彼女はその笑顔のまま、左手で何かを指差す。その先にあったものは区役所だった。
首をかしげながら、少しだけ眠たそうだけれども、はっきり通る声で彼女は言った。
「結婚、してく?」
その、あまりに悪気がなくて唐突で、死ぬほどキュートな彼女の仕草とその声に、おれはすっかり参ってしまった。またこれが、冗談に全く聞こえないトーンで言うのである。「どうしよう」一瞬考えてしまった。結婚のことではない、2人のこれからの関係性を、である。
しかしおれに笑いかけるその笑顔は、やっぱり「ちょっとこいつに悪戯をして、すこしばかり困らせてやろう」という意図を仄かに感じさせたのだった。それが返す言葉を躊躇させた。
これが映画ならば、「それなら結婚しましょうか」となり、いきなり人気のない商店街にファンファーレが鳴り響き、各店舗のシャッターが一斉に上がり明かりが灯り、住人たちがミュージカル調に歌い踊りながら2人の幸せを祝福してくれそうなものであるが、現実はそうはいかない。結局、
「この次酔っ払った時な」
とぶっきらぼうに返事をしてしまった。そして、その日は二度と来なかった。別に彼女が不治の病を患ったとか、交通事故で亡くなったなどというわけではない。
さて、今になっては、彼女の本当の意図は分からないが、意図的、無意識的に関わらず、女性の悪戯心に酒が薬理作用を及ぼすと、まるで異国の呪術か何かのように不思議な魅力を帯びて、世の男性の心を少しだけ引っ掻いてみせる。それは抜けない棘や、解けない呪いのように、いつまでも心に残り続けるのである。
後日、彼女に2人の関係性について、真面目に話をしたところ、あっけなくフラれた。