映画批評サイト「ロッテン・トマト」における「スカイウォーカーの夜明け」のポイントは、評論家が54%、観客が86%となっている。(※以下、得点はすべて2020年1月4日時点)批評家から厳しい目を向けられている一方、観客からは愛されている、ということになる。僕のタイムラインでも友人達の投稿は大絶賛一色だ。
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一方、同サイトにおける「最後のジェダイ」のポイントは評論家91%に対して、観客は43%にとどまっている。「スカイウォーカーの夜明け」と正反対なのがおもしろい。
内容的にも「最後のジェダイ」と「スカイウォーカーの夜明け」は真逆だ。「最後のジェダイ」が打ち出した新機軸に対して、「スカイウォーカーの夜明け」は一部を継承しつつ、全体としては強引な軌道修正を図っている。結果、スター・ウォーズ新3部作は、極めていびつなバランスのシリーズになったと思う。
まずは1作目「フォースの覚醒」当時を振り返ってみよう。
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ロッテン・トマトでは評論家93%、観客86%という高い評価をマークしている作品だ。5年前の空気をよくとらえているWIREDの評を、以下に引用する。
『ジェダイの復讐』以後何十年もの間、スター・ウォーズがもっていた素晴らしい点のすべては、わたしたちの記憶のなかだけに生きることを余儀なくされてきた。3つのお粗末な前編映画と、オリジナル映画のできそこないの「特別版」が、遺産を台無しにしてしまったのだ。バーンズ・エンド・ノーブルの全セクションを埋められるほどたくさんの書籍やコミックが物語を続けたが、それらは気が抜けたようなものだったし、レゴも役に立たなかった。(いやまあ、少しは役に立ったか)。
しかしようやく、J.J.エイブラムスと彼の率いるレジスタンスが、助けにきてくれた。スター・ウォーズが帰ってきた、のである。大いなる運命や惑星破壊兵器、銀河を夢見る若者たちと、戦う暗黒仮面の悪役が出てくる、あの本物のスター・ウォーズが帰ってきた。
(出典「【ネタバレ注意】新スター・ウォーズ『フォースの覚醒』レヴュー」)
僕自身のプリクエル3部作や「特別版」への評価は、こんなに低くはない。しかし、プリクエル1作目が公開された1999年当時を思い出しても「期待通りだ!」という感慨は無かった。
僕を含む多くのファンがプリクエルに期待していたのは「(当時の)最先端技術で描かれたスター・ウォーズの世界」だったと思う。シリーズ1作目「新たなる希望」が公開されたのは1978年。誰もが認める名作だけど、技術的な部分はどうしても色褪せる。ライトセーバーのデュエルだって、今にしてみれば、のんびり見える。それを最新のCGと演出技術で描きなおしたら、どれだけ凄いものになるんだろう? 多くのファンは、そんな思いを胸に劇場に向かった。事前に公開されたアミダラ女王やダース・モールの超絶にカッコいいビジュアルも、期待を高めに高めた。
だからこそ、スクリーンに映し出されたジャー・ジャー・ビンクスやひょろひょろのドロイドに、コレジャナイ感を拭えなかったのだ。
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「ジャー・ジャー・ビンクスは殺そうと思っていたよ!」
そう公言するファン気質のJ.J.エイブラムスも、同じように感じていたのだろう。当時のファンの不満を解消するという点では、「フォースの覚醒」で完ぺきな仕事をやってのけている。
フォースでビームをとめるカイロ・レン!
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湖面すれすれで水しぶきを上げるXウィング!
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IMAX撮影の大空を舞うミレニアム・ファルコン!
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「これが見たかったんだ!」と溜飲が下がる、最先端技術だからこそ描ける映像が次々と登場して飽きさせない。
絵的なカッコよさに合わせて、ドラマ面も現代的にアップデートされていたのも見逃せない。
序盤から登場する、血塗られたストーム・トルーパーのマスク。荒々しくブレるライトセーバー。ファンタジーではないリアルな暴力を描くというJ.J.から観客への宣言だ。
クローンという設定の都合のいいやられ役でしか無かったストーム・トルーパーは、少年兵という「本物の悪」に根ざした設定にアップデート。そのストーム・トルーパーの中身はアフリカ系で、主人公の1人を担う。さらに、もうひとりの主人公は女性だ。
「過去作のアップデート」と「現代ならではの挑戦」のベストバランス。新3部作の1作目としてこれ以上の仕上がりは無いのではと、今振り返っても思う。
しかし、続く2作目は難しい。「過去からのアップデート」が求められるのは1作目のみ。2作目からは「現代ならではの挑戦」だけでストーリーを構築しなくてはいけない。
この難題に、「最後のジェダイ」でメガホンをとったライアン・ジョンソンは、確かに向き合った。
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ライト・セーバーを投げ捨てるルーク。
マスクを破壊するカイロ・レン。
ジェダイの聖典を焼き払うヨーダ。
カイロ・レンの
「過去を葬れ。必要なら殺せ」
”Let the past die, kill it if you have to.”
