「101匹わんちゃん」に登場する最凶のヴィラン誕生までの前日譚を描く「クルエラ」。
主演に「ラ・ラ・ランド」のエマ・ストーンを、監督に「アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル」のクレイグ・ギレスピーを、脚本に「女王陛下のお気に入り」のトニー・マクナマラを迎えた本作は、まず予告編からかっこいい。
ツートンカラーの髪と2つの人格(エステラ/クルエラ)を持って生まれ、ファッションデザイナーを目指す少女(エマ・ストーン)が、大御所デザイナーのバロネス・フォン・ヘルマン(エマ・トンプソン)との出会いをきっかけに、残酷な「クルエラ」に変貌していく過程を描く。
ファッション好きも楽しめる数々のオマージュ
舞台はパンクムーブメントの起きた1970年代ロンドンのファッションシーン。スピーディーな展開の中に、ファッションが好きな人ならすぐ気づける素敵オマージュもたくさん詰まっている。
このシーンも、ヴィヴィアン・ウエストウッドとセックスピストルズの蜜月を彷彿とさせる。
出典:シネマカフェ
世界観はぴったりだが「1日の最後に国歌を流すべき」と国会で指摘され、「こちらをどうぞ!」とセックスピストルズの方の”God save The Queen”を流したBBCとは違い、本作品ではザ・クラッシュにブロンディ、クイーンの楽曲は登場するが、お子様への影響も鑑みてか、セックスピストルズの楽曲はない。
コスチュームデザインを担ったのはジェニー・ビーヴァン。「マッドマックス 怒りのデス・ロード」でアカデミー賞の衣装デザイン賞を受賞し、授賞式にライダースジャケットで登場したご本人もまた、パンクである。
バロネスのクラシカルなコレクションとエステラに「極限までウエストを絞れ」を指示する点は、1947年頃のDiorの「ニュールック」の世界観。彼女を敬愛しサポートする眼鏡の細身な男性は、イヴ・サン=ローランと重なる。ギャザーでウエストを絞りチュールレースで曲線美を強調する点は、チャールズ・ジェームスの手法も混ざる。
出典:シネマカフェ
ココ・シャネルが「かつて女性を苦しめたコルセットの復活」として危機感を覚え、1954年にカムバックした話はファッション史に残る強烈なエピソードで、観客は「美しいが権威主義的」なバロネスと「挑戦者」としてのクルエラの姿に、思わずこの構図を投影してしまう。
コスチュームでも「挑戦者」を体現しており、肩に小さな馬と馬車の装飾をつけた美しいジャケットにゴージャスなフリルのスカートを合わせて登場するシーンは圧巻だ。
出典:VOGUE JAPAN
衣装製作者、キルステン・フレッチャーに作ってもらいました。フリルは全部で5,060枚あり、大勢の学生が私の作業場で全て手縫いしました。
出典:VOGUE JAPAN「『クルエラ』の衣装デザイナー、ジェニー・ビーヴァンが明かすコスチューム制作秘話。」
とのことで、たくさんの人によるとてつもない手間暇で作り上げられた、美しい衣装だ。
往年の有名デザイナーだけではない。現代で生きる私たちの記憶に新しいデザイナーへのオマージュも混ざっており、1970年代が舞台でも新鮮にかっこよく映る。エステラではなく「クルエラ」として着る服は、アレキサンダー・マックイーンのキュッと肩を尖らせた細身ジャケットを想起する。
出典:シネマカフェ
とても美しく工夫した構図やファッションへのこだわりポイントだけでも大いに楽しめてしまう。
ちなみに、私は筋肉がつきやすく、襟元が詰まったかわいい服を合わせると『HUNTER×HUNTER』のビスケ(本来の姿)になってしまう「骨格ストレート」だが、イギリス人デザイナー達が開拓した「胸元スパーン! Vネック+ウエスト下をふわっと広げX字に見せるデザイン」は救世主的な存在だ。我ら、骨格ストレートの民が参考にできるコーディネートも多数登場する。
