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「はちどり」この世の中で唯一確かなことは、不確かなことである

加藤広大 加藤広大


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後ろ姿の少女が「お母さん、お母さん」と言いながら、何度も玄関のチャイムを鳴らしている。ドアが開く気配は一向にない。買い物帰りなのであろう彼女は、ビニール袋を持ちながらとぼとぼと階段を昇る。再び、まったく同じ形をした玄関の前に立ちチャイムを鳴らすと、今度はあっさりと気だるそうな母親が登場する。

少女の首筋を捉えていたカメラはゆっくりと引いていき、もう何年も住んでいるであろう少女が間違えてしまうくらい、「同じ玄関」が並ぶ団地の全景を映し出す。

これから、玄関の向こうで営まれている生活が描かれていくのだろう。そして、いくつもの描かれなかった生活が、映画に内包されているであろうことを、キム・ボラは鮮やかに提示してみせる。

赤の他人の生活を映し出したホームビデオがあったとする。果たして面白いか

ときに、まったく知らない、赤の他人が制作したホームビデオがあったとする。ビデオでは主に家庭で起こる出来事や、少女が通う学校の様子、友人たちとの交友などが映し出されていたとする。果たして、そのような人ん家のホームビデオが面白いだろうか。面白いわけがない。だが、「普通の、何ら面白みもない話を面白く話してしまう人」がいるように、映画にも「何の変哲もない話を、面白く描く人」が存在する。

本作「はちどり」は、1994年のソウル市で生活する「人ん家」の話だ。その人ん家の営みを描いているので、ある意味赤の他人のホームビデオのようなものなのだが、決して退屈ではなく、観客を引き込み、ぐいぐい感情移入させる力を持っている。しかも派手さはなく、韓国お得意の泣かせも少ない。エグい描写も一切ない。だが、本作は紛れもない韓国映画であるし、水準は歴代韓国映画のトップ層と並べても何ら遜色はない。つまり、キム・ボラは、明らかに「何の変哲もない話を、面白く描く人」である。この面白さは、どこから来ているのだろうか。

手抜き一切なしのリアル。喋らせない凄み


はちどり
出典:IMDb

本作は、徹底してリアルが貫かれている。念のために書くが、作り話なのだからして、別に話の筋がリアルなわけではない。主人公のウニ(パク・ジフ)はもちろん、父・母・兄・姉からなる家族や、ウニをとりまく友人や後輩、彼氏(と断じていいかはわからないが)、そして塾の先生など、全員が生きていて、無駄な顔などひとつもない。

無駄な顔がひとつもなく、登場人物全員が生きているのに加えて、状況を細かく説明するような無駄な会話も一切ない。たとえば冒頭、酔っ払った義理の兄、ウニからすればおじさんが彼女の家を訪れるが、支離滅裂な言動の後、何かを言いたげに帰っていく。そして後日、母親がウニたちに発する「引き出しの中の黒い服を着て」につなげる鮮やかな手付き。また、ウニがヨンジ(キム・セビョク)に自己紹介をするシーンで「漫画を描くのが好き」と語るまでの間には、発せはされないものの、いくつもの言葉が折り重なっているのが、ありありと見て取れる。

言葉を発する前に頭で考えることは、誰でも経験があるだろう。「これを言ったら相手はどんな反応をするのか」「こんなこと言ったら嫌われないだろうか」と思考し、会話の間を作り出したことがあるはずだ。言わずに飲み込んだ言葉だって、何千何万とあるだろう。言葉では表現できずに、黙り込んでしまうことだってある。

本作は驚くほど喋らせない。まずここがリアルで、観ていて安心感があるし、何なら監督が観客を信頼しているとすら感じる。とにかく、顔で、動きで、間で語らせる。むしろ、喋らせないのではなく、喋れないと言い換えてもいいだろう。登場人物たちは、大人であれ子どもであれ、感情に名前を付けられず、だからこそ言葉にできない。心で発している言葉により生じる間や、言葉にできないことで身体が動いてしまう瞬間を、キム・ボラは完璧に捉える。

この世の中で唯一確かなことは、不確かなことである

「はちどり」には、馬鹿にわかりやすい悪人も、聖人も登場しない。「あの人、素面の時は良い人なんだけどね」なんて言うのは昭和、むしろ酒造りが始まって以来のクリシェだろうが、同じく本作の登場人物には、良い面もあれば、悪い面もある。その良い面は、相手によっては悪い面になりえるし、逆も然りだ。

たとえば、SNSで他人の文句ばっかり言ってる人も、コンビニや居酒屋で怒鳴り散らしている人も、家では子煩悩かもしれない。飼っているハムスターに優しく話しかけているかもしれない。熱い風呂に使った瞬間、わけもわからず涙が出てきて大声で泣いているかもしれない。ネットや現実で外面の良い人も、家で嫁や子どもを殴っているかもしれない。野良猫に石を投げているかもしれない。「ああ、いきなり天変地異が起きてみんな死なねぇかな」と思っているかもしれない。こんな例はいくらでもあるだろう。

もちろん、誹謗中傷をしたり、コンビニで難癖つけたりすることことは許されることではない。劇中ならば、兄がそうしたように、ウニを殴って良いわけがないし。ウニが起こす行動のなかにも、社会的には許されない行為が散見される。だが本作は、画面の中で動く彼・彼女らを裁くことは決してしない。が、受け止めることもしない。知的で鉄壁な抑制をもって、世界をただ見つめているかのように描かれる。

当たり前だが、人間とは不完全で複雑怪奇な生き物で、この生き物が作った「世の中」というやつには、「正しい(ように思えるもの)」と、「正しくない(ように思えるもの)」しかない。唯一、不確かなことだけが確かな世の中を、誰もが知っている当たり前の知見を、見事に1本の映画として成立させる技量は、少なく見積もっても凄まじいの一言である。

若き映画監督の眼差しは、映画を、物語を自由自在にホバリングする

あまり「若き」なんて言葉は使いたくないのだが、キム・ボラの登場によって、韓国映画はまたひとつ豊かになり、ネクストレベルにさえ到達したと考える。その理由は彼女の眼差しに他ならない。

驚くほどに動かず、定点で撮られた画面は、まるで彼女が、世界をただ見つめているかのように振る舞う。それは先生がウニに向けた「理不尽なことが多いわよね、でも、むやみに同情できない」といった台詞そのものだ。監督自身も物語に対してほとんど介入するそぶりをみせない。韓国映画のなかで、これほど抑制の効いた作品を観たのは初めてと言ってもいい。

劇中、ウニはハチドリのような小さな体で、彼女を取り巻く世界を動き回る。なるほど、この小さな鳥は彼女にぴったりだ。だが、本作のタイトルはキム・ボラにこそ相応しい。ハチドリは驚異的な空間認識能力を獲得した鳥で、乱気流など複雑な自然条件のなかでも正確にホバリングし、決して目標を見失うことがない。彼女もまた、映画を、物語を、見事にホバリングしながら、世界を見つめてみせる。


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[イラスト]清澤春香

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