光と影
使い古された言葉ですが、どうしても使いたくなる映画があります。
今回ご紹介する、デヴィッド・フィンチャー監督の「Mank/マンク」がそうで、「映画」の光と影、魅力と魔力をモノクロ映像で描いた力作です。
出典:映画.com
2020年12月4日からNetflixで配信。それに先駆けて一部映画館で先行上映がありました。運よく近所でかかっていたので、見にいきました。
結果、2週間で3回見たんですよ。
内容が良かったのはもちろんですが、知識とリテラシーを要求してくる作品でもあったからです。正直、とっつきにくいと思います。Netflixで何回も見られるとはいえ、ガイドがないとなかなかに厳しいと思います。
入口が狭い分、その先には広い広い映画の魔法がつまっています。ぜひ、この映画評を鑑賞前、鑑賞後のお供にしてやってください。
ネタバレしますが、鑑賞前に読んでも問題ないと思います。気になる方は、ご覧になってから読んでください。
それでは、どうぞ。
映画史上の傑作「市民ケーン」がもたらした、親子の共作
「Mank/マンク」は、主人公ハーマン・J・マンキーウィッツの愛称。物語は、マンクが松葉杖をつきながらヴィクターヴィルの牧場にやってくるところからはじまります。ヴィクターヴィルは、ハリウッドから150㎞ほど離れたカリフォルニア州の都市。
1940年3月から5月までの約6週間、マンクは療養と、脚本執筆をかねて滞在します。この時に書かれたのが、映画「市民ケーン」の第一稿です。
「市民ケーン」は、1941年にアメリカで公開(日本では1966年公開)され、現在では映画史上最大の傑作として名が上がる作品です。
出典:映画.com
新聞王として富と権力を手に入れた男ケーンが「バラのつぼみ」という謎の言葉を残してこの世を去った。ある新聞記者が、ケーンの生涯に迫るニュース映画を制作するため、ケーンに関わった人物を辿りながら彼の人生と「バラのつぼみ」の秘密に迫るというストーリー。
心から求めたものだけは手に入れられなかった男の哀しさが描かれ、ケーンにはアメリカという国そのものが投影されているかのようなんですね。ちなみにマンクが書いた第一稿のタイトルは「American(アメリカ人)」だったんです。
出典:IMDb
「市民ケーン」は、撮影・演出面でも当時としては革新的な部分があり……
- 背景にまでピントのあったパンフォーカスをつかった奥行のある構図
- 看板の狭い隙間をカメラが通ったと思わせるために、看板そのものを動かす
- 極端なローアングルを実現するためにセットの床に穴を空ける
などが、技術的な特徴。
物語構造も特殊で
- 物語上の現在と過去、時勢を入れ替えながらひとりの男の生涯を追っていく
- ニュース風の映像を使ったドキュメンタリー調の語り口
この2つが代表的なところです。
時勢の入れ替えというと「TENET テネット」のクリストファー・ノーラン監督が思い浮かびますが、「市民ケーン」は、ノーラン監督にかぎらず技術・物語構造の両面から様々な監督・作品に影響を与えつづけているんです。
さらに「市民ケーン」のすごいところは、当時のアメリカ人であれば、ケーンのモデルが実際の新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストだと分かってしまうところ。
出典:Wikipedia ウィリアム・ランドルフ・ハースト
ハーストは、絶頂期で28の新聞、18の雑誌、複数のラジオ局、映画会社を所有し絶大な影響力を誇りました。1989年に起こった米西戦争は、新聞の発行部数を伸ばすため、ハースト系の新聞が世論を扇動して起こったものだと言われています。戦地の挿絵画家に「君は絵を提供しろ。私が戦争を提供するから」と、言ったんだとか。
ハーストは「市民ケーン」が自身とその妻、愛人をモデルにしていることを知ると、ハリウッドへのネガティブキャンペーンなど、妨害工作を展開。その影響もあってか、公開当時の興行収入はふるわず、9部門にノミネートされたアカデミー賞でも、脚本賞のみの獲得にとどまりました。この事実は、アカデミー賞の歴史における最大の汚点とまでいわれています。
ハーストが1951年に亡くなった後に「市民ケーン」は評価が上がり、映画史上にのこる傑作の地位を獲得することになるんです。
「Mank/マンク」は、ハーマン・J・マンキーウィッツが1930~37年頃までに彼が体験した出来事と1940年の脚本執筆を交差させながら、「市民ケーン」がいかに生まれたかを描いていきます。
デヴィッド・フィンチャー監督と「市民ケーン」のつながりは強く、Facebook創業者マーク・ザッカーバーグを描いた「ソーシャル・ネットワーク」(2011)は現代版「市民ケーン」といわれるほど強く影響を受けています。
出典:映画.com
富と権力を手に入れながらも徐々に孤独になり、本当に手に入れたかったものを見つめるようなラストシーンが印象的です。ケーンとザッカーバーグの姿が重なりますし、彼らを通してその時代の人々・社会の抱える哀しさを浮彫りにしているようなテーマ性も共通しています。劇中の現在である訴訟調停と、過去の回想を交えた語り口も「市民ケーン」からの引用といえます。
出典:映画.com
「Mank/マンク」の脚本は、監督のお父さんジャック・フィンチャーが、ジャーナリストを引退したあとに書いた遺稿を元にしています。クレジットも、ジャック・フィンチャー単独。マンキーウィッツもジャーナリストから脚本家になった人なので、ジャック・フィンチャーは共感を持ったのかもしれません。
ジャック・フィンチャーが書いた脚本は、デヴィッド・フィンチャーが監督としてデビューする前から父子で共有し、長年温めてきたもののようです。「ゲーム」(1998)の後に映画化の話があったようですが、モノクロ制作を前提とした渋い題材のため頓挫してしまいます。そして、「ゴーン・ガール」(2014)以降のドラマ制作で良好な関係を築いてきたNetflixから映画製作の打診があった際に、思い出して製作が決まったようなんです。
「市民ケーン」の脚本は誰が書いたのか?
