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『ファーザー』職人技で描きあげる「視点」。97分間1本勝負のアンソニー・ホプキンス劇場

加藤広大 加藤広大


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「自分が自分でなくなっていく」あるいは「自分が自分ではない者に変わっていく」というのは考えるだけでも恐ろしい。

だが、「自分を取り巻く世界が変わっていき、その変化を自分だけが感じている」としたら、さらに1億倍は恐ろしいだろう。ある日、ホラーやサスペンス映画の主人公になってしまうようなものだ。

97分間1本勝負のアンソニー・ホプキンス劇場


the father
出典:映画.com

『ファーザー』の惹句は「老いによる思い出の喪失と、親子の揺れる絆を描く。かつてない映像体験で心を揺さぶる今年最高の感動作」である。

この文章を受けて、本作を「認知症になったアンソニー・ホプキンスとその家族に色々問題が起こって、最後は人って、家族って、愛って素晴らしいみたいに感動して終わる映画なんだろうなあ。人という字は支え合っているというけれど、入るも支え合ってるよなあ」と考えている方が居たら、ちょっと待って欲しい、と書いたが、その印象のまま観るのもおすすめだ。

別に惹句が悪いわけではない。「老いによる思い出の喪失」はあるし、「親子の揺れる絆」もある。感動は「強い感銘を受けて深く心を動かすこと」あるいは「人の心を動かしてある感情を催させること」の意であればその通り。間違いなく感動する。

しかし、映画は整理して並べ立てた惹句のようにはいかない。

「老いによる思い出の喪失と、親子の揺れる絆を描く。かつてない映像体験で心を揺さぶる今年最高の感動作」

との惹句は、認知症でない者の視点であり、もっと言えば「認知症患者を取り巻く周囲の人間や世界の視点」である。だが、本作は「認知症患者を取り巻く周囲の人間や世界を、認知症患者が認識している視点」でも描いている。まず、この設定に観客は驚かされることになる。

なので、惹句はむしろカットアップして

「映像作描く体験揺れる。かつてない感動の喪失と、思い出の心を老いによる今年最高親子の揺さぶる絆を」

くらい無茶苦茶なほうが相応しいのではないだろうかとさえ、鑑賞後の今は思う。

認知症を患ったアンソニー(アンソニー・ホプキンス。本作は戯曲『Le Père 父』を、原作者兼監督であるフローリアン・ゼレールがアンソニー・ホプキンス用にあて書きしており、名前はおろか生年月日まで一緒である)の視点から観る世界は、とにかく「おかしなこと」が起こりまくる。

その模様は巷間で言われているように、ホラー映画やサスペンス・スリラーのノリに近い。パリに行くと言った娘のアン(オリヴィア・コールマン)の顔は変わるし、リビングで知らない男が座っているし、そいつは離婚した筈のアンと結婚して10年以上経つと語る。もう1人の娘のルーシーは今何をしているのかわからないし、そういえば時計がいつも盗まれる。もしかして、あいつが盗ったんじゃないのか。なんだか、家具の配置も少し変わっている気がするし、実際変わっている。

この「なんだかおかしい世界」を認識できているのは、当然ながらアンソニーだけで、映画が終わるまで97分間、彼は珍妙な出来事を体験し続け、ほぼ彼が喋り倒している。その恐ろしくも悲しく、辛く、痛々しく、そしてチャーミングな演技を見るにつけ、ゲイリー・オールドマンもチャドウィック・ボーズマンも、相手が悪かったとしか言えない。アカデミー主演男優賞は意外でも何でもないだろう。職人技である。

認知症の視点を真っ向から描くのではない、もうひとつの視点


the father
出典:映画.com

再び惹句を持ち出すと、「老いによる思い出の喪失と、親子の揺れる絆を描く。かつてない映像体験で心を揺さぶる今年最高の感動作」内の「かつてない映像体験」は、アンソニーが認識している世界を映像化することにより、認知症によって生じる被害妄想や言動・行動が追体験できるようになっている。と考えられるが、本作はもう一段階ある。それはアンソニーが認識している世界を写し出す手段として、それほどPOV視点が使用されない点にある。

観客席から芝居を観ているようなショットは、監督が劇作家なのだからして狙い通りかもしれないが、個人的にはよほど「かつてない映像体験」である。アンソニーは連続的な記憶ではなく、パズルを埋めるように(覚えていない、というかそもそも無い)記憶を辿るが、観客も「あれ、家具の位置や色変わってないか」と、数分前に観たリビングと今のリビングが「なんか違う」奇妙さを自らの視点で感じることができる。その違いのすべてを初見で的確に指摘できる人はほぼいないだろう。つまり、観客自身の視点もアンソニーと近しいものになる。

本作はアンソニー・ホプキンスのスキルだけでもっていける駆動力があるが、字義通りボケを受け続け得るオリヴィア・コールマン、マーク・ゲイティスのディフェンス力、そして脚本の緻密さと上記の視点の配分により、狭い空間・少ない登場人物ながらも全く観客を飽きさせない。職人技である。

説得力のある「全く記憶にございません」


the father
出典:映画.com

「全く記憶にございません」と言う人の120%は記憶があるが、認知症の場合はそれがない。加齢による物忘れは体験の一部を忘却するが、認知症患者は体験そのものを忘れる。時間や場所に関しても、皆目検討がつかなくなり、何かを「忘れた」という自覚がない。

「陽子さんや、メシはまだかい?」という志村けんボケメソッドが激しく正しかったという話は脇に置いておいて、もし上記症状が自分に現れた場合を考えると、恐ろしくて仕方がない。

私はこれまで、認知症とは「自分ではない何か」になってしまうものだと思っていたのだが、「自分を取り巻く世界がおかしくなっていく」のだとしたら、その1兆倍は恐ろしい。

明らかにおかしなことばかりが起きているのに、周りの人間に異変を伝えても「何も変わっていない」と返される。エブリモーメント羅生門、これは怖い。

とにかく、「何が起こるのかわからない」のはヤバい。例えば刺されたら痛い→血がたくさん出る→出すぎると死ぬ、というのは覚悟できるが、「一体どうなるのかわからない」のは刺されるのよりも嫌になる。恐ろしい恐ろしいばっかり書いているが、恐ろしいんだからしょうがない。その恐ろしさすら忘れてしまうことだって考えられるだろう。

もしかしたら、今私は80歳の認知症患者で、42年前に観た『ファーザー』のレビューを突然自宅まで押しかけて来た当媒体編集長に催促されて書いているのかもしれない。なんだか不安になってきた。

今からそれを確認するために入稿するが、ここで入稿はおろか原稿を書いた体験ごと忘れてしまう可能性に気付いた。即今・此処・自己すら危うい世界は、端的に地獄である。


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[イラスト]清澤春香

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