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「ミッドサマー」キッツい体験(notトラウマ)にワンパンのソースを添えて

加藤広大 加藤広大


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今や「北欧」とは「なんだかよくわからない寒そうな国」ではない。家具好きの方であればIKEAを想起するだろう。音楽好きならばザ・カーディガンズやABBAがいるし、非常に雑なくくりにはなるが北欧メタルの豊富な鉱脈もある。スカンジナビア半島からやや左下に下ればパディービートだってある。

食通であれば、ニシンとジャガイモあたりを字義通り生命の水で一杯といったほかにも、クネッケブロートやミートボール、文字通りのヴァイキングであるスモーガスボードなど、豊かな食の世界があることを知っているだろう。

あるいは、北欧神話におけるオーディンやロキなどの神々、アスガルドやアルフヘイム、ヨトゥンヘイムなどの地名を数々のファンタジー小説で、ゲームで、そして映画で見聞きしたことがある人も少なくないはずだ。

IKEAはシンプルながらも遊びが利いたデザインで、一通り揃えればそれなりに洒落た部屋になる。ザ・カーディガンズやABBAの音楽性は素晴らしい。やたら「森」でPVを撮りたがる北欧メタルバンドの映像を観ると「人生これでいいのだ」と前向きになる。ちなみに筆者が最も好きな北欧メタルのPVは、鉄板中の鉄板だがコルピクラーニの「酒場で格闘ドンジャラホイ」だ。気になる人は観なくても……いいと思います。

話を戻して、スモーガスボードなんてニシンの酢漬け、ソーセージやパテがメインの冷たい肉料理、サーモンのサラダ、ミートボール、デザートのケーキやチーズなどがテーブルに並べられているのをを眺めているだけでも楽しい。そして北欧神話に登場するあらゆる単語を一聴しただけで、我の右腕に封印されし絶華の中二病が疼く。

映画だってそうだ。スウェーデンにはイングマール・ベルイマンが、デンマークにはカール・テオドア・ドライヤーが、フィンランドにはアキ・カウリスマキが居る。ベルイマン、ドライヤーは日本にも多くのファンや追随者が存在する。カウリスマキはカウリスマキという国に住んでいるようなもんなので、若干違うといえば違うような気がする。

と、繰り返しになるが「北欧(っぽいもの)」は、我々の生活に時間をかけてゆっくりと浸透してきている。今やすっかり馴染みがある地域だと断じても書き過ぎではないだろう。だが、筆者を含めた多くの人々は、上述した記号を組み合わせて「北欧」をイメージしているに過ぎない。

ここでようやくタイトルを出すが「ミッドサマー」もまた、北欧はスウェーデンを舞台としている。

米国人であるアリ・アスターは「彼なりの北欧」をどのように描いたのか?


ホルガ村の人々
出典:IMDb

といきたいところだが、北欧はマクガフィンみたいなもので、おそらく深い意味は無い。アリ・アスターは製作のいきさつについて以下のように語っている。

「当時、恋人と別れたばかりで、それを描写する手段を探していたんだ。(中略)同じ頃にスウェーデンの制作会社B-Reelから連絡があった。スウェーデンの夏至祭を訪れたアメリカ人が悲劇に巻き込まれる民間伝承を基にしたスリラー映画を作りたい、という打診だった」

つまり、枠組みはすでに用意されていて、彼はそこに自分の体験をはめ込むことにしたわけである。なので「たまたま」スウェーデンに存在する小さな村で90年に1度開催される夏至祭のフィールドワークに赴きどえらいことになる大学生の話になっただけで、別に300年に1度、亀が災いをもたらす糸節村に訪れる米国人大学生でもよかったし、ハップンベルベル諸島に住まう原住民の調査に向かうNGOが食人祭に巻き込まれる話でも、恋人と別れたキッツい体験を描写できればよかったわけである。

ただ、300年に1度亀が災いをもたらす糸節村にダニーやクリスチャンが訪れてしまうと、山田奈緒子と上田次郎が事件を解決してしまう可能性があるし、後者は筆者の完全な作り話であるので信憑性がない。それはさておき、とどのつまりアリ・アスターにとって本作の舞台はマクガフィンみたいなものだ。ただ、決して「北欧は容れ物だからどうでも良い」わけではなく、彼は製作にあたって綿密な調査を行い、事件が起こるホルガ村を作り出した。