そんな「Mank/マンク」ですが、メインテーマのひとつは「市民ケーン」の脚本は誰が書いたのか? という点です。これは、映画史上の論争でもあります。
「市民ケーン」の脚本は、ほぼ監督であるオーソン・ウェルズ単独の功績であるとされてきましたが、1971年に批評家のポーリン・ケイルが『Raising Kane』という本で「脚本は、マンキーウィッツが単独で書いたものである」という主張を展開しました。『Raising Kane』は、1987年に『スキャンダルの祝祭』というタイトルで邦訳版が出版されています。『Raising Kane』の主張に、ウェルズは当然反論。論争が続くことになります。
出典:Wikipedia
大きな転機となったのが、1984年。ロバート・L. キャリンジャーが『The Making of Citizen Kane』という本を書きます。こちらは『『市民ケーン』、すべて真実』という邦訳版が出ています。原題からわかるように「市民ケーン」のメイキング本に近く、脚本作成の経緯だけでなく、美術や撮影の舞台裏などがキーとなった人物と共に紹介されています。
出典:Amazon.co.jp
脚本も第一稿から、撮影までに書き直された各段階の経緯を追っていて、とても読みやすいです。『スキャンダルの祝祭』は「市民ケーン」を中心に、当時のジャーナリズムや映画界も含めて筆者の感情込みで書いた批評集といった印象なんですよね。
『スキャンダルの祝祭』『『市民ケーン』、すべて真実』のどちらがより事実に近いか、それを検証することはできませんが、同じ物に別の方向から光を当てたという感じはしました。ただ、「市民ケーン」の第一稿、物語の原形は「Mank/マンク」で描かれたようにマンキーウィッツがひとりで口述したものであることは確かみたいなんですね。
ちなみに、「市民ケーン」制作の裏側を描いた映画は他にもあります。1999年製作の「ザ・ディレクター [市民ケーン]の真実」で、こちらはマンキーウィッツをジョン・マルコヴィッチが演じています。
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物語としてはオーソン・ウェルズがメイン。ハーストをモデルとした物語を書こうというのはウェルズが思いついたように描かれますが、脚本の第一稿はマンキーウィッツが書いた流れになっています。全体の作りは粗いんですが、ラストシーンのハーストがなんとも哀愁があって、「市民ケーン」の裏返しのようで味わい深い作品です。
出典:IMDb
あれもこれもゲイリー・オールドマン
長々とやってしまいましたが、「Mank/マンク」は「市民ケーン」がどんな映画で、どんな経緯をたどり、後に何を残したか? これを知っていないとノりづらいので、書いてきました。
ここからは映画の中身に入っていきましょう。
まず、登場人物とキャストについて。
マンクを演じたのは、ゲイリー・オールドマン。
出典:IMDb
安定の、ゲイリークオリティ。あらためて出演作をみると、まさにゲイリー七変化。
これも、ゲイリー。
出典:IMDb 「シド・アンド・ナンシー」(1988)
あれも、ゲイリー。
出典:IMDb 「レオン」(1995)
たぶん、ゲイリー。
出典:IMDb 「ダークナイト」(2008)
きっと、ゲイリー。
出典:IMDb 「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」(2018)