エステラとクルエラ、それぞれの戦い
主演のエマ・ストーンの人格の演じ分けも、非常に魅力的だ。
自由闊達なクルエラ/いい子にできるエステラの2つの人格を持ち、ファッションデザイナーに憧れる主人公は、ある事件をきっかけに母を失ってしまい、ツートーンの髪も隠しエステラとして必死にストリートで生きる中、ジャスパーとホーレスに出会う。
出典:映画.com
スリや泥棒に手を染めつつ、助け合いながら生活を送っていたある日、「ファッションデザイナーになる道筋=バロネスの部下」としてのチャンスを掴む。エステラは努力を重ね、才能をいかんなく発揮。バロネスも自らのセンスの元、彼女の才能を磨く。
小さい頃からの夢だったファッションデザイナーへの足掛かりを失わぬよう、クルエラの人格はエステラに遠慮をしたかのように出てこない。けれども、エステラが才能を生かした戦いを続けた結果、バロネスの光と影に触れ、「手段を選ばない自由闊達さを持つクルエラ」の姿が登場する。
欠けていた人生のピースが見つかって大きな選択を迫られた時、その封印を解かれて現れるのは「クルエラ」の人格だ。
出典:シネマカフェ
1970年代の階層が大きく分断した社会では、学校を出ておらず定職についていない者が這い上がるのは至難の業。エステラもまた、生きるためにクルエラの人格を抑え、数々の不遇や過酷な環境を戦い続けてきた強い人だが、それだけでは対処できなくなった時、「幸せになるために自由闊達に自らの人生を選ぶ存在」のクルエラに変貌する。
誰でも「今まである側面を抑えてきた自分では乗り切れない出来事」が起きてしまったら、本来の姿でしか戦えない。単なる悪役への変貌ではなく、「背に腹は代えられなくなって、その人自身の封印が解かれる瞬間」が鮮やかに描かれ、惹き込まれるシーンだ。
純粋に自己選択する存在でいられたのだろうか?
クルエラでもエステラでも、変わらず接してくれる人が映画には3人いる。
小学校時代の同級生で記者になったアニータ、そして一緒に暮らしてきたジャスパーとホーレスだ。
出典:ファッションプレス
男女が共に生活する=恋愛関係をやたら絡める映画が多い中で、自分たちの関係性を「新たな家族」としている姿は、今までの「親分と子分」よりもしっくりくる、良い描き方だと感じた。
エステラでもクルエラでも愛してくれる人との関係は、何も恋愛じゃなくて良いのだ。
3人はデコボコながら、仲間として絶妙なチームワークを魅せる。
出典:シネマカフェ
どんな道を選んでも「自分を幸せにするのは自分自身」と全力で知恵を絞り選び取っていくクルエラと仲間たちの姿は、先行きが見えにくい世の中で生きる私たちのことも、大いに勇気づけてくれる。
主人公はエステラであっても精一杯努力を重ねるし、クルエラになってもクリエイティビティをいかんなく発揮し自ら道を切り拓いて行くからこそ、仲間を魅了し続けるのだ。
自由に自らを選択していくクルエラと仲間たちが魅力的だからこそ、途中に混ざった血統主義の型に当てはめて良かったのか? というモヤモヤは少し残る。
大ヒットから早くも続編の製作への動きが見えている本作だが、次作ではよりクルエラ自身のクリエイティビティを信じ、「私を幸せにするのは私」の悪あがきを存分に、「新たな家族」としてのステップを思いっきり描いた作品になることを期待して待ちたい。
奇しくも映画館の休業と再開の狭間に公開された本作。パンクムーブメントならではの音楽とファッションが融合した楽しさや、美しいコスチューム、スピード感ある展開含め、大画面でも大満足な作品としておすすめしたい。
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[イラスト]清澤春香