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野火【連載】田中泰延のエンタメ新党

田中泰延 田中泰延


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映画館からも、書くことからも逃げ出したかった。

映画「野火 Fires on the Plain」

 

ふだん広告代理店でコピーライターやテレビCMのプランナーをしている僕が、映画や音楽、本などのエンタテインメントを紹介する田中泰延のエンタメ新党。
 
「かならず自腹で払い、いいたいことを言う」をこの連載のルールにしています。どちらかというと、観てから読んだほうが話のタネになるコラムです。
 
さて、8月でした。8月といえば夏休み。たくさんの大作映画が公開されました。ブロックバスターってやつです。ものすごく観に行きたかったです。感想書きたかったです。でも、僕はサラリーマンです。しかもサラリーマンのあとに金太郎などの付加価値がない普通のサラリーマンです。8月だというのにお盆休みもなく、本当にいそ・・・いそ・・・いそぎんちゃく。
 
そうです、人間は「いそがしい」などといったら終わりなのです。カッコわるいのです。いそ・・・と言いそうになったらすかさず言い換えないとダメなのです。
 
ええ、忙しくないのです。なので時間はなくてもやはりこういうブロックバスター大作の感想はひとことでも書かないとダメなのです。

「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」
感想:ウヒョ〜!
 
「ターミネーター:新起動/ジェニシス」
感想:ダダンダンダダン! ダダンダンダダン!
 
「ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション」
感想:チャッチャッチャチャ! チャッチャッチャッチャ!
 
「ジュラシック・ワールド」
感想:ガオー!
 
「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」
感想:ノーコメント!
 
ざっとこんな感じでいいでしょうか。嘘です。すみません嘘つきました。一本たりとも観ていません。そもそもワシ今月いそ・・・いそのなみへい。
そんな、いそ・・・磯山さやかだった僕ですが、

http://kura2.photozou.jp/pub/348/2385348/photo/144919899_org.v1482162025.jpg
出典:photozou

どうしても観ておきたかった映画がありました。いま、観ておかないといけない、そう思った映画がありました。今回は、8月にたった一本観た、この映画のことを書きます。「野火 Fires on the Plain」。予告篇をご覧ください。

Reference:YouTube

監督は、塚本晋也。

http://eiga.k-img.com/images/special/2261/635.jpg
出典:映画.com

 

1980年代のカルト映画、「鉄男」の監督です。

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/71giE3mv2GL._SL1181_.jpg
出典:Amazon

 
80年代に雑誌「宝島」で育った僕にとってはちょっと神格化された映画ですね。僕、今回もう一度「鉄男」観ました。
 
吉田大八監督の「桐島、部活やめるってよ」って映画、ご覧になりました? あの劇中で映画オタクの主人公役である神木隆之介が観に行って、橋本愛が演じるかすみと出くわすのがこの「鉄男」のリバイバル上映。そのとき橋本愛がこの映画を簡潔に言い表します。
 
「なんか、人間が変わっちゃう映画」と。
 
言い得て妙ですね。塚本晋也監督の映画は、常に「なんか、人間が変わっちゃう映画」なんです。
 
その後も塚本監督は「人間が変わっちゃう」ことをテーマにした映画を撮り続けるわけですが、ここへきて昨年、大岡昇平の『野火』の映画化を完成させたというニュースを聞き、これは絶対に観に行かなければ、と思い続けてきました。
 
で、この夏、念願かなって観に行ったわけですが・・・これは最悪の経験でした。観に行ったことを心から後悔しました。こんなに映画館から逃げ出したいと思ったことはない。87分、そんなに長い映画ではありません。しかしこんなに途中で観るのを諦めたいと思った映画は初めてです。
 
そして僕は、一ヶ月近く、この原稿を書くことからも逃げました。それぐらい心の整理がつかなかったのです。さて、それほどまでの映画とはいったいどんなものだったでしょう。
 
