原作に勝てないのは、実写化のお家芸。
「漫画の実写映画化」と聞いて、寒気がしない人は少ない事でしょう。
戦闘民族が気弱な高校生になってしまったり、変な方向に進撃してしまったり、スタンド使いが後に逮捕されたり。成功例が出ると「これはいい実写化」と珍獣のように扱うのも、もはや使い古された評価。
ところが2020年12月25日、「かつてヒットした実写映画のアニメ化」というこれまでと毛色の違う作品が公開となりました。
出典:映画.com
元になったのは、2003年公開の「ジョゼと虎と魚たち」。
足が不自由な女性と健常者である大学生の、苦い恋の物語です。池脇千鶴と妻夫木聡主演のこの作品は涙なしでは見れない結末もあって、今でも名作として語り継がれています。そのアニメ化の速報が流れると「実写を超えることはできないのでは?」というこれまでとは逆の噂がされることに。
出典:映画.com
では実際に公開された後の評価はというと、「見終えたあと、心が温まる」というポジティブなものが大多数でした。従来のファンからも批判は少なかったのですが「以前とはもはや別作品」などの意見もしばしば。実写化では最も批判対象となる設定の改変……今回のアニメ化はどこまで行われ、そしてなぜ好意的に評価されたのでしょう?
今回は2つの「ジョゼと虎と魚たち」を比較しながら考察していきたいと思います。(ネタバレがっつりしています。ご注意を!)
同じタイトルの別映画!?
実写とアニメの「ジョゼ」と「恒夫」はここまで違う
そもそも2003年版と2020年版ではどのくらいの違いがあるのでしょう? まずは主人公である「ジョゼ」と「恒夫」を比較してみました。
ヒロインであるジョゼには「足が不自由である」「祖母と大阪で2人暮らしで、普段は家から出ない」「24歳だが容姿は年齢より低く見られがち」という点が2作品ともに共通しています。その一方で
出典:IMDb
◆池脇千鶴演じる2003年版・ジョゼ
・狭い家で貧困生活を送っており、他人からの支援が必須
・使用している移動手段は、乳母車。外を出歩く際は、護身用に包丁を所持しており警戒心は強い。書籍で外部の情報を常にチェック。
・足が動けない自分に対する肯定感は低い。一方で幼少期より過酷な状況で生きてきたためか、どこか達観している。
・特技は料理。不思議な言動ながら、生きる手段を常に考える現実的な思考。
に対し
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●清原果耶演じる2020年版・ジョゼ
・広い家で暮らしており、金銭的にはある程度余裕がある
・使用している移動手段は、最新の車椅子。警戒心は強いが武器は所有していない。また駅で切符の買い方に悩むほど、外部の情報に疎い。
・足が動けない自分に対する肯定感は低い。また家事を祖母が全て行うなど甘やかされているため、精神的に幼い。
・特技は絵を描くこと。実現しがたいと思いつつ、絵描きになりたいという夢見がちな思考。
と、大きく環境・精神構造が異なっています。特にその違いがよくわかるのが、恒夫に好意を持つ女性から感情をぶつけられるシーン。
アニメ版では「彼があなたのそばにいるのは同情だから」という言葉を吐かれ、何も言い返せなかったジョゼですが、
2003年版では「あんたも足切ってもうたらええやん」と冷静かつうんざりしたように返答。凄みを感じさせるこのセリフから、彼女の生き様と、恒夫との恋愛関係を「足が悪い自分が生きるための生活手段」とも捉えている思考を垣間見ることができます。
(ちなみに実写版のライバル・香苗役を演じているのは、新人時代の上野樹里。現在とだいぶ雰囲気が違うので、初見の方は驚かれるかも知れません)
一方で恒夫の場合、さらに設定が大きく異なっています。「困っている人がいたら助けずにはいらない、お人好しな大学生」という点は共通しているのですが
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◆妻夫木聡演じる2003年版・恒夫
・アルバイト先は、中高年のたまり場である麻雀ショップのボーイ。
・性格は明るくお調子者。助けながらジョゼに依存している要素も。
・就職活動はしているものの「将来どうなりたいか」という長期的プランはない。
・両親が健在で、弟や親族から良く思われていたい。
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●中川大志演じる2020年版・恒夫
・アルバイト先は、オシャレな若者が集まるダイビングショップ。
・性格は真面目な勉強家。ほぼ完全に保護者的な立ち位置。
・就職はせずメキシコへの留学を希望。現地の海に潜り「クラリオンエンゼルフィッシュの群れを見る」という具体的な夢を持っている。
・両親が亡くなっており、孤独な人間への共感性が高い。
……あの、もはや別次元レベルで他人では?
