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「殺さない彼と死なない彼女」は自己肯定感を上げるためのバイブルだ

みる兄さん みる兄さん


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久しぶりに、高校生が主人公の映画を観た。

「殺さない彼氏と死なない彼女」は漫画家・世紀末さんがツイッターに投稿していた4コママンガが原作の映画だ。眩しいくらい純な演技をする、3組6人のエピソードが展開される物語だった。



出典:映画.com

3組の物語は並列で描かれている。1組目はぶっきらぼうな留年生の小坂れい(間宮祥太朗)と、自傷グセがある鹿野なな(桜井日名子)のエピソード。2組目は、依存心が強く男性にモテることに執念を持つきゃぴ子(堀田真由)と、幼稚園時代からきゃぴ子のそばにいる地味子(恒松祐里)のエピソード。3組目は、会うたびに「好き!」と告白する純粋無垢な撫子ちゃん(箭内夢菜)とそれを恥ずかしそうに拒否する八千代くん(ゆうたろう)のエピソード。



出典:映画.com



出典:映画.com

この映画には、「自己肯定感」とどう向き合っていけばよいのか? の問いに対する答えがあった。

「自己肯定感」とは、「自分のあり方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する言葉」と定義されている。

1995年に高垣 忠一郎氏が書いた『子どもの個性と自己肯定感』(個性と教育改革<特集>)で論じられたのが起源とも言われている。論文が書かれた当時は、「自己肯定感」は若者特有の心理的状態のことを指していたようだが、近年になって世代を問わず使われている。

なぜ、最近この言葉をよく聞くのか?

GoogleTrendで「自己肯定感」の検索ボリュームを調べてみると、2011年から増加の兆しがあり、2016年から顕著に増えていた。おそらく、2011年の要因は震災の影響と考えられる。また、2016年から増加したきっかけは、ここ2、3年で格差が広まり始めていることが要因かもしれない。政府の教育再生実行会議の新たなテーマの1つとして、「自己肯定感」が公に議論され始めたのも2016年のころからである。



出典:映画.com

「殺さない彼と死なない彼女」にはそんな「自己肯定感」について考えさせられる象徴的なシーンがある。

始めて小坂と鹿野が出会う場面だ。鹿野は死んだ蜂をゴミ箱から取り出し、土に埋葬したあと「死にたい」とつぶやいた。生き物を大切にしているのに、今の自分を卑下して発した言葉だった。

心が不安定な鹿野とぶっきらぼうな小坂は、

鹿野「死にたい」
小坂「殺すぞ」
鹿野「死んだらどうする?」

と会話を交わしていた。

それなりに大人になってしまった僕からすると、「殺すぞ」や「死にたい」を軽く使う彼女らに、強い違和感を持った。しかし、作品の中盤を過ぎると「殺すぞ」「死にたい」の掛け合いが、2人の間では大切なコミュニケーション手段ということが伝わってきた。



出典:映画.com

小坂と鹿野が発する「殺すぞ」「死にたい」は、言葉遊びではなく、自分の心のモヤモヤをあえて刺激の強い言葉で発することで、「私の(俺の)言葉に、ちゃんと反応をしてくれてる?」と反響を求めた上での行動だったと思う。



出典:映画.com

ぶっきらぼうな小坂の精一杯の感情表現からも、お互いを必要としている様子が伝わってくる。

鹿野「私が死んだら何か変わるかな?」
小坂「世界は変わらないかもしれないけど、俺はちょっと変わるかな。この俺を変えられるなんて、お前凄いな」

遠回りすぎる愛の表現なのだが、小坂らしさが伝わる言葉だった。



出典:映画.com

2組目のエピソードでは、きゃぴ子と地味子、女子2人の友人関係が描かれている。

「きゃぴ子は1人でも大丈夫だよね」と母から言われてきた反動で、寂しさを埋めるために異性に執着する。自分がモテることを謙遜することなく、惚気話をする。そんなきゃぴ子をそばで地味子はずっと見守っている。

信頼しているから気を遣わずに惚気話ができるし、頼られているとわかっているから惚気話に付き合う。
2人の関係性を見ていると、素直な感情を発せられる相手がいることの尊さを感じる。

3組目の撫子ちゃんと八千代君のラストシーンは、幾度となく発していた撫子ちゃんの「好き」が実を結ぶ。3組のエピソードの中では一番幸福度が高い話だった。小坂と鹿野の「殺すぞ」「死にたい」の中から見え隠れする恋愛感情とは異なり、直球過ぎるが全然届かなかった「好き」の言葉が成就するシーンは涙腺にくる。