映画は、人間が殴られる音から始まります。殴られているのは一人の兵士。塚本晋也監督自身が演じています。兵士は、肺病を患っているので野戦病院へ行くか、病院が受け入れなければ手榴弾で死ねと言われます。

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(C)SHINYA TSUKAMOTO / KAIJYU THEATER(出典:映画.com

 
最初の5分でもう、まったく組織とか、道徳とか、常識とは無縁の、不条理な空間に主人公の生死が投げ出されていることが観客に提示されます。
 
これは、先の戦争の日本兵の話には違いないであろうが、どこの戦場なのか、どのような敵と戦うためにこんな状況に陥っているのかは、全く示されません。観客はいきなり、その中に放り出されます。
 
映画は最初に「原作 大岡昇平」と大きく表記されて始まりますから、小説を読んだ人にはわかるかもしれません。それがフィリピン・レイテ島での無謀な作戦、そして補給不足の結果であること。第二次世界大戦において、日本軍の戦死者総数200万人以上のうちの7割は、敵と交戦したのではなく、単に補給の失敗によって餓死もしくは病死した事実。
 
しかし観客の、それらの「習ったことある」「知ってるつもり」の「知識」「意義」を持ち込ませないことにこの映画の基本設計があります。一人の兵士がそんなことは結局わからないままに彷徨うのと同様、観客もまた彷徨わされるのです。

大岡昇平のこの小説は1959年に市川崑監督が映画化しています。

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/91Y4HWNaVKL._SL1500_.jpg
出典:Amazon

 
今回の塚本版は、市川版のリメイクではありません。同じ小説を原作にしながら、まったく違った感触の映画に仕上がっています。原作から塚本監督が受けたイメージを映画という形に結実させるために、自身が製作・監督・撮影・脚本・編集・美術、そして体重を落として主演し創り上げた執念の作品です。僕が冒頭に挙げたようなブロックバスター大作とは全く違う、自主制作体制の低予算映画です。しかし、どうしても創りたかったものがここにあります。
 

市川崑の「野火」もあらためて観てみました。


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出典:市川崑監督 「野火」予告篇より

 
フィリピンの熱帯雨林が舞台のはずなのに、どこか荒涼とした砂漠を進むような市川版。


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出典:市川崑監督 「野火」予告篇より

 
モノクロのフィルム、そして主演の船越英二のまるで悟ったような現実離れした演技も相まって、不思議な客観性に徹したつくりが特徴でした。

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出典:市川崑監督 「野火」予告篇より

 

対して今回の塚本版は、鮮やかすぎるほどに鮮やかなフィリピンの密林がいやというほど映し出されます。

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出典:「野火 Fires on the Plain」予告篇

 
モノクロではなくカラーで、フィルムではなくデジタルで捉えられたジャングルの圧倒的な原色。草、虫、水、空、花。その複雑さ、怪奇さ、にもかかわらずコスモスとしての秩序を示し、前景である人間の営みの不条理すぎる諸相をカオスとして浮かび上がらせます。

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(C)SHINYA TSUKAMOTO / KAIJYU THEATER(出典:映画.com

 

登場人物は皆、カオスの中にいます。なぜ我々は戦争しているのか、なぜ我々はここに連れてこられているのか、ここからどこへ行けばいいのか、まったく考えることができません。
 
僕が映画館から逃げ出したかったのはまさにこの点です。さきに、塚本作品は「人間が変わっちゃう映画」と書きましたが、すべての「意味」を剥奪された状態まで肉体と意識を変容させられた主観、それこそが「ホラー」です。ホラーを植え付けられた僕は一ヶ月間、考え続けましたが、考えがまとまりません。自然と思考は断片化し、箇条書きのままです。

大岡昇平の原作は、やはり戦争を描いたものではない。「戦場の文学」であり、すべての意義を剥奪された状態の中での思弁を綴ったものである。

 

そこにはキリスト教に感化を受けた大岡の「神」の存在が強く意識されており、「誰かに見られている」という感覚は何度も語られる。

 

