中に議論が乱立した記憶があります。みんな細かいところまでよく見ていて、水耕栽培農家の視点から見る「マッドマックス 怒りのデス・ロード」などという行くとこまで行った記事もありました。
今回も、エヴァの話は言うに及ばず、特撮映画論、災害論、原発論、政治論、軍事論、その他ありとあらゆる論争が巻き起こっています。
ゴジラにビルを破壊された三菱地所、損害額は1兆円超か
石破茂元防衛相「ゴジラに対する自衛隊の防衛出動は理解できない」
元閣僚までが言及、まったく議論はとどまることがありません。
そして「傑作だ!」という評判も公開第2週目ぐらいには大合唱になってきました。これは、僕と同じように「期待しないで観た人」が多かったからでしょう。観に行く人たちの順番とメカニズムがあります。
【期待しないけど観よう⇒なんだこりゃ傑作だ!⇒そういう評判なので行った⇒いまいちよくわかんなかった】
これはエベレット・M・ロジャース教授が1962年に提唱した
【イノベーター⇒アーリーアダプター⇒アーリーマジョリティ⇒レイトマジョリティ】
という、つまり・・・ごめんなさい賢そうなこと言おうとしたけどわけわかんなくなりましたすみません。こういうのを
で、売り切れ続出で話題になったパンフレットにもわざわざ「ネタバレ注意」という封がしてあるぐらいなのですが、Wikipediaはどうなっとんねんアレ。ひどいです。すべて書いてあります。ですが、こちらではそんなにハッキリとは書かない方針で行きましょう。なぜかというと、まだ観てない人に、僕と同じように「なんじゃこりゃ」と思ってほしいからです。
さて。映画「シン・ゴジラ」、物語は東京湾に浮かぶ一隻の船の描写から始まります。そこにアクアラインで原因不明の事故が発生。それに緊急対応する政府、その中枢にいる内閣官房副長官・矢口蘭堂(長谷川博己)と内閣総理大臣補佐官・赤坂秀樹(竹野内豊)の動きが中心に描かれます。この二人は、政治家ですね。与党から選挙に立候補し、若くして政権の上層部にのぼっているわけです。
しかしアクアラインの事故は、どうやら巨大不明生物のしわざでした。大田区の川を遡上してくる巨大不明生物。しかしなんで蒲田なの? なんで呑川なの? 俺、昔、梅屋敷に住んでた女と喧嘩して呑川に指輪捨てられたんだけど。あとこないだ呑川沿いの工場でCM撮影したんだけど! そんな呑川を壊すのやめて! 俺が作ったCMが放送中止なるわ!
でも、怪獣映画らしくなってきた! なかなか全体が見えないけど、こいつ要するにゴジラだよね! はやく顔見せて!
えっ・・・? お前、誰?
お前・・・誰やねん?
出典:スタジオジブリ
ええ、ネタバレじゃないです。でも観た人ならわかるんです。
この映画は、あまりにも重層的な詰め合わせみたいになってるので、観た人は、必ずなにかの具材に関してネタバレを喋りたくなります。早く日本国民全員が鑑賞完了することを切に願います。
そこで今回は、4回観た僕の、なぜそんなに観たくなったのかを中心に書きつつ、なぜそれほどまでに語るべきポイントがあるのかも書いていきたいと思います。いろんな方の意見になるほどと思い、そのたびに一次資料に当たりつつ、「なるほどそうだろうな」と感心したことも挙げつつです。「俺様が発見した!」とかじゃありません。
【ポリティカル・フィクション問題】
「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」というキャッチフレーズの通り、この映画は災害シミュレーション。政治劇が中心。めまぐるしく出る肩書きテロップ、超早口の会話、これはことこまかに追う必要なし。誰もが指摘しているが庵野秀明が岡本喜八監督版の映画「日本のいちばん長い日」を意識した会議劇。そして滑舌悪く、何言ってるかわからん役者たち、これ、黒澤明。
そして現在の日本で怪獣という虚構で観客にリアリティを感じさせるには、地震、津波、そして原子力の恐怖、不安を描くしかない。これは正しいフィクションの作り方。
ただ、それはお膳立てであって「怪獣をあくまでメタファーにしてそのことをメッセージしているのだ!」という意見は例によって自分の叫びたいことを映画に見つけて、それみたことかと言ってるだけであり、クソリプもいいところ。ゴジラはゴジラです。いないだろ。