というセリフに、作品のテーマが現れている。
「破壊無くして創造無し」
かつて橋本真也はそう言った。新しいサーガを続けるには、古いサーガを破壊しなてくてはいけない、というわけだ。
そうした「破壊」の中でも最大のものは、レイの両親を「ふつうの人」という設定にしたことだろう。旧3部作においてストーリーの最大の推進力となっていた「ルークの父親がダース・ベイダーだった」設定の完全破壊だ。
そもそも、ダース・ベイダーがルークの親だったという設定には、実は問題がある。どこにでもいる田舎の若者が銀河英雄になるまでを描いたのが旧3部作。ルークの冒険は世界中の「どこにでもいる若者」を大いに勇気づけた。しかし、ルークが英雄になれたのは凄い父親がいたから、という解釈をしてしまうと、全てが台無しになってしまう。
この矛盾はプリクエル3部作で「ミディクロリアン」という形で顕在化し、ファンを落胆させることになる。
新3部作の作り手達も、この問題を解決しなくてはいけないのは分かっていた。だから主人公には、レイとフィンという、どこにでもいそうな若者たちを設定した。スピンオフ作の「ローグ・ワン」では第1次デス・スター戦の影に隠れた、名もなき人々の活躍が描かれた。(ベン・メンデルソーンが、人生で成し遂げた最大の仕事を見つめながら死んでいく場面は何回観ても泣ける)レイの両親がふつうの人だったという設定も、理にかなっている。
しかし、旧サーガを破壊するあまり、第3作へと続く「ヒキ」までも破壊してしまっている感は否めない。
カイロ・レンがなぜダークサイドに墜ちたのか。スノークとは何者なのか。ファースト・オーダーとは何なのか。「フォースの覚醒」で、あれほど意味ありげにチラ見せした「レン騎士団」とは何なのか。
新3部作の根幹を成すはずの要素が、一切ストーリーで触れられないのは、やはり異常だ。
単体の映画としては「最後のジェダイ」は見応えのある作品だ。プレトリアン・ガードとの赤い空間での戦いや、クレイトに押し寄せた横並びのAT-M6の絶望感など、見どころも多い。しかし、3部作の2作目としては問題のある作品と言わざるを得ない。僕はそう思う。
この時点で3作目の監督は「すべてのヒキを失った中、サーガを完結させる」という無理ゲーを背負わされることになったのだ。
さらに制作上のトラブルが重なる。3作目の監督として、もともとジュラシック・ワールドのコリン・トレボロウが予定されていたものの、2017年9月に急遽、降板。(理由は色々と言われているがハッキリしない)その後、「最後のジェダイ」から引き続きライアン・ジョンソンが監督するプランが浮上したものの、スケジュールを理由にライアンが断っている。結局、J.J.が再登板したのは周知の通りだ。
3作目用に、コリン・トレボロウは大まかなストーリーを作っていたらしい。しかし、J.J.とともに「スカイウォーカーの夜明け」の脚本を手がけたクリス・テリオは「一切採用しなかった」と明言している。急遽参加することになった2人が、ゼロから脚本を書くハメになったわけだ。
キャリー・フィッシャーの死という不幸もあった。1,2作目のストーリーを考えれば、カイロ・レンとレイア姫の和解が、どう考えても3作目最大の見せ場になったはずなのだ。キャリー・フィッシャー自身も「3作目では、大きな見せ場がほしい。1ではハン・ソロが、2ではルークが物語の鍵になっていた。3作目はレイアの映画になっているべき」と言っていて、ディズニー側もそのつもりだったらしい。しかし、これは幻に終わってしまった。作劇上の大きな制約となったことは間違いない。
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しかし、2019年12月の公開日は動かせない。スケジュールは過酷を極めた。撮影現場に編集機材を持ち込み、撮影と同時並行で編集していたという。働き方改革と完全に逆行する恐怖の進行だ。
こうした不利な状況の中、J.J.はベストな仕事をしたことは認める。まがりなりにもシリーズを完結させること自体、彼以外には成し得なかったとも思う。
しかし、そうしたモロモロを差し引いても、「スカイウォーカーの夜明け」には看過できない問題が多い。
〜以下、完全ネタバレ仕様なのでご注意ください〜
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まず何はさておきパルパティーンだ。予告編でもフィーチャーされていた、パルパティーンの復活。ファンの多くは「死んだはずの皇帝が何で復活したんだ?」とワクワクしながら公開日を待ち望んだ。