市川版映画では、キリスト教の影響はかすかに残されており、教会の十字架の輝きに吸い寄せられるが、さらに皮肉な偶然を呼ぶ描写などに残されている。

 

小説としての『野火』は記憶や道徳観念の混乱に理由を与えるための神の存在や、宗教的妄想が思弁の中に織りなされているが、市川版、塚本版とその神の存在は順を追って剥落していく。たとえば「猿の肉」を食べるかどうかというところでは、原作では「自分の右手を神の左手が止める」が、市川版では「栄養失調で歯が折れて食べられない」という描写に変えられている。そして塚本版では、躊躇なく「食べる」。

 

人肉食についての話題は、元ブランキー・ジェット・シティの中村達也演ずる伍長の口から語られる。中村達也の鬼気迫る痩せぶりがこの映画に凄みを与えている。伍長はのちにさらに変容し、食べるー食べられるという縁起について開示する重要な役となっている。

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(C)SHINYA TSUKAMOTO / KAIJYU THEATER(出典:映画.com

 

リリー・フランキー演じる安田のおっさん、そのおっさんと奇妙な共生関係となる兵士・永松役の森優作、ともに市川版の滝沢修、ミッキー・カーチス(ロボジーの人ですよ)とはまた違う、ホモソーシャルかつ、食べるー食べられるというぎりぎりのエロスータナトス的関係性を提示する。

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出典:「野火」予告篇より

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(C)SHINYA TSUKAMOTO / KAIJYU THEATER(出典:映画.com

 

性であり生であるエロスと、観念ではない現実の死そのもののタナトスの対比もまたこの映画を貫く構図として機能する。手榴弾で死のうとする主人公の脳裏によぎるのは女の脚のフラッシュバックであり、またなぜ主人公が現地のフィリピン人女性に銃弾を撃ち込むのかは理由がない。エロスとタナトスが交差する暴発。そしてその銃弾は、わずかに残っていた観客の主人公への感情移入をも撃ち抜く。

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出典:「野火 Fires on the Plain」予告篇

 

抜け駆けして降伏する日本兵を撃ち殺すのが、さっき殺した女の幻影であるのは、小説とも市川版とも違う、塚本版の最大の発明である。被害と加害の単純な構図をはっきりと否定する描写をたったのワンカットで見せる技術。

 

神の存在を抜いて主観に徹したようだが、主人公を睥睨している視座は、フィリピンの自然そのものに委託されている。すべての風景描写が主人公の心象になっていると同時に、自然という秩序、神のシステムに見られている。

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(C)SHINYA TSUKAMOTO / KAIJYU THEATER(出典:映画.com

 

大自然が不条理な兵士たちの営為を見下ろす、その構図はテレンス・マリック監督の「シン・レッド・ライン」とも通じる。故郷に残してきた肉親や恋人たちとの思い出、そのエロスがタナトスによって無化されていくさまは共通するが、まだそこには「意味」が破壊される哀しみを描くという主題があったが、「野火」ではそのような手続きははじめから破壊されている。

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出典:Amazon


http://k39.kn3.net/5F9536AC2.jpg
出典:taringa

 

「パロンポン」という言葉の持つ恐ろしい響き。最後に残る希望のようでいて、方角も距離もわからない約束の地。真の絶望を響かせる呪文のような言葉。これこそホラーである。

 

原作小説『野火』の下敷きになっているのはエドガー・アラン・ポーの『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』である。そこに現れるカニバリズム、その描写もまた衝撃的ではあるが、不思議に善悪の彼岸を離れた乾いたものである。ポーの小説は『野火』以外にもヤン・マーテルの『パイの物語』の下敷きにもなっており、さらにそれはアン・リー監督の「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」として映画化された。これらすべての作品に共通するものは、人が意味を超えた変容を強いられ、それでもなお生き残ることになったあと、それを「語る」「騙る」ことのありようである。「ライフ・オブ・パイ」、ぜひ見てください。心を壊された後、人はどのように生きるか、この塚本版「野火」のラストとも通じ合うものがあります。