だが「対馬であやしい動きが」とか、最後は廃炉作業そのものだったり、まぁ、細部に宿るディティールこそ、「遊び」のための仕掛けですね。
映画と現実がごっちゃになる倒錯の感覚、これこそよくできた作り話な訳で、日本対虚構という「遊び」。この映画を見て本気で政治的な議論する人、ゴジラ連れてこいと言いたい。
また、後半の、プロジェクトX的ガイアの夜明け的プロフェッショナル仕事の流儀的な展開を「日本はまだやれるというメッセージ」だとか「どうせやれないから嘘っぱち理想論」だとか議論しだすとまた薄っぺらい批判になってきます。これも、フィクションにシミュレーションを混ぜて盛り上げるためには何を使うか? というエンタテインメントの手段そのものだからです。
で、有害鳥獣駆除という名目で自衛隊が出る、米軍が来る、「巨大不明生物特設災害対策本部」(巨災対)ができる、という流れですが、ほんとは有害鳥獣にはまず猟友会でしょう。なんで頼まない。
また、膨大な役者のなかには何故この人、という狙いの人が多すぎて笑える。御用学者に「ゆきゆきて、神軍」の原一男監督がいたり、巨災対に「鉄男」「野火」の塚本晋也監督がいたり、庵野秀明、へんな組み合わせを楽しみすぎです。きわめつけは嶋田久作、あんた東京滅ぼすつもりやろ加藤保憲やろとツッこみたくなるのは人情というもの。
出典:amazon
しかし、いわゆる内閣総辞職ビーム問題に関しては、閣僚が全員同じヘリコプターに乗るのは間違いですねと言いたい。柄本明には内閣官房長官なんかやってないでもう一度MOGERAに乗ってゴジラと戦ってほしかった。
【絶望問題】
「ひとたびゴジラが暴れ狂うとき、私たちはまったく無力であります」これは「ゴジラの逆襲」(1955年)のアナウンサーの台詞です。
今回、ゴジラはちゃんと神です。荒ぶる神。しかし、最初から神のようにテクテクと歩いて出てこないように、庵野監督はあっとおどろくポニョな仕掛けをしました。
またこれ、昔のゴジラを知る人によく訊かれるのが「ゴジラって人間の味方なの?」ってやつですが、そもそもゴジラってばそんな甘いもんじゃございません。それはのちのち堕落したゴジラです。ギャレス・エドワーズのハリウッド版ゴジラもちょっと堕落してました。そんないわゆる「フレンドリーなゴジラ」の親しみを断ち切るための工夫でもありました。
また、この映画では【ミリタリー問題】も秀逸です。自衛隊の作戦、武器装備弾薬、いちいちが正確な描写、しかしあらゆる攻撃が目標に当たっているのにまったく効果がありません。しかもほとんど攻撃に対してリアクションをしない。無視です、無視。ゴジラガン無視。そこがいい。相手にしてない、関係ない。
これもよく訊かれるのですが、「ゴジラってなにしに来るん?」ですが、なんにもしないんです、ただ、歩くだけ。
火みたいのを吐いたり、街を壊したりするのは、攻撃ではなく「邪魔だから」「苦しいから」「いらいらしてるから」「攻撃されたから反射的に」なんですね。そう、ゴジラは、「いらいらしてる」んですよ。
そして運命の時を迎えます。
ネタバレじゃないですよ。イデが発動するんです。ここで僕はもう、心の底から泣いてしまいました。声を出して泣いた人も映画館にたくさんいました。いまも思い出して僕ちょっと泣いています。
完全なる絶望、絶望、絶望。我々の、あの3月の寒い夜、それぞれが布団の中で泣きました、その思い出がよみがえります。
出典:gooブログ
僕、もう、みんな死んでここで映画終わりかと思いました。
でも、ここからなんです。
【sin(罪)・ゴジラ問題】
いろんなメッセージを映画に読み取るのは、観る側が勝手にそこに「物語を見たい」からかもしれません。なのでどんな感想も評論もただの解釈です。それにしてもゴジラは神としか言いようがない。人知を超えている存在として描かれているからです。そして神を見る行為は、常に見る人の罪の意識に関わっています。裁きの問題です。
この映画では、ゴジラ自身が苦しんでいます。自らの姿に、熱に、苦しむ姿です。制御できないなにか。恨みのような、悲しみのような。
シン・ゴジラは「sin(罪)・ゴジラ」でもあります。ゴジラは、1954年に登場したときから、人間の罪そのものであり、それが巨大なかたちを取り、目の前に現れるという意味で、まさしく神なのです。裁きなのです。
【初代問題】