彼が、第90回アカデミー主演男優賞を獲得した『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』は、1940年5月頃が舞台です。マンクが脚本を書いていたのも同じ時期ですよね。イギリスとアメリカの同じタイミングに、ゲイリー・オールドマンが演じた2人男がいたんです。こんな繋がりも映画のおもしろさです。
ウィリアム・ランドルフ・ハーストを演じたのは、チャールズ・ダンス。
出典:IMDb
この人は「エイリアン3」(1992)で刑務所付の医師をやってた人ですね。
出典:IMDb
ハーストの愛人マリオン・デイヴィスを演じた、アマンダ・サイフレッド。
出典:IMDb
モノクロでも際立つ美しさ。抜けたところのある愛くるしさと、芯の強さを兼ね備えていて、良かったですよね。「Mank/マンク」の劇中でも触れられていましたが、ハーストがマリオンの秘部を「バラのつぼみ」と呼んでいたというのは、本当のことみたいです。
マンクがマリオンに恋慕の情を抱いているような描き方がされたことで、ケーンのモデルはマンク自身? と解釈もできて、おもしろいです。
その他、MGMの創業者のひとりルイス・B・メイヤー 。
出典:IMDb
MGMの名プロデューサー・アーヴィング・タルバーグ。「三人の妻への手紙」(1949)、「イヴの総て」(1950)でアカデミー監督賞・脚本賞を2年連続受賞することになるマンクの弟ジョセフ・L・マンキーウィッツなど、当時の映画界の重要人物がたくさん出てきます。
8Kモノクロカメラで撮影したあとに、わざと劣化させたざらついた映像のうえ、人物の説明もないので、分かりにくいですが、各人物を調べるだけでもおもしろいです。
人物を紹介したところで、ここからは「Mank/マンク」をとおして、デヴィッド・フィンチャー監督が何を浮かび上がらせたかったのか考えていきます。
出典:IMDb けっこう童顔、デヴィッド・フィンチャー。
それは冒頭でも書いたように、映画の光と影、魅力と魔力。そして、その先にあるひとりの人間の実存ではないでしょうか。
ひとつずつ考えていきます。
まずは映画の光、魅力について。
ひとりの男が、ふたたび立ち上がるまで
たびたびの引用になりますが、田中泰延さんのいう映画を観る時のポイントのひとつ。
映画監督は何本映画を撮っても言いたいことは同じ。
言葉のとおり、デヴィッド・フィンチャー監督の作品にも共通点がみられます。特に初期3作。それは「去勢された男性性が、ふたたび立ち上がる」です。去勢はもちろん、メタファーです。
さいしょは「エイリアン3」。リプリーが不時着した惑星の刑務所では、男性囚人たちが戒律を守りながら自律的に生活していました。しかし、四足獣エイリアンの襲来で変化がみられ、自ら戒律を破るかのように蜂起し、エイリアンと対決していきます。劇中、真っ先に男として立ち上がったのが「Mank/マンク」でハーストを演じたチャールズ・ダンスでしたね。
つぎに、「セブン」。モーガン・フリーマンが演じた老刑事は都会に疲れ果て、田舎に隠居しようとしていました。しかし、一連の殺人事件の捜査と壮絶な結末を経て、ふたたび都会で闘うことを選びます。
そして「ファイト・クラブ」。資本主義、消費社会に浸かりきった男が、肉体と肉体のぶつかり合いを通して自己の存在を再確認する。そしてそれを観客にも痛烈に突きつけてくるようでした。獣医をあきらめた男を脅した拳銃は、男根のメタファーといえます。自分から目をそむけるな! 立ち上がれ! というわけです。
出典:IMDb
「Mank/マンク」も、この系譜に連なっていると思いませんか?
