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「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」にあるもの。それは驚きと共感の共存ではないか

はるちゃり! はるちゃり!


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3時間
そんな超大作にも関わらず、あっという間だった。

私「ねえ!!! やばかったね!!!」
友「うん!!! めっちゃよかった!!! すずさん可愛かった!!!」
私「あの場面さ〜」
友「うんうん! あの場面よかったよね〜。すずさん可愛かった〜」
私「よかったよね〜! 私はこの場面も好きだったよ〜」
友「分かる! 俺は結構あっちの場面も好きだったな〜! あと、すずさん可愛かった〜」

私「すずさんより、わ・た・し、でしょ!!!」
 
話しても話しても、話したいことが出てくる。驚きとか、共感とか、色んな感情を動かされた。“感動”という言葉だけでは表現しきれないこの感覚が温かいうちに、誰かに話したくなるような映画だった。

私は前作「この世界の片隅に」を観た直後も、衝動的にこの“感動”をぶつけた。


(2020年の目標は、伝え方の上達!)

伝え方はさておき、2作とも、その“感動”を誰かに伝えたくなる衝動に駆られた。

前作「この世界の片隅に」は制作資金をクラウドファンディングで集めた点でも話題となったが、上映はミニシアターを中心とした63館で小規模にスタートしたところから始まり、徐々にSNSの口コミで人気に火が付いた。その後上映劇場は400館以上にまで拡大し、興行収入は約27億円、異例のロングランヒットを記録した。キネマ旬報ベスト・テン1位をはじめ国内外で多くの賞を受賞し、「きみの名は。」「シン・ゴジラ」とともに2016年の代表作となった。

口コミで広がる、すなわち「人に伝えたくなる」ことには理由がある。

驚きと共感だ。
驚きだけでも、共感だけでも人に伝えたくなることはある。しかし、それら2つが合わさると人は強く心を動かされ、その分誰かと共有したい気持ちも強くなる。

「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」は、前作に250カット以上の新場面を追加し公開された。
この2作品における「驚き」は、戦争の悲惨さに対するものではない。また、新場面によって「共感」の深さが増すものとなっているのだが、仕事も食生活も常識さえも現代とはかけ離れた時代に「共感」するとは、一体どういうことだろうか。さらには、その延長にある目的はどのようなものなのか。

―ここから先はネタバレを含みます―

戦時下の人々が見る戦争と我々が見る戦争の違い(驚き)

前作と本作は、どちらも“戦争”を描く映画ではない。“人”を描く映画だ。今まで副次的にしか描かれなかった“名もなき人々”の戦時下の生活に主軸を置き、戦争の悲劇についてはサブ的な描写となっている。

戦時下の一般の人々についての映画といえば、「火垂るの墓」(1988)が有名だが、こちらは戦争によって両親を失った幼い兄妹がたどる過酷な運命を描いた作品だ。また「風が吹くとき」(1986)は、核戦争の恐ろしさを惨憺と描いたものだ。どちらも戦争の悲惨さが前面に押し出されている。

しかし、本2作品はすずという魅力的な人物を描くことが主軸であり、そこには戦争に対する強い批判は込められていない。あくまでも中立的な立場から戦時下の生活を描いている。

つつましい日々の中で、幸せを紡ぐ人々

のどかな陽気の中、家事の合間に、ふと思う。

「戦争はいつ起こるんやろうねぇ」



出典:「この世界の片隅に」映画.com

それは、生と死がすぐ近くにある感覚。
食糧の配給も日に日に乏しくなっているし、この生活がいずれ戦争に突入することは分かっている。
しかし、そんな不安定な状況の中でも、穏やかな日々に幸せを感じて生きる人々がいた。



出典:「この世界の片隅に」映画.com

昭和19年、日本は戦争の最中。
広島・呉の一家に嫁いだ女性・すずは、知らない土地での生活や戦時下の貧しい状況に困惑しつつも、持ち前のおおらかさで日々を慈しみ、笑顔で生きていた。

戦争時代の片隅に、我々と同じ“笑顔”で生きた人々がいた。

食糧配給が乏しくなり、生活が困窮してしまっても、すずの姿から苦しさや不満などは感じられない。それどころか、なんとか工夫を凝らして家族の食事を準備するその姿からは、生き生きとした遣り甲斐すら感じられる。