確かに、彼とスタッフが作り上げたホルガ村は美しく、村中にある絵やルーン文字などすべての記号に意味がある。ネットではそれらを解読・解説した素晴らしい記事が注目されていたが、公式サイトにも同等(公式なのでややフェア、というかそれ以上は憶測になってしまうので掲載できないだろう)のコンテンツが用意されているので、ご覧になった方はぜひ確認してほしい。おそらく、本作に関する記号の解説は公式のみで必要十分な量がある。

だが、綿密に作り出されたホルガ村には、手作りのダサさ、幼稚さが垣間見える


ホルガ村
出典:IMDb

念のために書くが、手作りだからといって必ずしもダサいわけではないし、幼稚なわけでもない。先程書いたように、アリ・アスターが細部にまでこだわり作り上げたスウェーデンにある小さな村、ホルガは数々の民族伝承・民間信仰などがパッチワークされて現出したような、幻想的な共同体である。このホルガを形成する数々の記号を総体で見たときは素晴らしいのだが、ひとつひとつに分解してみると、なぜか手作りのダサさや幼稚さが垣間見えてくる。

たとえば、数十年に1度の祭りが連綿と続いている村だというのに、建造物やファニチャーなどに時代がついている感じがしない。90年に1度選出されるメイクイーンの写真の画質や数に違和感を感じるなど、いろいろとモヤっとするポイントはあるのだが、最も顕著なのは村中に書かれた絵であり、ヘンリー・ダーガー・ミーツ・バトル・ロワイヤルで登場するクラスの絵のような、アウトサイダー・アートに憧れるサブカルがアウトサイダー・アートを描いてみました的なクオリティの絵に関して、文化人類学だか社会学を学ぶ米国人たちは何も疑問を抱かないのだろうか、という点である。

ただ、別にホルガの聖典であるルビ・ラダーを書くルビンが代替わりする度に絵を書き直しているという理由ならわかるし、夏至祭の度に村人たちがセットを組むのかもしれない。むしろ、そもそも90年に1度の夏至祭が嘘で、外部からの血を招いて儀式を毎年行っているといった見立ても容易にできる。また逆に「カルトなんてこのくらいがリアルなのだ」と言われれば返す言葉もない。のだが、これは監督およびプロダクションノートからの言質はとれていないので無視することとする。アリ・アスターは本作について、かなりの数「これって、○○ですよね」と聞かれているが、本作がダニーの物語であること、彼女の視点から観た話であること以外の核心については、柔和な笑みを浮かべながらお茶を濁し続けている。アリ・アスターのどの作品よりも、笑いながら人を刺しそうな彼の笑顔のほうが怖い。という指摘は、おそらく相当数なされていることだろう。

先程ルビンの話が出たので少々言及しておくが、本作の障害者に対しての扱いはなかなかに酷く、センシティブになってしまうので差別の観点からの言及は避けるが、映画表現としては、もう少し先に進んだ演出はできなかったのだろうか。この点はとても残念だった。アリ・アスターはそれができる監督であるし、今では否とされている古典的表現を用いなくとも、恐怖を描ける実力を持っているはずだ。本作は決して駄作ではなく、素晴らしい作品であるとすら言えるが、個人的な感想としては「アリ・アスターって、もっとやれるんじゃねぇかな」の一言である。

この「もっとやれるんじゃねぇかな」は、ホルガ村のDIY感や障害者の描写のほかにも、次々と現れる。ホルガの洗脳システムも古典的であるし、前作で見られた「ワケのわからない怖さ」もない。北欧における森の恐ろしさも感じさせることはない。これはおそらく、北欧がマクガフィンのようなものに過ぎないために起きてしまったのだろうが、だからこそ不全を引き起こす。