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しかしフタを開けてみたらタイトルロールで「復活した」と触れられるだけで、あとは説明ゼロ。「ウソでしょ〜?」とズッコけたのは僕だけではないはずだ。
そもそも「フォースの覚醒」でも、旧3部作で倒したはずの帝国がなぜファースト・オーダーとして復活したのが全然分からなかった。全く同じ問題が完結編で繰り返されたわけだ。
パルパティーン役のイアン・マクダーミド自身も、次のように語っている。
「私は死んだ、と思っていました。ルーカスも「パルパティーンは死んだ。復活はない」と言ってましたからね。今回の再登場は、私にとってもサプライズだったんです」
(出典「IMDb」)
「フォースの覚醒」や「最後のジェダイ」にも、パルパティーンの復活を匂わせる伏線は用意されていない。どう考えても今回、後付けされた設定だ。
レイがパルパティーンの孫という設定も同様だ。孫というのはいいとして、レイの両親は何者なのか? ダークサイドのフォースの持ち主ではなかったのか? そもそもパルパティーンにパートナーがいたのか? 一切、明らかにされない。2作目で「ふつうの人の子」という種明かしをしておいて、「やっぱりパルパティーンの孫でした」というのは雑すぎる話運びだ。この問題について、J.J.エイブラムスはこう語っている。
“お前は何者でもない”というのが衝撃的であることはきちんと理解しています。けれども僕は、それ以上につらく、ショッキングなのは、“ありうるかぎり最悪の地点からやってきた”というものだと考えたんです。自分を形づくっているものの一部が、自分を怯えさせるものであり、自分の運命だったとしたら。そしてルークが言うように、血よりも強いものがあることを描くのが大切だったんです。」
(出典「THE RIVER」)
しかし「ありゆるかぎり最悪の地点からやってきた」というのは、ルークとアナキン親子を通して、旧3部作で済ませた話だ。「血で選ばれたエリートではなくても英雄になれる」という、新三部作以降のスター・ウォーズのテーマは、これで台無しになってしまった。
主人公達を描くことそっちのけで、新キャラが次々と登場することも問題だ。ゾーリやジャナなど、重要そうなバックストーリーを持っているものの、ほとんど印象に残らない。満を持して登場したレン騎士団は、目立った活躍もしないまま、改心したはずのカイロ・レンに皆殺しにされる。ライトサイドが元同僚をあっさり殺していいの? あんなに仲良さそうだったのに……。
前作の脇役たちの扱いはもっと悲惨だ。ローズがフィンに想いを寄せていたエピソードは無かったことにされ、フィンには同じアフリカ系の新恋人候補があてがわれる(これは本当に感じが悪い)。身の危険をかえりみず反乱軍の味方をしたハックス将軍は、あっさり殺される。ローズもハックス将軍も、大いに愛されるキャラクターになれるポテンシャルがあったのに実にもったいない。
ストーリー面では、本筋の進行に関係のない刹那的なエピソードの多さが目立つ。たとえば、惑星パサーナでレイ達と合流したものの、特に何もしないランド・カルリジアン。「えっ、秘密兵器を渡すとか、敵からかくまうとかしないの?」とツッコミを入れずにはいられない。記憶を消されたと思ったら、すぐに復活するC3PO。死んだと思ったら、生きてたチューバッカ。喧嘩したと思っていたら、イチャつきはじめるゾーリとダメロン。とても空虚だ。
あっちの惑星でアイテムを探し、こっちの惑星であの人に会い……といった、昔のRPGみたいな進行も気になる。(これは本作だけではなく、「フォースの覚醒」から続く問題だが)加えて、セリフでの説明が多いので、字幕を読むだけで一苦労だ。
それもこれも、全て「最後のジェダイ」で話がまったく進まなかったことが原因ではある。本来であれば2作目でパルパティーンの復活を描き、3作目で最終決戦を描くべきだった。脚本家のクリス・テリオも「パート1とパート2に分けられたら良かったのに、って本当に思いますよ。」と率直に語っている。(出典「THE RIVER」)
あまり肯定的なことを書いていないが、もちろん本作にも優れた点はある。