出典:「この世界の片隅に」映画.com

現代を生きる我々は、当時を「悲劇の時代」として見る。それは、戦争の結末を知っているがゆえにフィルターを通して見てしまうからだ。
しかし、空襲も食糧配給も日常だったのだ。当時の人々には“被害者”という意識もなければ、“死に向かって生きている”という感覚もない。
我々と同じように、ただ目の前の日々をより楽しむべく生きていた。

戦時下における彩りのある美しさ

この映画で描かれる戦争は、現代の我々が持っているそのイメージとは全く異なるものだ。

例えば、空中戦のシーン。
その空のカラフルな美しさに、思わず呟く。



出典:「この世界の片隅に」映画.com

「ウチが今、絵の具を持っていれば……ってなんてことを言ってるんやろ」

現代の我々がそのような発言をしたら、たちまち「不謹慎だ」と叩かれるだろう。
しかし、当時の人々は(少なくともすずは)それくらい穏やかな生活の中で、空を見上げていたのだ。

また、昭和20年、終戦を迎える年の春のこと。
広島の人々は空襲の合間に花見を楽しんでいた。家族や親しい仲間と宴で賑わうその様子は、食糧の豊かさの差はあれども、我々の春と何ら変わりない陽気で溢れている。

そこで友人・リンが、微笑みながらすずに伝える口紅のエピソードは印象的だ。



出典:「この世界の(さらいいくつもの)片隅に」映画.com

「空襲で焼け死んだら、顔が綺麗な人から早く埋葬してもらえるらしいよ」

「死」がすぐそばにあるのに、物語は温もりに満ちている。映画の随所で直面するギャップや感覚のズレに、幾度となく驚かされる。

すずの目を通して見た戦争時代は、豊かで美しい。
そんな当時の“美しさ”を、この映画を観るまで誰が想像していただろうか。この映画は、我々の戦時下の人々に対する認識を変える作品だ。

我々は時代を超えて普遍的なものに共感し、自身を重ねる(共感)

「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」で新たに追加されたシーンには、すずや遊郭で働く友人・リンの心情描写などが加わり、登場人物たちの心模様が深く描かれている。

いつの時代でも人は恋をし、人を愛する。自分の居場所を求める。
不思議なもので、そうした感情を伴う人間の葛藤や苦悩は全くと言っていいほど変わらない。 

人を愛することへの葛藤

前作では、すずが周作に対して「不安」や「嫉妬」のような感情を抱くはずもないように思えたが、新たなシーンが加わることによって、様々なピースがぼんやりと繋がることとなる。



出典:「この世界の片隅に」映画.com

すずは、夫・周作と友人・リンとの関係を疑ってしまうのだ。

不安な気持ち。(わかるよ……)
本当のことを知りたい気持ちと、知りたくない気持ち。(わかるよ……)
自分とリン比べて自信を無くしてしまう気持ち。(わかるよ……)
そして、自分の気持ちをうまく表現できないもどかしさ。(めちゃくちゃわかるよ!!!)

どんなに疑いの気持ちがあっても、感情的に夫を問い詰めないすずの姿に、自分自身を省みた人も多いだろう。(え? 私だけ?)

時代を超えて普遍的な感情が丁寧に描かれていることによって、我々は戦争時代という遠く隔たりのある時代に生きた人々に対して共感を抱き、自分自身を重ねてしまうのだ。



出典:「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」映画.com

わっ……私は全然重ねてないけどね!!!
(過去は過去……何が真実でも関係ない。知る必要もない。大切なのは今、目の前にいる人だから……それが全てだから……もう後ろを振り向かない……泣)

いつの時代も人は居場所を求める

人は皆、自分の居場所を見つけようとして生きている。

知らない男の人と結婚して、知らない土地に来て、知らない家族の中で主婦として生きる。すずは、嫁としての義務を果たすことで自分の居場所を見つけようとする。



出典:「この世界の片隅に」映画.com

しかし、なかなか上手くいかないことがあったり、期待に応えられなかったり、夫の気持ちすら疑ってしまう。ついには大切なものまで失ってしまうのだ。
彼女のすがるもののない不安は、計り知れない。

