「ノマド」は英語で「遊牧民」を指す。現代の日本では、定位置を持たない自由な暮らしや働き方を謳歌するスタイルの比喩表現だ。けれども、この映画で描かれる「ノマド」は、比喩なんかじゃなく、生きる選択肢としての〈現代のノマド=遊牧民〉であり、昨年アカデミー賞作品賞を受賞した「パラサイト半地下の家族」と同じく、社会からこぼれ落ちてしまう現実がテーマだ。
日本時間の4月26日(月)開催の第93回アカデミー賞で作品賞含め5部門にノミネートされている、この「ノマドランド」は、単なるフィクション作品として俳優が演じた作品ではない。
「ザ・ライダー」でインディペンデント映画として高い評価を受け、マーベル・スタジオの最新ヒーロー超大作「エターナルズ」に抜擢された新鋭クロエ・ジャオ監督がメガホンを取り、「スリー・ビルボード」のフランシス・マクドーマンドが実在するノマド達の中で過ごして、当事者の語りと融合したロードムービーである。
この映画の中でプロの俳優は主にファーンを演じたマクドーマンドとデイヴを演じたデヴィッド・ストラザーンのみ。彼らと印象的なコミュニケーションを取るノマド達は、全員が一般のノマドたちという徹底した作りとなっている。
アメリカ社会で〈現代のノマド=遊牧民〉はどんな存在か
「ノマドランド」に登場するのは、キャンピングカーやトレーラーハウスで暮らし、季節労働者として各地を転々として働く人たち。60代~70代の高齢者も多く、有期の非正規労働者として過酷な環境で働いている。一見、自由なリタイアライフに見えるが、様々な社会保障や支援から抜け落ちており、最低限の収入でやりくりし、「自立」という最後の希望を守って生きている。
私がトレーラーハウスで老後を過ごすお年寄りを知ったのは2001年頃で、「カートゥーン ネットワーク」放送のアニメ「おくびょうなカーレッジくん」の中だ。
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主人公の犬の飼い主である老夫婦の夫(偏屈)の母親は、トレーラーハウス住まい。クセの強い意地悪なおばあさんで、「他の人とはうまく行かずトレーラーハウスに住んでいる」と思わせる演出となっている。
当時学生だった私は、(そうか、固定資産税や住宅ローンを払えない状況になった時に、土地が広く物価が高いアメリカだとこういう選択肢もあるのか)と理解し、(この描かれ方で良いのか?)とモヤモヤが残った。自由な選択肢である一方、向けられている偏見も感じたからだ。人生後半で味わうには辛すぎる。
もちろん偏見と自己責任論で片づけて良い話ではない。むしろ2001年より状況は悪化している。
その現実を教えてくれるのが、この映画の原作、2017年刊行のジェシカ・ブルーダーのノンフィクション「ノマド: 漂流する高齢労働者たち」だ。
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著者のジェシカ・ブルーダーがジャーナリズムの原則「客観的にとらえ、伝える」を忠実に守り、問題の大きさや根深さ、取材対象への真摯なまなざしで綴った作品だ。
失意や傷ついたプライドを抱え、ときに人目を憚りながら生きている彼らの真実に迫るには、著者自身も相手の懐に飛び込み、車上生活の苦楽をともにする必要があった。
(出典:「ノマド: 漂流する高齢労働者たち」訳者あとがき)
とあるように、著者自ら3年間、2万4,000キロの旅をアメリカ社会のノマド達と共に過ごし、信頼関係を築きながら作っている。
登場するノマド達の生活や言葉に脚色された気配がないからこそ、ショックだ。
この、「車上生活」をする高齢者たちの多くは、2007年~2008年のリーマンショックでそれまでの「普通」の暮らしを失っている。
老後の年金は個人の運用拠出による401kに移行し、住宅もサブプライムローンが証券化されるなど、金融市場のからくりが個人の生活に深く影響する構造だったアメリカ社会で、リーマンショックは「中間所得者層」を直撃した。金融市場連動型の年金や資産は大きく目減りし、住宅の差し押さえが大量に発生した。
リーマンショックからの回復後も、市場原理は彼らの味方ではなく、住宅価格は高騰。富裕層と低所得層(住宅補助がある)を除く「中間所得層」への高騰する家賃の直撃は続いている。ここに、失業や病気で働けない状況が起きたら、ひとたまりもない。
伝統的な意味での中流の生活ができずに苦しんでいるアメリカ人の数は、いまや数百万人に上るのだ。
(出典:「ノマド: 漂流する高齢労働者たち」終章 椰子の殻に入るタコ)