(実際、二次元と三次元ですけど)
と、ツッコミたくなるほど正反対の設定になっているのです。なぜここまで違う人物像になったのでしょうか。
2人の物語は2度目にあらず
昭和、フランス、そして韓国のジョゼの存在
まず元を辿れば「ジョゼと虎と魚たち」は芥川賞作家である、田辺聖子氏の小説が原作となっています。
出典:朝日新聞・デジタル版
1985年に執筆され、内容はわずか25ページ弱。そこから話を大きく膨らませたのが、2003年版の「ジョゼと虎と魚たち」なのです。一方で2020年版も同じ小説から話を膨らめせているのですが、その要素は異なっています。
「ジョゼ、お前、誰かと旅行したこと、あんのか」
「ご想像にまかせます。アタイはもてたんやから。管理人とはちがう」
「くそう」
ジョゼが恒夫のことを「管理人」と呼ぶのは、とびきり上機嫌のときである。
「ジョゼと虎と魚たち」田辺聖子・著(角川文庫)より抜粋
例えば恒夫のあだ名「管理人」は2020年版では採用されていますが、2003年版では登場していません。他にも「ジョゼの精神年齢が幼く、一人称がアタイ」「2人が水族館へ出かける」という要素は2020年版と小説のみに登場している要素です。一方で「ジョゼの周囲に不審人物がいる」「2人が旅行に出る」という要素は2003年版と小説のみに共通する要素。
それぞれが小説版から膨らませた部分を大きく分類すると
・2003年版=生きていく上での現実的な問題・関係性という1985年版の外的要素
・2020年版=2人の性格や精神年齢という1985年版の内面的要素
となっています。実写とアニメで2人に大きなズレがあったのは、そもそも小説からピックアップした箇所にズレがあったからなのです。
またこの小説に登場する「ジョゼ」という人物には、さらに元ネタが存在していることも広く知られています。
それが、フランスのフランソワーズ・サガンが1957年に書いた小説「一年ののち」。
サガンを愛読する女性・クミ子が、この小説のヒロイン・ジョゼの名前を自称している……これが1985年・2003年・2020年いずれにも共通している設定です。「一年ののち」のジョゼは、2020年版のように裕福な暮らしをしていますが、2003年版のような早熟な精神・価値観の持ち主として描かれています。そしてこの作品にも、恒夫に該当すると思われるジョゼの相手役「ベルナール」が登場しています。
『だが結局のところ、あの女はお前になんの義理もないんだ。お前は彼女になにも頼みはしなかった、彼女は金持ちで、自由だ、お前は彼女の公式の情人じゃないんだ』が、すでに、かれは自分自身のなかに、うちよせてくる苦悩と焦慮、電話をかけたい衝動……来るべき日々の、目にみえて明らかな執念を感じはじめていた。
世界文学全集40「一年ののち」フランソワーズ・サガン著 朝吹登水子訳(新潮社)より抜粋
「一年ののち」のベルナールは、どこか計画性のない2003年版の恒夫を彷彿とさせる性格となっています。
2003年版・2020年版ともに「一年ののち」からも要素をピックアップしているそうで
・2003年版=2人の性格や精神年齢という1957年版の内面的要素
・2020年版=ジョゼの裕福な暮らしという1957年版の外的要素(「実は何かに熱中したい」という内面要素も一部含む)
と1985年版とは真逆の部分を膨らませていると解釈できます。2つの原作から違う要素を採用し、別の要素と組み合わせた。そう考えれば2つの映画にズレが起きることもより納得が出てきます。
ここまでで1957年・1985年・2003年・2020年の4人の「ジョゼ」の存在をお伝えしてきましたが、実はさらに「第5のジョゼ」が確認されています。
出典:映画ナタリー
それがハン・ジミンとナム・ジョヒョク主演の韓国版「ジョゼ(原題)」。2003年版のリメイクとして2020年12月10日に同国で上映され、日本公開も予定されているそうです。
1957年にサガンの手で生み出され、要素を変えつつ今なお新しい作り手によって生まれ続ける。それが「ジョゼ」というヒロインなのです。
重なる2つの物語の共通点
実写版への確かなリスペクトと新たな要素
1957年版と1985年版の異なる要素の採用。2つの映画のズレには説明がつきましたが、では両者は全くの別物としてみるべきなのか? ここからは結末のネタバレ含めてストーリー展開を比較してみたいと思います。
出典:IMDb
2003年版の場合
①ジョゼに振舞ってもらった料理をきっかけに、恒夫が家に遊びに来るように。その後祖母の目を盗んで2人で外出する仲に。