しかし、友人・リンに「絵を描いてほしいと」言われ、自分の中にある大切なものを認めてもらった喜びや、友達ができたことは、大きな心の拠り所となる。



出典:「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」映画.com

最初は“ひとりぼっち”だった世界を、すずはゆっくりと自分の居場所にしていった。

それは新たに開拓したというよりも、純粋な心で前向きに生き、周囲の人々を思いやり、日々を丁寧に紡いでいく中で、その場所を自分の居場所と認められるようになったのだ。

現代に生きる我々は、スマホ1つでいつでもどこでも人と繋がることができる。離れていても、LINEやSNSで交流できるし、無料通話でどれだけでも会話ができる。
しかし、多くの人々が、当時の人々以上に不安の中で生きているのではないだろうか。
どれだけ便利に繋がることができても、コミュニティに所属していても、他人と比較して承認欲求が満たされたとしても、何かが足りない気がする。そして自分の居場所が揺らがないように、あるいは安心できる確固たる居場所を探し求めて、疲弊する。

映画の中で、印象的な言葉がある。

「この世界に居場所はそうそうのうなりゃせんよ」



出典:「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」映画.com

本当に自分にとって大切な「居場所」はどこだろうか?

もしかして、まだ気づけていないだけかもしれない。

共感による戦争への警告

「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」で追加されたのは約39分間。残りの2時間9分は前作から全く変わっていないはずなのに、新しいカットが組み込まれることで既存のカットが新しい意味を帯び、全く別の映画となっている。そこにあるのは続編やオマケではなく、もう1つの完全版だ。
そのため前作を観ていない人でも楽しめ、前作を観た人はその変化に驚かされる。

片淵監督は、前作では主人公のすずと、その義理の姉となる径子をメインストーリーに置くことを決めていたという。そのため、本筋とは外れるリンのエピソードはバッサリとカットした。

監督は次のように語る。

「戦争中って本当はこんな時代で、こんな人が住んでいて、皆さんと同じように生活していたんですよ」という理解までが前作だったと思うんです。その部分をきちんと語ることができたからこそ……「そこに住んでいる人の心の中には、こんな葛藤があってね」というところに新たに踏み込んでいけるようになった気がしていて。前作を通じて、戦時中の時代も今の我々の時代と陸続きなんだ、と受け止めてもらえて、今作ではこんどはすずさんの心の中まで踏み込む。そこにあるものもまた我々が感じているものと共通した葛藤であったわけです。“自分が存在することに意味はあるのだろうか?”という。
https://anime.eiga.com/news/110156/2/

すずの葛藤や苦悩が加わったことで、それまでの“のほほんとした愛らしいキャラクター”が、より我々にとって身近な、実在する人物となった。そしてどこまでも“人間ドラマ”としているからこそ、我々は感情移入がしやすく、登場人物を苦しめる戦争のむごさを実感することとなる。

そこには、片淵監督の特別な想いが込められている。

政治的に中立となるように心がけた。声高に戦争反対という映画もつくれるが、そうした時点で、特定の戦争に限定されてしまう。見てもらって、戦争とはこういうことなんだと。どこにいても一般庶民が一番ひどい目にあうってことが伝わらないと意味がない.
https://globe.asahi.com/article/12970721

前作「この世界の片隅に」はアメリカや韓国、ベトナムやドイツなど46の国と地域で公開され、絶賛された。戦争のむごさを直接的に描かず、特定のものを非難せずして戦争の愚かさを伝える手法により、人類史的な悲劇として海外の人々の心にも届いたのだ。

米国のカリフォルニア大ロサンゼルス校(UCLA)での上映後、20代の学生が片渕監督に近寄り、「これは僕の子どものころの戦争とよく似ています」と言ったという。
イランからの留学生だった。https://globe.asahi.com/article/12970721

先日、米軍が空爆によりイランの国民的英雄とされる精鋭部隊の司令官を殺害した。
そして、イランは報復としてイラクに駐在するアメリカ人の拠点を弾道ミサイルで攻撃した。

繰り返してはならない過去がある。
しかし、世界では今もなお、紛争が繰り返されている。戦争はすぐそこに迫っている。

戦争に対する「NO」を、これだけ穏やかに、且つ、これだけ多くの人々の心に届けた「この世界の片隅に」は、まさに唯一無二の偉業である。
今回の「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」もまた、日本だけではなく世界にはばたいてほしいと切に願う。


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[イラスト]清澤春香

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