僕がもっとも感動したのは、「フォースで傷を癒やす」描写だ。結局、シスだけではなくジェダイも、フォースを戦争の道具にしか使ってこなかった。それが一点、命を救うことに使われる。実に感動的で、何より現代的な発想の転換だ。レイに命を救われたカイロ・レンが、母の自己犠牲とハン・ソロとの思い出を通して、ベンに戻る。大迫力のセーバー戦からの流れを含め、本作でもっとも胸を打つ場面だろう。
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フォースの「傷を治す」能力に焦点を当てれば、強引で足早な展開をチャラにできる感動の大団円を迎えることも、可能だったと思う。ファースト・ガンダムの最終回で、アムロがそれまで戦争にしか使えなかったニュータイプの能力を使って、愛する人々の命を救ったように。
しかしレイは結局、フォースでパルパティーンを殺すことを選んでしまう。パルパティーンもろとも取り巻きの信者(あいつら誰?)みたいなのも、皆殺しにする。これではシスと同じではないのか。フォースでパルパティーンの醜く歪んだ顔を治して、そして許してこそ、ジェダイではないのか。
旧作でもジェダイは結構、人を殺しまくってるが、観客は気づかないふりが出来た。しかし「フォースの覚醒」でストーム・トルーパーが血を流した瞬間から、そうはいかなくなった。中身は少年兵のストーム・トルーパーをレイ達が躊躇なく殺しまくる姿を、気持ち良く観ることは出来ない。フォースで心を操れば殺さずに済むはずなのに。(実際そうする場面もある)
レイがフォースで語りかけ、ストーム・トルーパー達がファースト・オーダーに反旗をひるがえす。そんな展開にすることも出来たのではないか。その反乱軍をフィンが率いれば、胸熱な名場面になったのではないか。
どうしてもアラ探しみたいな文章になってしまうのは、同様のテーマを、同じディズニー傘下のマーベルがほとんど完ぺきに扱っているからだ。
女性やマイノリティの活躍=「キャプテン・マーベル」「ブラックパンサー」
敵への許し=「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ 」
若手監督の起用=「ジョン・ワッツ」「ジェームス・ガン」
……などなど。比べるとどうしてもスター・ウォーズの失敗が目立ってしまう。
これは監督など現場の作り手ではなく、制作体制全体の問題であように思う。
ライアン・ジョンソンは「最後のジェダイ」の監督を引き受けた時点で、その後のストーリーが一切決まっていなかったことを明らかにしている。(出典「comicbook.com」)クリエーターの自主性重視……と言えなくもないが、あまりに行き当たりばったりだ。これでは迷走するのも無理はない。
ローレンス・カスダン、クリス・テリオなど、単体映画で実績のある脚本家を起用したことも、サーガに連続性を欠いた原因かもしれない。マーベルは長編TVシリーズの脚本家を起用することで、複数タイトルでストーリーをつなげることに成功している。
しかし、これだけ否定的なことを書いてきて矛盾しているようだが、僕は「スカイウォーカーの夜明け」をダメ映画だとは思っていない。傑作とか駄作とかいったレイヤーとは別で、新3部作通して劇場で観て「心から楽しかった」というのが、正直な感想だ。何より1作目から娘と観始めて、彼女がパパと映画を観てくれるうちにシリーズを完結してくれた制作陣には、心から感謝している。
「スカイウォーカーの夜明け」観賞後、娘は「最後、悪者を2本のセーバーでやっつけたのに感動したよ〜!」と大満足の様子だった。
子どもにこう言わせたら、映画は勝ちだ。僕のようないい年こいた映画オタクが「あそこは許すべきだ!」と批判したところで、何の意味もない。
彼女に「新たなる希望」を観せたところ、「つまらない」と言っていた。
理由は、
「男がスター・ウォーズの主役なんて変だよ。女の方が強いのに!」
……だそうだ。
世界中にこういう女の子が大勢いることを考えれば、新3部作は、大・大・大成功だ。僕のような旧世代がどう思おうと、どうでもいいのだ。
スター・ウォーズ新3部作を評するのは、これで最後にしようと思う。これは僕に向けられた物語ではない。今、2つの太陽を見つめている、子ども達のための物語なのだ。
フォースが、世界中の娘たち・息子たちとともにあらんことを。
・・・そろそろ「マンダロリアン」を観ないと。
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[イラスト]/清澤春香