とある、彼らが迫られたのは「不可能な選択」だ。
・食べ物と歯の治療
・住宅ローンの支払いと電気代の支払い
・車のローンの返済と薬の購入
・家賃の支払いと学生ローンの返済
・冬物の衣類と通勤用のガソリン
といったものを、片方、やむを得ずあきらめざるを得なくなる生活だ。
「生き延びるために諦めるとしたら、生活のどの部分だろう?」を自らに問いかけ、一番大きな出費である「伝統的な”ふつうの”家」を諦めて、避難所と移動手段としての車を選択した人達が〈現代のノマド=遊牧民〉だ。
アメリカのノマド達は、カフェやコワーキングスペースでおしゃれにノートPCを開いて、優雅に打合せはしていない。
有期かつ非正規雇用での、Amazonの倉庫の中での作業(1日に20キロ近く歩くこともある)や、夏のキャンプ場のスタッフなど、単純作業中心だが非常にハードな労働を季節ごとに各地で行い、お腹とガソリンを満たしながら生活している。
ホームレスではない”ハウスレス”としての「自立した旅」
ノマド達は、自分たちは「ハウスレス」ではあるが、ホームレスではないと主張する。
「ホームレス」という言葉は、本来の意味を超えてひとり歩きし、「アメリカ社会における不可触民」のような響きで語られていることを良く知っているからだ。
映画の中でも、フランシス・マクドーマンド演じる主人公ファーンが、他の人に「ハウスレス」として訂正するシーンがある。
他の労働者より全然法的にも制度的にも守られていないし、過酷な生活だが、ノマド達はつながっている。彼らは年に1回集まってコミュニケーションを交わすイベント「RTR(Rubber Tramp Rendezvous)」で会い、それぞれの心の内や夢を話し、「またね!」と言い合って各地に散っていく。
アメリカ開拓時代同様、「変化を受け入れ、自立した存在として旅をする」が、”最後の希望”として存在する。
ノマドを選んだきっかけはそれぞれ、辛さや侘しさを伴う思い出があり、彼らは誰よりも「さよなら」の辛さを知っている人達でもある。「またね!」で再び旅に出ることは、永遠のつながりという「救い」でもあるのだ。
出典:映画.com
私たち日本人も、10年後、別の形でノマドかもしれない
「ノマドランド」はアメリカという広大な国での生き方かもしれない。
ただ、日本でも社会の不確実性は増し、中間所得層の「ふつうの暮らし」にやたら課金される状況は同じだ。大学、結婚式、住宅、子ども、教育、車、サザエさん一家の暮らしは今や贅沢品。
もし、個人単位では抗えない、大きな変化が来たら、別の形でノマドになる可能性もある。
社会保障が充実し、全ての変化がゆっくりな日本では、
何も感じず人生設計をして逃げ切れる人と、変化に対応せざるを得ない人に分かれる。
私は後者で、ちょうど街クリでコラムを書き始めた2年前、家の更新を控える中、同意無いままに4万円台への給与激減を経験している。後で回収したし転職もできたし、今では良いきっかけと社会勉強代をありがとうだが、当時は辛かった。日本でも、大手企業に勤める「中間所得層」は、自治体の家賃補助含め救済は後回しだ。法的措置もお金がかかり、貯蓄と借金でしのぐしかなくなる。
だから、「ノマドランド」でリーマンショックを境に生活を変えざるを得なかったと語るノマド達の姿は、他人事ではなかった。私も、この出来事と就職氷河期を踏まえ、大きな枠組み(社会通念、組織)を信じた生活設計を、捨てた一人だ。
この変化への感受性の違いを、原作の「ノマド: 漂流する高齢労働者たち」では、このように表現をしている。
車上生活者は生物学で言う「指標種」のようなものなのだ。指標種とは、他の生物より環境の変化に敏感で、生態系全体の大きな変化を他にさきがけて予言する、そんな生物のことだ。
(出典:「ノマド: 漂流する高齢労働者たち」 終章 椰子の殻に入るタコより)
私は、この言葉の一文を見て、とても救われた。何も感じないで済む人達とは別の世界を生きていると割り切れたし、どんな変化があっても適応し続ける限り生きていけるという自信も思い出した。
映画の中で、ノマド達は生きるために、大切な最低限のものだけを持ち運ぶ。
「生きるために一番必要なものは何か? 」
「不可能な選択を選ばなきゃいけなくなった時、何を優先するか? 」
きっとノマド達と同じ形にはならないけれど(日本は狭い)、「何を選ぶか」の軸を育みながら、今後10年の変化を受け入れる気持ちになれる良い作品だった。
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[イラスト]清澤春香