「自己肯定感を上げる」には、他人をほめることや好きなことに打ち込むことが解決につながるとされている。
しかし小坂と鹿野のように、ありのままの言葉で気兼ねなく言える相手がいることの方が、
「自己肯定感」を上げるきっかけになると感じた。

映画から得られた「自己肯定感」についての考察を友人知人に話すと大きな共感が得られた。「自信」と「自己肯定感」は異なっていて、「自信」は自らが能動的に動く際の心理状態を表す。一方、「自己肯定感」はありのままの状態を受け入れられるか否かの心理状態である。

他人をほめることや好きなことに打ち込むことで得られるのは、「自信」に近いのではないだろうか? 



出典:映画.com



出典:映画.com

この作品を鑑賞した後、ふと、自分の中学生時代を思い出した。大人になってからもたまに会う友人なのだが、彼は僕の家にきて無言でマンガを読んで帰る。その横で僕は1人でゲームをしている。会話と言えば、お互いに今日あったこと、クラスメイトの愚痴などを一方的に話す。聞いてる方は「ふーん」と気のない返事をするだけだった。不思議な間柄だったが、思春期に自分の心情を吐き出せる人が側にいた。

今思えば、彼が僕の「自己肯定感」を保つ存在だったのかもしれない。

「殺さない彼と死なない彼女」に出てきた演者は、原作マンガのキャラクターを忠実に表現していた。小坂を演じる間宮祥太朗は、留年した影のあるイケメンとしてハマり役だった。鹿野を演じる桜井日菜子は、自傷グセのある不安定な感情の起伏をとても上手く表現していた。

きゃぴ子を演じるを堀田真由は、ぶりっ子(表現古い)でモテているけど、全く気持ちが満たされていない空っぽな女の子の雰囲気上手く醸し出していた。地味子を演じる恒松祐里は、美形ゆえの派手さを上手く消して、地味に見せているところが良かった。八千代くんを演じたゆうたろうは、文系イケメンのかわいらしさを出し、役柄にぴったりだった。

6人の演者の中では、撫子ちゃんの箭内夢菜が最高に良かった。男性でも女性でも好感度が高い演技で推し女優になってしまうくらい素敵だった。



出典:映画.com

6人の演者と監督はかなり細かい部分まで、演技を詰めながら進めていたらしい。

6人それぞれが生活している部屋が出てくるのだが、細かいディティールまで作りこまれていて見どころになっていた。ぶっきらぼうな小坂の部屋は雑然とした今っぽい男子高校性ならではの部屋。鹿野の部屋は、冒頭の死んだ蜂を埋葬するエピソードにも通じるように、動物の人形が置いてある。きゃぴ子の部屋は寂しさを紛らわせるための小物が所狭しと置かれている。地味子と八千代君の部屋は、2人の性格を表すような落ち着いた和室。撫子はおしとやかな雰囲気にちょうど合う農家の家。

それぞれ、言葉使いや仕草に合わせた世界観が部屋の細部まで表現されていて、登場人物へ愛着がわいてくる要素になっていた。

ここまで、この映画を鑑賞して感じた考察を書いてきたのだが、高校時代をはるか昔に通り過ぎた僕にふつふつと湧いてきた感情がある。

それは3組のエピソードが、「ただしイケメン(美女)にかぎる」としか受け入れられなかったということだ。



出典:映画.com

死にたいとリストカットする鹿野に、小坂が心が惹かれていく。「殺すぞ」という小坂に鹿野が心を開いていく。会うたび会うたびに告白してくる撫子ちゃんに、八千代君が惹かれていく。何度八千代君にフラれても撫子ちゃんが告白を続ける。

全部、「ただしイケメン(美女)に限る」だよなと冷静に捉えてしまった。

自分の感情を伝えること尊さを描いた「自己肯定感」のバイブルのような映画だったのに、真正面から受け止めきれず、少しうがった視点でこの映画をみてしまった。コラムを書きながら、僕の「自己肯定感」はすっかり下がってしまった。これは作品が……というより僕自身の問題である。

とはいえ、3組それぞれのエピソードは感情を揺さぶられる場面も多く、後半にかけてアッと驚く伏線回収をするなど、随所に見どころの多い映画だった。映画館で観ていた人たちの多くが声を上げて泣いていた。

「自己肯定感が低いかも」と悩んでいる人は、この映画を観て、身近にいる人に感想を言葉にしてみると良い。そんなあなたを受け入れてくれる人がいるのであれば、それが「自己肯定感」を高めるきっかけになると思う。


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[イラスト]ダニエル

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