②2人の関係に最後まで反対だった祖母が突然亡くなり、ジョゼの身を案じた恒夫が家に訪問。依存しあう形で交際をスタート。
③しかし周囲からの冷たい目もあり、恒夫がジョゼの存在を重荷に感じるようになって破綻。ジョゼも自分の面倒を見れるようになり、それぞれの道へと進む。
とそばにいながらも、健常者と障がい者という壁を越えられないまま別れる、切ない結末でした。
出典:映画.com
それに対し2020年版は
①ジョゼの祖母の要請で、アルバイトとして恒夫が家に来るように(最初に料理を振舞うのは、祖母)。祖母の目を盗んで2人で外出する仲に。
②2人の関係を応援し始めていた祖母が突然亡くなり、1人で生きようとするジョゼと恒夫の間に溝ができるように。その折で恒夫が事故にあい足が不自由に。
③絶望に落ちた恒夫のためにジョゼが奮起。絵本による応援で彼の心に希望を取り戻す。リハビリによる回復後、かけがえのない相手と互いを思い結ばれる。
というハッピーエンドに落ち着いています。小説版とも異なるこのストーリーになった理由は、パンフレットでのインタビューを見ると謎が解けます。
まず実写映画に関しては、男女の恋愛を通して人間を描ききっているところだと思います。恒夫役の妻夫木聡さんが泣き崩れるシーンが衝撃的で。自分であの選択をしておきながら泣くなんて矛盾しているけど、矛盾しているのが恋愛であり人間だよな、と。最後、二人はあのような道を選びますが、失ったものだけでなく、それぞれが得たものも描かれているのが見事だと思います。
(中略)
企画の段階では何も決まっていなかったんですが、最初の打ち合わせで監督が「ハッピーエンドにしたい」と仰っていたことで大きな方向性が定まりました。先ほど申し上げた通り、私は実写映画版が好きで、だからこそやりたいと思ったのですが、実写とは違うものにしたいという思いもあったので、ハッピーエンドにして実写と差別化できるのはとてもいいんじゃないんかと思いました。
公式パンフレット・桑村さや香(脚本家)インタビューより抜粋
この話でわかるように、本作の改変の根幹にあったのは「実写版への大きなリスペクト」。
尊敬している作品の結末をきっちりと受け止め、それと同じものや超えるものを作るのではなく、別の方向性のものを作り並ぶことを制作陣は選んだのです。
その意欲を感じるものとして2003年版の人物たちと同じ立ち位置でありながら、全く違う役割の人物たちが2020年版の2人の周囲に登場しています。
出典:映画.com
まず1人目は、ジョゼの友人となる岸本花菜。将来の夢の相談役をする図書館司書の美女なのですが、実写版でそのポジションにいるのは新井浩文演じる工場勤務の幸治。実写では非協力的だった彼のポジションが、アニメではジョゼにとって何でも話せる相談役として登場しています。
次に2人目は、松浦隼人。恒夫の友人役として登場していますが、実写版でその立ち位置にいるのは江口のりこ演じるノリコ。性別が異なりますが「恒夫の息を抜いてやるのが俺の役目」というセリフから同じ立ち位置であることがわかります。2人とも異性から同性の友人になったことで、より近い目線で相談に乗り、悩みの解決に協力してくれるキャラクターへと変わっているのです。
他にも意外な形で登場したのが、ジョゼの周囲をうろつく不審者の男。「足が不自由な女性が怯える現実的な問題」を象徴するこの人物はなんと猫として登場します。精神的苦痛を耐えていた存在が、小さないたずらをしつつも最終的にはジョゼが気持ちを吐露できる存在になっています。
このように最終的に2人が別れる原因の一つ「周囲からの冷たい視線・ストレス」が「周囲からの応援・ストレスの緩和」へと変化しているのです。
そんな環境やキャラ付けの変化もあり、本作で重要な役割である「虎」も立ち位置が変化しています。「ジョゼを脅かす、外にいる危険な存在の例え」と「恒夫と一緒に動物園で見たかった恐ろしい生物」という立ち位置が1985年・2003年・2020年でも共通していますが、今回はもう1つ役割が追加されています。
それが雪の降るクリスマスのシーン。恒夫と観た時はただ怖がっていたジョゼですが、この時は無言でただ1人対峙しています。この虎は大阪・天王寺動物園にいる虎がモデルのため、シベリア出身の大型種「アムールトラ」となります。
