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「命みじかし、恋せよ乙女」において、樹木希林は自らの最後を15分にかけた

はるちゃり! はるちゃり!


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今回「命みじかし、恋せよ乙女」を観るに至った経緯は、“ジャケ買い”ならぬ“ポス買い”である。

ご覧の通り、樹木希林をメインにとらえている本作のポスターを一目見て、私は即決した。



出典:映画.com

「人生は、本当の自分に戻る旅」

「樹木希林、遺作にして世界デビュー作」

樹木希林とこのコピーを見て本作を観ることにした私は

「物語ではきっと♥樹木希林の偉大な言葉が要所要所で登場しっ♥
人生に悩む我々の背中をっ♥そーっと支えてくれたような♥気持ちになれるんだ……♥♥♥」

と、思っていましたよ!

そしていざ映画館。上映が始まり、樹木希林の登場を今か今かと期待して待ったのだが……

……あれ?

「全ーーー然、希林さん出てこない!!」

それどころか、主人公が酒におぼれて苦しむシーンや、お化けなんかが出てきちゃったり。

「なんじゃこりゃ! めっちゃ怖い!! 思ってたのと違ーーーう!!!」
(私、基本的にハッピーな映画しか観ない主義。波乱万丈は私生活で十分)

てな感じで。

最終的に、本作において樹木希林の言葉は非常に重要な役割を果たした。しかし彼女が登場したのは後半の15分ほど。さらに映画の内容についてはというと「物語の全体像は分かるが細かな展開に対しては理解し辛い点が多い」というのが本音。

観終わった時に思わず「え……よく分からなかった」と呟いてしまったほどだ。

……だが、それもそのはず。ポスターからしか前情報を得ていなかった私には当然だ。
なぜなら、本作は2008年にドイツ映画賞銀賞を受賞した「HANAMI」の続編として作られた映画だからである。

そのため今回は、私と同じように「よく分からない」という感想を抱いた方や、これから本作を観ようと考えている方にぜひ知っていただきたい内容を以下に記載する。

「HANAMI」と「命みじかし、恋せよ乙女」で一つの物語が完成する

公式ではないが、ドーリス・デリエ監督の「命みじかし、恋せよ乙女」は同監督による「HANAMI」(2008年)の続編だと世間では言われている。つまり「HANAMI」を知れば「命みじかし、恋せよ乙女」は100倍面白くなる……ということ!?

と、いうことで、まずはそれぞれのあらすじから。

・・・HANAMI・・・
妻トゥルーディは夫ルディが末期状態の病に冒されていることを医師から宣告される。誰にも言わず自分の胸に留めるが、妻の方が先に急死してしまう。悲しみに沈むルディは亡き妻の洋服をスーツケースに詰め、東京で働く息子カールのもとを訪れるが、カールは仕事に忙しく冷たくあしらってしまう。亡き妻の服を身に着けて東京を彷徨うルディは、ある日公園で18歳の少女ユウ(入月絢)と出会う。ルディは妻が一度見てみたかったという富士山を訪れるためにユウに案内を頼むが、向かう途中でルディの健康状態が悪化し、湖畔で息絶える。息子カールとユウはルディを荼毘に付し遺骨を骨壷に納め、二人は東京で別れる。



出典:あいち国際女性映画祭2011 公式HP

・・・命みじかし、恋せよ乙女・・・
父ルディが亡くなってから約10年。ドイツ・ミュンヘンで一人暮らしをするカールは酒に溺れ、仕事を失い、妻は幼い娘を連れて家を出てしまった。孤独に苦しみ、泥酔の末に「モノノケ」を見るようになるカール。そんなある日、彼のもとをユウが訪れる。亡きルディの墓と彼の生前の家を見に来たのだと言う。しぶしぶ彼女に付き合うカールは、次第にユウに惹かれていく。そんな中突然ユウが姿を消す。カールはをユウを探すために日本を訪れる。彼女の幻想を追う毎日を過ごす中で、彼女や理想の自分から離れ、新たな人生を歩むことを決意する。



出典:映画.com

こうして一連の流れを見ると、私が本作に対し感じた多くの疑問が解決する。それは、続編であるために共通の登場人物・背景であることはもちろんだが、2つの作品を対比することで、本作の奥深くに触れられたような気がしたからだ。