 

映画の幕引きに現れる主人公の謎の動作は、祈りのようにも見えるし、永松が安田のおっさんを屠った時の動作にも見える。

 

この映画を、イデオロギーで語るのはこの映画で我々が見たものを薄っぺらくする作業です。
 
戦争は悲惨だ、戦争は愚かだ、戦争してはいけない、という言葉はじつは方法論不明のかけ声です。クリシェといってもいいでしょう。クリシェとは常套句、決まり文句であり、ステレオタイプであり、もっと今風の言葉で言うと「テンプレ」です。
 
この映画の次元は、そんなテンプレの反戦メッセージではありません。反戦というなら、そこには戦争というものの意義や目的をまず問いただして論理的に反駁する過程が必要ですが、この映画が描く、個々人が戦場で体験することは、せんじつめれば結局、国民国家のイデオロギーとも、大義とも関係ありません。この映画は、英雄的な戦艦乗組員の散り様を描いたものでもなく、天才的な零戦パイロットの葛藤を語るものでもありません。これは今年、クリント・イーストウッド監督が「凄腕の狙撃手の活躍と生還」にみせかけて実は戦争の不条理を描ききった「アメリカン・スナイパー」にも通じるテーマです。
 
主観によって綴られているにも関わらず、この映画の視点には、どこか目の前のことへの距離があります。「自分は悲惨な目に遭っているのだ」というような語り口ではなく、主人公は生死のあわいにあるのに、徹底的な傍観者の視点を貫いています。主人公はまた、被害者であるだけでなく、加害者でもあることを善悪の彼岸を超えた冷徹さで描いているのも、この映画の卓越した点です。人を殺すこと、殺されてモノになること、まだ息をしていること、息をしなくなること、すべてがシームレスなのです。
 
あらゆる目的も、目標もない彷徨。そしてそれでもなお生きる・死ぬ・食べる・食べられる、という宿業。完全無欠な密林の秩序を背景に繰り広げられる、不完全で無秩序な生命の諸相。こんな恐ろしい映画は見たことがありません。

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(C)SHINYA TSUKAMOTO / KAIJYU THEATER(出典:映画.com

そこに浮かび上がるのは、「無明」です。この世界にわけもわからず生を受けた者の、底なしの淵の寄る辺なさです。死ぬか、生きるか、なぜ生きようとするのか、生命そのものの持つ不条理さ。
 
「地獄の黙示録」でマーロン・ブランドが繰り返しつぶやいた「ホラー」という言葉と通底する恐ろしさです。
 
僕はこの映画を87分間、逃げずに最後まで観て、文芸評論家、福田和也が書いたこの文章を思い出しました。少し長いですが引用します。
 

『高僧が、支那事変の慰問に出かけた。彼は説教会場に集められた兵士に、愛国的な演説も、国民の心得も述べなかった。
彼は、「人というのは、ほっといてもいずれ死ぬものだ。だからいくら殺しても罪になんかなりはしない。いくらでも殺しなさい」と語った。
すると、緊張していた兵士たちの間から穏やかな笑い声と、嘆声が漏れたという。
この言葉は多くの読者を憤激させるだろう。だが私は、恐ろしく思いながらも、納得する。
彼は、兵士の罪悪感を除いてやろうとしたのではないし、救済しようと試みてもいない。たしかに兵士達は、敵が殺しても構わない存在であることを識る。だがそれは、自分達も、殺されても何の支障もない存在であると認める事だ。そして恐らく、後者の認識の方が、兵士達にとって意義深かったのではないか。
これこそが批評だ、と、今の私は思っている。
それはまず、戦争は悪だと叫ぶ、あるいは奴らを殺せと唱える思想や哲学、理想、スローガンへの批判であり、殺し殺される現実を意味ありげに見せる歴史や政治への批判である。』
(福田和也『批評私観』 より)
 