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出典:amazon
さて、フィクションはフィクション、あんなでっかい化け物はノシノシ歩きません。ただ、そういう恐怖をリアルに感じる出来事が、最近あった、というのは1954年版の初代ゴジラと「シン・ゴジラ」は同じ状況ですね。
東京が空襲されて焼け野原になった9年後にまた得体の知れない化け物に同じことをされるという恐怖。初代「ゴジラ」はモノクロ映画でしたが、日本人には血の色が鮮やかに記憶に残っていたんでしょう、「ゴジラは赤い」と思った人が多かったようで、今回のゴジラが赤いのはそこにも理由があるとのこと。
中略
もう、こんな調子でやってたら10万字あっても足りません。あとは箇条書きで行きます。
【空想科学特撮怪獣映画問題】
【皇居問題】
【84ゴジラ問題】
出典:amazon
【天皇不在問題】
【寝・ゴジラ問題】
これをやるといかにゴジラはキビキビ動けないかわかる。最後もグースカ寝たとこへ女子大生の新歓コンパみたいに飲ませてからに。お前らはスーパーフリーか。ゴジラ、イビキもかかないし、寝返りもしないからこんな目に遭わされるんや
シンゴジラ見た人にはわかる画像 pic.twitter.com/qrYfPEZWE4
— ハマジ (@xxhama2) 2016年8月3日
【アメリカ問題】
出典:walkerplus
出典:amazon
出典:藤子・F・不二雄(1969年)『ドラえもん』
【牧悟郎問題】
出典:YouTube
【音楽問題】
Reference:YouTube
もっというとラヴェル作曲の「ピアノ協奏曲ト長調」の第三楽章。伊福部昭が好きだった。これの2分55秒のところから
Reference:YouTube
これ、庵野秀明監督が大阪芸大時代に作った「じょうぶなタイヤ!」。とうとう劇場用映画でぶちかましました
Reference:YouTube
“ Persecution of the masses ”
Sacred blessings count for nothing
Oh God give us your protection
Let no blame lie at the innocents
Who have prayed
If your high praise is all we have
Let us not be without you
“ Who will know ”
If I die in this world who will know something of me
I am lost, no-one knows, there’s no trace of my yearning
(But I must carry on, nothing worse can befall
I am lost, no-one knows, there’s no trace of my yearning
(All my fears, all my tears, tell my heart there’s a hole)
I wear a void
(As long as breath comes from my mouth)
Not even hope
(I may yet stand the slightest chance)
A downward slope
(A shaft of light is all I need)
Is all I see
(To cease the darkness killing me)
あえて翻訳しません。ぜひ映画を観てから歌詞を読んでほしい
これ、リュッケルトの詩にマーラーが曲をつけた『私はこの世に忘れられて』 も彷彿。映画「バードマン」のなんともいえない悲しいシーンにもやはり歌曲。
私はこの世に忘れられた/この世で無駄な時を過ごし/誰も私を気にせず長い年月が経ち/きっと思われているだろう/私は死んだと!/私には関係ない/たとえ死んだと思われようと/私は静かな世界で安らぎ/たったひとりでいる/私だけの世界に/私だけの愛に/私だけの歌に
【作家性問題】