「HANAMI」と「命みじかし、恋せよ乙女」が伝えたかったメッセージとは

以下では2作品を同一の視点で対比しながら見ていくことにする。

家族という共同体の苦悩

「HANAMI」では、大人になった子どもたちに冷たくあしらわれる親の切なさが描かれている。一方「命みじかし、恋せよ乙女」では、厳しい親のもとで育ち、親の期待に応えられなかった子どもの苦悩が描かれている。片方だけを観るとどちらか一方が酷いように感じてしまうが、両方を観ることで初めてそれぞれの苦悩が分かり、「家族」という共同体の難しさを目の当たりにする。

「幸せとは何か」-誰もが幾度となく心に抱く疑問。

愛することの難しさや、喪失の悲しみを乗り越える過程を通して、「幸せとは何か」今一度考えさせられるものとなっている。

亡き人への感情の表現

デリエ監督は「HANAMI」と「命みじかし、恋せよ乙女」において、亡き人へのやり場のない感情を“その衣服を身にまとい、憧れていた土地に行ったり、その故郷を訪れたりする”という行動で表す。亡き人の面影を何かに投影したい、何かを取り戻したいという感情は、誰もが普遍的に持っている自然な感情なのである。



出典:映画.com

内面的な表現を尊重する表現主義舞踊

この2作品において「舞踏」のシーンは外せない。日本人のユウが舞うその独特の雰囲気からは恐ろしさや不安を感じ、まるで私たちの心さえも見透かされているような、奇妙な感覚に襲われる。
「舞踏」については、現在は様々な解釈が存在するため言葉でその特徴を明確に定義することは非常に困難だが、その始まりは1960年代に土方巽が西洋舞踊の真似ではない真に日本的なダンスの創生を目指したものだと言われている。一般にダンスのことを舞踏と呼ぶ人もいるが、日本のダンスの世界ではダンスのことを「舞踊(明治時代に作られた語)」と呼ぶ。舞踏は常に大地を相手と考え、低姿勢でリズムにとらわれない点が特徴だが、いわゆるダンスのような動きに対する型は存在せず、精神的な面でのみ型に近いものが存在するという。一般的には剃髪、白塗りのイメージが強い。
舞踏の成立に大きな影響を与えたものの一つにドイツの新舞踏「ノイエ・タンツ」がある。「ノイエ・タンツ」とは第1次世界大戦後ドイツに起こった新しい舞踊であり、形式的な古典の技法を排して、内面的な表現を尊重し、その思想に現代性を求める表現主義舞踊である。

父ルディ、息子カール、そしてユウも、決して言葉が巧みではなくむしろ不器用である。そのような人物たちはあまり言葉で感情を表現することはないが、心の中では感情が渦巻いている。デリエ監督が感情を表現する場面において、全身でその感情を表現する「舞踏」のようなダンスを使用したことにも納得できる。

現実に隣り合わせた幽玄な世界

「命みじかし、恋せよ乙女」の物語の背景には、ドイツの“デーモン”と日本の“幽霊”がテーマとして存在している。デリエ監督は長きにわたり幽霊や妖怪、怪談について学び、その中で「日独の亡霊の物語を紡ぎたい」と思ったそうだ。そこには溝口健二監督の「雨月物語」(1953年)や松本俊夫監督の「修羅」(1971年)といった日本映画の傑作の影響もあるという。
デリエ監督が興味を持つのは、「ホーンテッドマンション」に出てくるようなゴーストではなく、人を苦しめて追い詰める、心に巣食う個人的な幽霊であり、夜中に人を目覚めさせ、胸の上にのしかかる亡霊だという。人々は皆、「記憶」という「幽霊」とともに生きている。(参照:「命みじかし、恋せよ乙女」公式HP)

デリエ監督は次のように語る。

私は、現実と夢と想像を同等に並べて見ることを日本で学びました。私たちの頭の中では常に様々なことが起こっていますが、西洋では証明可能な事柄だけを現実と呼ぶのです。私は冷静な北ドイツ気質で、科学的な教育を受けて育ちましたが、でも「フクシマ・モナムール」の撮影中、これはもしかすると定義の問題に過ぎないのではないかと気づいたのです。記憶を「幽霊」と呼ぶとしたら、当然私は常に幽霊とともに生きています。