われわれは普段、生きる、生活する、そのすべてになんとか一生懸命「意味」を与えて納得しているのです。楽しいことや面白いこと、言葉を吐いたり書いたりすること、働くこと、誰かと出会ったり、子どもをつくったりすること、驚くべきことに「怒り」や「不快さ」にすら、そこに各人なりの「意味」を付与して、ギリギリで無明の闇を照らして歩いているのです。
 
その「意味」を与える余地を、根こそぎ消し去るから戦争はアカンのです。「なんか、人間が変わっちゃう」からアカンのです。
 
開高健の『輝ける闇』は、ベトナムの戦場に赴き、戦争と、戦争にまつわるあらゆる意味を考え尽くした戦争文学の傑作です。しかし、物語は最後の最後、ベトコンに急襲され、文字通り必死で逃げながらつぶやく、あまりにも端的なこの言葉で幕を閉じます。
 
「いやだと思った。つくづく戦争はいやだと思った」
 
「森は、静かだった」
 
そうして考え続けると、この映画を観て最後に残るのは、題名でもある「野火」とはなんなのか? という問いです。
 
途中、登場人物たちは何度も大地に立ち上る謎の炎を目撃します。それは敵の砲火かもしれず、ゲリラの烽火かもしれず、主人公たちはそれを確かめることも近づくこともしません。市川版映画ではそれは原住民の生活の火であり、そこに近づくことが生であろうが死であろうが主人公が歩み寄ることを決めて幕が降ります。そして塚本版ではラスト、主人公が遠くにまた野火を幻視して物語は閉じられます。それは、自己の体験の回想のようにも、また遠くない未来の戦争の予感を見つめているようにも取れますが、もっと深いもの、この寄る辺なき世界で揺れている生命の火、僕はそのように見ました。
 
いや、ほんと観るのがしんどい映画ですよ。でも、映画館の暗がりで一人座って観てほしい映画です。無明の中に野火が揺れるさまを感じてこそ、そこからそれぞれが考え始めることができる映画だからです。
 
それぞれの考え、そうです、僕は以前から、人はそれぞれ自分の立場で主張をすべきだと考えています。社長と平社員では、まったく会社で見えている景色がちがうように、戦争の見え方もまた違うのです。戦争によってすべての意味を無明の闇に帰される人間がいる一方で、戦争に意味を付与する立場の人間がいることも忘れてはいけません。そしてそれは良いとか悪いとかではなく、人間という生物集団の「状態」「構造」なんですね。なので、つぎは、「日本のいちばん長い日」を観に行こうと思っています。それぞれの立場、というものに関して考えるために必要だからです。
 
それにしても今年、2015年はとんでもない「映画のビンテージ・イヤー」なのではないかと思います。生まれて初めて映画の解説など書き始めたのが今年、なんともすごい当たり年に重なったものです。もはや僕の中では、今年観た「アメリカン・スナイパー」 「神々のたそがれ」 「マッドマックス 怒りのデス・ロード」 「ルック・オブ・サイレンス」、そしてこの「野火」が一本の思考の糸としてつながりました。これらがどのような糸となり、紐となり、心の中の結び目となったかは、上に挙げた映画の解説を順を追って読んでいただけたらきっとわかっていただけると思います。
 
そういう映画が同じ年に生まれること、それを続けて目にすることは、時代の中で生きる人間にとって決して偶然ではありません。それぞれが現在置かれている人類の状況の中で、自分の生存に関して、立ち位置に関して、考えて、考えて、考え抜いてそれらを決めるためのギリギリのタイミングが、西暦の2015年なのだと理解しました。
 
しかし・・・疲れました。次回こそ、えへらえへら笑えそうな映画を観に行きたいなあ、と願っていましたがそうはいかない。もうすこしだけ、映画で描かれる戦争について考えさせてください。
 
次回は、「駆込み女と駆出し男」に続いて今年2本目の原田眞人監督作品、「日本のいちばん長い日」を観にいってきます。8月が終わるまでに行けるかな。なにしろ今月いそ・・・イソジンうがい薬。

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