酒とギャンブルに溺れながらも、権力者の側でうまく立ち回ってきたのに、居場所と仕事を失ってしまった、マンク。スコット・フィッツジェラルドが「破滅した男」と呼んだという話は『スキャンダルの祝祭』に書かれていました。1937年~40年にかけてのマンクは「終わった男」だったんです。
そんな彼が、ハリウッドでの出来事を回顧しながら、最高傑作と呼ばれる作品を書き上げる。道化だった男が、巨大権力に一矢報いるかのように。
出典:IMDb
見た目からして、立てなかったマンクが歩けるようになるまでの話ですよね。
肉体的にも精神的にもひとりの男が、ふたたび立ち上がる。王道ですが、アガるんです。約2時間という制約の中で人生を体感させる。映画的です。
で、もう少し考えてみると「エイリアン3」と同じテーマで、敵役ともいえる存在を演じたのが「エイリアン3」で重要キャラクターを演じたチャールズ・ダンス。「Mank/マンク」は、デヴィッド・フィンチャー監督が「エイリアン3」へのマイナス感情を乗りこえるために作ったようにも見えてきます。
映画監督としてやりたいことができず、評価も悪かった「エイリアン3」。制作後は、しばらく映画の脚本を読むこともできない状態になったといいます。そんな彼が20年以上たって手にした、Netflixという自由に映画づくりができる場所。
Netflixでの初監督作品である「Mank/マンク」で、「エイリアン3」ではやりたくてもできなかったことをやった。一矢報いてやった。そんな気持ちがあったのかもしれません。
ちょっと妄想気味になってしまいましたが、マンクにはデヴィッド・フィンチャー自身が少なからず投影されていると思うんです。映画の汚名は、映画でそそぐ。仕事の汚名は、仕事でそそぐ。映画づくりに限らず、いつも思い通りのことができるわけじゃない僕らの日々にも一筋の光が差してくるようです。
ここまでは、光の方。つづいては、影の方。魔力です。
暗闇の中で、人は見たものを真実と思い込む
マンクが「市民ケーン」の脚本を書く大きな動機となるのが、1934年のカリフォルニア州知事選。現職のフランク・メリアムに対するは、社会主義的な政策をかかげる、作家のアプトン・シンクレア。メイヤーをはじめたとした権力者側は、シンクレアへのマイナスな世論を形成、誘導するために偽のニュース映画を捏造します。現代的にいえば、フェイク・ニュースです。
マンクは、タルバーグにフェイク・ニュースのアイデアを与えたことに不安を覚えながらも「こんなこと誰も信じないさ」と強がります。しかし、シンクレアは敗北。フェイク・ニュースを制作した友人は、良心の呵責から最悪の選択をしてしまいます。
フェイク・ニュースによる世論の誘導。先のアメリカ大統領選も思い出されるように、1930年代を描きながら、現代にもつ通じるものがあります。でもこれ、10年前に公開されたとしても「現代的」と評されたんじゃないでしょうか。現代的というより普遍的。映画が、映像が原初的に抱えた魔力だと思うんです。
出典:IMDb
暗闇の中で、人は見たものを真実と思い込む。
フィンチャー監督の映画づくりに対する自戒であると共に、見ている僕らへの警告でもあるでしょう。1930年代と現代では、映像・情報の量や形態は比較できないほどです。フェイクだって氾濫する。事実を確かめ、判断するのは自分自身にしかできないんだと。
「Mank/マンク」のモノクロが際立たせる光と影が何なのか考えてきましたが、もう少しつづけます。光と影もなくなった、その先にあるマンクの本質についてです。
マンクの本質。クリエイターの哀しき輝き。
マンクが酒を飲んでいたことに気づいたウェルズを見て、マンクは「その感じ、スーザンが去る時はその方がいい!」と脚本のアイデアを書き止めました。
このシーン、「Mank/マンク」でいちばん好きなんです。
あの瞬間、ハリウッドでうまく立ち回る道化でも、アル中で浮気性な夫でも、金のためならクレジットも気にしない脚本家でもない、ただ作品を良くしたい純粋なクリエイターの本質が見えました。
ボブ・フォッシー監督の「オール・ザット・ジャズ」(1979)で、主人公が浮気相手に罵られながらも「その言葉いいね! 次の芝居のセリフにしよう」というシーンを思い出しました。
どうしようもないけれど、憧れもしてしまう、純粋すぎるクリエイターの姿があります。
編集者ハウスマンが冒頭に言いいます。見たことを書け、と。見たことしか、書けないともいえます。クリエイターは、普通の人には到底できないような経験をし、作品にこめることで僕らに魔法をかける人のことなのかもしれません。
身近な人はたまったもんじゃないでしょうけどね。「哀れなサラ」と呼ばれつづける奥さんとか。
歪に輝く1930年代のハリウッドで見てきたものを脚本に注ぎ、金も保身も求めず作品に名前が残ることを選んだ男の輝きがモノクロの画面に映っていました。
光と影とか、理想と現実とか、ややこしいことを頭良さげに考えず、ただむき出しの自分に出会えたとき、人は心から幸せを感じるのかもしれません。ほんの一瞬の輝きでも、それは一生にわたって、心を仄かに温めつづけてくれるんだと思います。
「ファイト・クラブ」のタイラー・ダーデンなら、こう言うでしょう。
あいつはいい朝を迎える。
食ったことがないほど、うまい朝飯。
冒頭とは別人のようなマンクを見て、そんな朝を迎えたいと心から思わせてもらえました。簡単ではないですけどね。だからこそ、この言葉の後半には同意できるんだと思います。
”この世は素晴らしく、戦う価値がある”
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[イラスト]清澤春香