「命みじかし、恋せよ乙女」公式HP

愛する人と新たな自分を探しに日本を訪れる

「HANAMI」では父ルディが妻の夢に触れるため日本を訪れ、本作では息子カールがユウを探すために日本を訪れる。そして共に、その過程を経て“新たな自分”を見つけることとなる。人はいくつになっても-たとえ親になったとしても-決して完璧ではない。周囲の環境や出来事によって良くも悪くも変化していくものであり、自分という存在を常に探し続けている。むしろ自分を探し続けることこそ人生であり、それを諦めることは死を意味する。

父ルディも、息子カールも、「人生という本当の自分に戻る旅」の案内人は“愛する人”だったのだ。

樹木希林の「遺作」として

では最後に本作「命みじかし、恋せよ乙女」を樹木希林の遺作としてもう一度振り返る。

本作を指揮した、ドーリス・デリエ監督はドイツで最も成功した監督の一人とされている。彼女は30余年の間に30回以上も日本を訪れ、「フクシマ・モナムール」(2016年)をはじめとする5本の映画を撮影するなど、こよなく日本を愛する監督でもある。そして、今回長年にわたって憧れてやまない女優・樹木希林にあてた役を自らの手で書き上げて出演をオファーし、樹木がこれを快諾した。(参照:「命みじかし、恋せよ乙女」公式HP)

映画撮影当時、樹木希林はガンの末期だった。これは推測ではあるが、全身に転移したガンによる痛みや薬の副作用などは、私たちが想像を絶するほどの苦痛であり、立っているのもやっとであろう。実際映画の中の樹木希林は痩せこけ、声量も小さく、杖を使い何とか歩いている様子だった。冒頭に述べたように、正直なところ本作を初めて観たときは私の期待とは大きくズレていた。しかし彼女が演じた15分には、深く惹き込まれる強さがあった。

樹木希林の出演シーンは彼女が亡くなる2ヶ月前の7月から始まった。
私が最も印象深く感じたシーンが二つある。

一つは、カールに対し「あなた、生きてるんだから、幸せになんなきゃダメね」とさりげなく背中を押すシーンだ。そこでは多くの人が心を打たれたことだろう。



出典:映画.com

誰にでも、不安に思う時がある。自分は幸せになれるんだろうか。このまま一生が終わるのではないのだろうかと。でも「まだ生きてるんだから。まだいくらだって可能性があるんだから。自分にとって本当に大切なこと、幸せになりたいと思うことを、諦めてはいけない」そう言われている気がした。それは濃い人生を生きた樹木希林の言葉だからこそ説得力があり、自分の死を間近に感じている彼女から発せられた言葉だからこそ、深みが増した。

もう一つは、樹木希林が庭を眺めながら「ゴンドラの唄」を歌うシーンである。その歌詞は「命みじかし恋せよ乙女 朱き唇褪せぬ間に 赤き血潮の冷えぬ間に 明日の月日はないものを」というものだ。
弱々しい声の中にも強い思いが感じられ、彼女が亡くなった今となっては、最後まで生き抜く意志が歌に込められているようで、その歌声に心が震えた。そしてこの場面は、彼女が女優として映画に出演する最後のシーンとなった。



出典:映画.com

デリエ監督は言う。

愛、喪失、家族、生きる事の美しさと残酷さを描いた本作において、この樹木希林の歌は、まるで彼女が私たちに遺してくれた最後のメッセージのようだった。
「命みじかし、恋せよ乙女」公式HP

公式ホームページのCASTを見ると、メインとなる5人のうち樹木希林だけ「ユウの祖母」と紹介されており、個別の名前がない。つまり、彼女は映画の中で“役”を演じていなかった。登場人物である「ユウの祖母」は樹木希林、本人そのものだったのだ。

確かに樹木希林の登場シーンは非常に短いものだった。しかしどのシーンも彼女だからこそ描けたものであり、それは彼女の集大成が「命みじかし、恋せよ乙女」に集約されていると感じるものであった。


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