・・・。さて。以上のようなことは、この映画に詰め込まれまくった、語っても語っても尽きない話のごく一部で、とっくにネット上や飲み屋でみなさんが見つけまくっている話でして、みんな大好き【電車問題】はそんなにすごかったのか在来線という話で盛り上がりますし、ほかにも【余貴美子防衛大臣問題】とか市川実日子【尾頭さん「笑えばいいと思うよ」問題】とか、【ニンニクラーメンチャーシュー抜き問題】とかもう、きりがないんですが、それが面白くて4回も観て、できたらあと6回は映画館で観たいと思っているわけではないんです。(ちょっとあるけど)
なぜまた観たいか「シン・ゴジラ」? 僕は何度見ても号泣してしまうんです。何度見ても最後には立ち上がって拍手したい。「ブラボー!」と叫びたい。
なぜそんなに好きか「シン・ゴジラ」? 4回観て気がつきました。この映画は、僕の大好きなオーケストラの交響曲の構成になっているのです。
第一楽章 出現(主題の提示)
第二楽章 絶望(葬送行進曲)
第三楽章 希望(スケルツォ)
第四楽章 歓喜(勝利の凱歌)
第一楽章 出現 〜主題の提示〜
何かがあらわれます。交響曲(シンフォニー)では突然かき鳴らされ、提示されるメロディであり、音の圧力です。想定外で、巨大で、不明なものです。そしてそれは「生き物だからな」なんです。それは外からやってきたものなのか、我々自身なのか。それはしかし、じつは私たちが直面すべき主題そのもの、人生そのものと向き合う瞬間です。
第二楽章 絶望 〜葬送行進曲〜
提示された人生の真実は、死そのものでもあります。私たちはいつか必ず危機に直面する。死に直面する。これはビンビンに伝わるのですが、庵野監督は死に直面したのです。一度死んだのです。燃え尽きる我々の肉体、完全なる絶望、絶望、絶望。何回も観てるのに、心の底から泣くでしょう、ここは。我々はあの東京の街と、そしてゴジラ自身と、共に死ぬのです。熱的死、静的死。交響曲の第二楽章は葬送行進曲のかたちを取ります。われわれは一度、死ぬのです。
第三楽章 希望 〜スケルツォ〜
しかし、希望の音が聴こえてきます。シンフォニーの3つ目の曲は、死の淵の底から、その向こうから、再びこんこんと沸き上がる生への躍動です。リズムは変化し、ユーモラスなメロディが響き、私たちの知恵が、勇気が、ユーモアが、そこに戻ってきます。オーケストラが鳴らすこの音は、スケルツォと呼ばれます。人生には乗り越えるべき問題があります。そして人間は一人ではないのです。仲間がいるのです。「最後まで見捨てずにやろう。」そうです。最後まで。
第四楽章 歓喜 〜勝利の凱歌〜
オーケストラはいちど、あの恐ろしい、外なる、そして内なる敵を振り返り、そして最後の力で爆音を放ちます。指揮者は懸命に指揮し、演奏者は力一杯楽器を弾ききります。人間が、知恵の限りを尽くし、あらゆる感情を込める音。それはすべてに打ち克つ勝利の凱歌です。不安を、恐怖を、内なる敵を破る瞬間、わたしたちは蘇ります。もちろん、それは夢想かもしれません。ファンタジーかもしれません。涙してコンサートホールを一歩出たわれわれにはまた、そこに凍り付いたままの人生の巨大な困難が立ちふさがっていることを知るでしょう。
しかし、しかしですよ!
それを観る前、聴く前、知る前となにかが違う。なにかの希望が、なにかの勇気が、手に握りしめられている。
私たちは、一度死んだ。神を見た。震えた。何かを信じた。真実を知った。そして新たに生まれ変わった。これはシンフォニーだ。それが「シン」でしょう。
それが誰かがなにかを創る理由でしょう。私たちがなにかに触れる理由でしょう。観る前の僕とは、なにかが違う。庵野秀明はやった。それをやった。僕は観た。それを見た。
「シン・ゴジラ」は僕が宝物にしている交響曲たちと同じ心の棚に入りました。わかります? 僕この原稿を書き終えるのが寂しいんですよ。
おどろいた泣いた叫んだ拍手した。誰かと誰かが、無限に話せる。みんながみんなの観点で「めちゃくちゃ語ることができる」この映画が、今日も日本中のスクリーンで掛かっていて、いまも2時間おきにあの絶望と歓喜を繰り返しているのかと思うだけで胸がいっぱいになります。
「怪獣とか興味ない」って人、これ、違いますよ。いや、そうなんだけど、違うんです。興味ないって言う人にこそ見てほしい、話したい。
もう、ネタバレを気にせず語れる社会の実現こそが僕の目標です。早く日本国民全員が鑑賞完了することを切に願います。