様々な要素をパッチワークにした、ヴォイニッチ手稿のような映画


タペストリー
出典:IMDb

容れ物としての北欧、以外の不全の理由としては、アリ・アスターが調べ上げた「北欧」や、彼が観た数々の映画がパッチワークのように縫い合わされてできていることが考えられる。彼が作り上げたホルガは、一種不穏な空気を作り出していることに成功しているが、上記のように突っ込めるポイントもたくさんある。

この数々の要素を組み合わせて新しいもの(宗教)を作ろうとしたら、結果として既視感が浮かび上がってしまったことが、不全を成すひとつの要素であろう。とある雑誌が「世界最高のバンドを作るとしたら、各パートのメンバーは誰が相応しいか?」とアンケートを募ったところ、ヴォーカルがロバート・プラント、ギターがジミー・ペイジ、ベースがジョン・ポール・ジョーンズ、ドラムがジョン・ボーナムという結果になってしまった小咄を思い出さずにはいられない。その結果として、本作はまるでヴォイニッチ手稿のごとき出来栄えとなり、鑑賞者によるさまざまな感想・解釈の出現を促している。

ヴォイニッチ手稿とは、オカルト好きにはお馴染みの奇書であり、1912年にイタリアで発見された。羊皮紙に筆写されている文字や描かれている奇妙な植物などの絵に関しては、未だ解読されていない。数々の有識者・好事家たちが「カタリ派の耐忍礼を表している」と論じたり「書かれている文字はヘブライ語やラテン語を使うことで解読できる」と結論づけたり「サンジェルマン伯爵が書いた錬金術の書である」と声高に宣言したりした者もいた。要は解読しようとする人の数だけ読み方があるということで、映画がすべてそうだと言われれば仰るとおりなのだが、本作はとくにその傾向が顕著であり、ある意味でタチが悪い。移入・没入させる力も強い。

要は、鑑賞者に対してワンパン入れる作品である


崖
出典:IMDb

アリ・アスターは実生活でキッツい出来事を体験すると、それを映画のネタにするという。「The Strange Thing About the Johnsons」「ミュンヒハウゼン」そして「へレディタリー/継承」と「あなた、まだ33歳なのにどれだけヤバい経験してるんですか」とこちらが心配になってしまうくらいの短編・長編を撮っている。

「The Strange Thing About the Johnsons」は、父親をズリネタにしている息子の話だし、「へレディタリー/継承」は、遺伝や精神疾患をネタとしていた。この結構キツくて、エグめなソースをベースとして、序盤〜中盤の入りにかけて、一発ショッキングな映像をカマしてくるのが、彼のいつもの手口である。要はエグいテーマをわかりやすく提示してからワンパン入れることで、鑑賞者をフラッフラにさせてしまう。そして脳震盪が収まった頃には映画が終わっていて「なんだかすげえもん観た」と思わせる構造をもっている。菊地成孔の「セッション」「ラ・ラ・ランド」評ではないが、本作は同じような効果をもっているのではないだろうか。

ただ、筆者は別にワンパン入れる映画が悪いとは思わない。「セッション」だって「へレディタリー/継承」だって、不意に殴られた後に、視界を取り戻すまでの痛みを感じず、周りがスローモーションで見え、耳も遠くなるような「ゆらぎ」の瞬間は案外気持ちがいいものだ。しかし、反撃ができるならば、である。

アリ・アスターも語っているとおり、本作はいつものように彼の体験が元ネタとなっている。冷蔵庫の中身や自分で調達できる食材でしか料理は作れないのだからして、それはそれで構わない。ウーバーイーツだろうが出前館だろうが、選択肢が限られる時点で同じである。しかし、いやーんな出来事を提示し、ワンパン決めて観客をもっていくというのは、派手な見出しで危機感を煽る者と同義であり、そういうの、そろそろ辞めたほうがいいんじゃないっすかね、という気がする。トイレットペーパーは不足していないのだから。

アリ・アスターは古典的なホラーを越えて、あらゆる意味でフレッシュな作品を作れる可能性があるし、実力もあると筆者は見積もる。初期短編作から「ミッドサマー」まで繰り返された、キッツい思い出(notトラウマ)にワンパンを添えたワンプレートをサーブするのをやめたとき、彼は過渡期を終え、凄まじい一作を世に放つはずだ。


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[イラスト]清澤春香

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