絶滅危惧種である虎の中でも減少が最も顕著な種類で、狩猟などにより世界中で残り500頭のみ。かつては人間にとって恐怖の対象だったはずが今では人間に種の存在を脅かせ保護されている生き物なのです。この事実を知っていたかは不明ですが、故郷シベリアに近い雪景色に佇む「本来の顔をしたアムールトラ」とジョゼが対峙する姿は「自分が今まで恐れていた存在を見つめ、その孤独や本質に共感しようとした」姿ではないでしょうか。
出典:映画.com
「自らも足が不自由になり、ジョゼの苦痛を理解し彼女の大切さを知った恒夫」「目をそらしてきた恐怖と向き合い、大切な人の支えになれたジョゼ」「周囲環境がストレスではなくサポート」2003年版にはなかった、この3つの要素があったからこそのハッピーエンド。
つまり2020年のアニメーション映画「ジョゼと虎と魚たち」とは、1957年版と1985年版の違う要素をピックアップしながら、2003年版を最大限リスペクトし、その上でいかに2人が幸せになるかを考え抜いた作品だったのではないでしょうか。
辛いけれど美しい結末から、
観る人の過去をも肯定する結末へ
とはいえ、ここまでの大幅な改変が好意的に評価されている事実を説明するにはあと一歩足りないように感じます。そこで注目したのが作中の2つのスポットでした。
まず1つ目がジョゼと恒夫が最初に心を交わした場所である、須磨海浜公園。海自体が「2人の共通の夢」という重要な意味がありますが、夕日が美しいこのシーンで一瞬ながら「明石海峡大橋」が映っています。
出典:Wikipedia
ご存知の通り、この橋は四国と本州をつなぐ橋。四国は八十八ヶ所の霊場があるように、霊やあの世と密接な世界として様々な文献や映画で取り上げられています。2003年版では、山口だった2人の思い出の海がこの場所に変わったのは、瀬戸内海をまたいだこの橋に意味があった……死んだ人間が現世へと渡ってくる、いわば「生まれ変わり」を描写していたのではないでしょうか?
この裏付けとして、EDで2人の海のシーンに以下の歌詞が流れてきます。
ただ願って願って 生まれ変わっても
不確かな未来を謳っては触れたくて
伝って伝って 頬を流れる
その涙の味は いつかの約束
Eve「蒼のワルツ」歌詞より引用
これらの演出から別人だと思っていた2020年版の「ジョゼ」と「恒夫」が、実は2人とも2003年版と「同一人物」なのではと考えるようになりました。
出典:映画.com
その説への確信を深めたもう1つの場所が、ジョゼと恒夫が初めて出会った坂。ここは大阪府天王寺区にある急斜面の「愛染坂」で、その頂上には1400年以上の歴史を持つ愛染堂勝鬘院があります。
出典:Wikipedia
映画「愛染かつら」(`38)の舞台にもなったこの寺院は、縁結びのご利益があるとされています。そんな恋を成就させる寺院脇の坂は、クライマックスでも登場。つまずき車椅子から転落したジョゼを恒夫が受け止めるシーンを観たとき、ある映像とダブりました。
それは、2003年版のラストシーン。妻夫木聡演じる恒夫と別れたあと、池脇千鶴演じるジョゼも同じように坂を車椅子で下っていきますが、その足取りはつまずく事なくしっかりしたもの。自宅に戻り彼女が料理する場面で、映画は幕を閉じています。すっかり自立した強い女性として描写されていますが、魚が焼けるのをどこか寂しそうな目で見つめる姿が印象的なシーンです。
出典:IMDb
すれ違った結果で、納得もしている。そしてもう会うこともない。でも心の隅では「本当によかったのか? 別々の自立した道ではなく互いの痛みをより理解し、必要な存在として支え合う道はなかったのか?」そんな小さな疑問を胸に抱いたまま生き続け、そして人生を終える。
その2人が生と死の海を越えて生まれ変わり、互いにかけがえのない相手となった。坂を孤独に降りていったジョゼを、恒夫は今度こそ受け止めることができた。
2003年版で涙したファンがそんな意図を愛染坂でのシーンから少しでも感じ取れたから、あのハッピーエンドを好意的に評価できたのではないのでしょうか?
最後に書いた「生まれ変わり説」は突飛なものでもあり、2つの作品を全くの別物と楽しむ方が現実的でしょう。ですが2020年版の結末が、「ジョゼ」と「恒夫」が17年ぶりに結ばれた姿と解釈したのなら。
出典:映画.com
「辛い別れをもう一度やり直して、違う結末にたどり着きたい。」
苦い過去を持つすべての人々の、儚い願いを肯定する。
2つの映画「ジョゼと虎と魚たち」を見比べる事は、そんな特別な意味を持つのです。
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[イラスト]清澤春香