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「細い目」今だからこそ観るべき映画とは口が裂けても言わない。2000年後も観られるべき映画である

加藤広大 加藤広大


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2019年もそろそろ夏に差し掛かります(これを書いているのは7月24日で、東京はそろそろ梅雨明けの雰囲気ですが、まだまだ湿気が多くて蒸し暑く、思わず苛立ってしまいそうな気候です)。

現在の私から、本映画評をお読みくださっている未来のあなたに訊きますが、今年の夏はどうですかね? 楽しく過ごしていますか? 明るいニュースはありましたか? 辛い出来事はありましたか? 悲しい事件はありましたか? あいも変わらず誰かと誰かが罵り合っていますか?

あなたがもし、今夏を楽しく、明るく、辛く、悲しく、何かに悩んで、苛立ち、喪失を抱え、つまり、普通の生活をしているのならば、おすすめの映画があります。

「細い目」という2004年の作品なのですが、監督であるヤスミン・アフマドの没後10周年ということで、7月20日〜8月23日までの期間、渋谷のイメージフォーラムで彼女の遺した6作品がかかっています。

今回は、この「細い目」について、文章を常体に変えつつ、いろいろと書いていきます。

「細い目」は初恋を描く。オープニングクレジットまでに、大切なことはすべて提示される

細い目サブ3

盆の上に無造作に置かれたコップの下に敷かれた新聞紙。古いミシン台に置かれた衣服とカラフルなボビン。ツインリバーブのような形をしたラジオの横では、扇風機が生ぬるそうな空気を循環させている。

至るところに染みのついた壁紙は、数々のガジェットとともに、強烈な「昭和感」つまり既視感と郷愁を漂わせる。カメラはゆっくりと平行移動しながら、ビーチベッドに横になる母の傍らで、少年が詩を朗読する姿を映し出している。

「この詩、すごく良いわね。作者は誰? 大陸の中国人?」

母は息子に尋ね、彼は答える。

「インドの人さ。誰かが翻訳したんだ」

「インドの人なの。不思議ね。文化も言葉も違うのに、心のうちが伝わってくる」

シーンは切り替わり、純白の礼拝着を纏ったムスリムの少女が映し出される。彼女は祈りを済ませると台座を片付け、軽く裾を引き上げて透き通るような踝を見せ、ドレッサーの扉を開けて洋服を選ぶ。扉の裏には、金城武の写真の切り抜きがいくつも貼られている。

「オーキッド! ご飯よ!」

階下から名前を呼ぶ声が聞こえる。

彼女は「今行くわ!」と答え、完璧なタイミングでオープニングクレジットがはじまる。まず、この鮮やかな手つきが素晴らしい。

いきなり結論を書くが「文化も言葉も違うのに、心のうちが伝わってくる」これが本作「細い目」のすべてだ。

一応、予備知識として書いておくならば、本作の舞台であるマレーシアに居住している人々は、ほとんどがマレー人(69%)、華人(23%)、インド人(7%)で構成されている。

本作が作られた00年代初頭のマレーシアでは、マレー人しか出演しない映画が多く、インド系はインドの映画に、華人は中国系の映画に出演するのが常識であったのだが、ヤスミン・アフマドはこれを打ち破り、マレー系の少女と華人の少年のラブストーリーを描いた。

上述したように冒頭では、インド人の詩を翻訳した本を中国系の母子が読み、マレー系の少女が祈りの時間を終えてお洒落をする。ヤスミンはわずか5分足らずで登場する人物や民族、宗教などを提示してみせる。とてつもない。

で、ものすっごい簡潔に言い切ってしまうと、「細い目」は華人の少年ジェイソン(ン・チューセン)と、マレー系の少女オーキッド(シャリファ・アマニ)が出会って恋に落ちる「初恋」の物語である。

ジェイソンは半身不随になった父の代打として、街の露天で海賊版DVD(VCD)を売りさばいて家族を支えている。オーキッドは苦労人の彼とは対象的に、理解ある両親のもと伸び伸びと育った快活で利発な少女だ。

オーキッドはジェイソンの店に金城武出演映画の海賊版を求めて訪れる。2人はまるで少女漫画のようなエフェクトをかけられた映像とともに、一瞬で恋に落ちる。

序盤は少女漫画的展開(少女漫画と書くと語弊があるかもしれないので、「よくあるラブストーリー的展開」程度に捉えてください)で進んでいく。

ここから先は1文字たりともネタバレできないので、ちょっと映画の周辺を回りますと

細い目サブ4
2人はデートを重ねて、距離を縮めていく。途中、多くの物語と同じく恋路に障害が立ちはだかるのだが、これ以上のネタバレは避ける。本作は(当たり前だが)結末を知らずに観たほうが面白いし、何ならマレーシアに対しての予備知識も必要ない。

とくにマレーシア云々については、観てから知ったほうが楽しい可能性まである。鑑賞後にいろいろと調べてみれば、きっと作品を立体的に捉えることができるだろう。そして、「状況と結末を知ってしまった」2回目の鑑賞時に、凄まじい感動をもたらすはずだ。機会があればぜひ2回観て欲しい。受ける印象がまったく違う。

話を戻して、冒頭と簡単な構造以上を語ることはせず、以下、本作を含めたヤスミン作品の優れている点について触れていくことにする。

ヤスミン・アフマド作品の登場人物は、誰しもが人生を楽しみ、悲しみ、喪失があり、家族や友人、自分自身に対してなど何らかの問題を抱えている。つまり、私やあなたと同じ普通の人が、ただ生きている。

「細い目」もまさにそうで「普通の人」が画面に映し出され続けることとなる。だが、それがかったるいかというと全く違う。普通の人(の人生)は時として、「こんなの物語のプロットとして使ったら編集からボツくらっちゃうでしょ」と言われてしまうほど、面白く、荒唐無稽で理不尽な物語を生む可能性がある。

自覚的か無自覚的かはさておき、このような「普通の人」を安定して描けるのがヤスミン・アフマドで、要は余計な演出は一切しないし、必要以上にカリカチュアライズもしない。彼女はリハーサルに数ヶ月かけ、撮影はほぼワンカットで終わらせるそうだが、その手法も普通の人を演出するのに一役買っているはずだ。

そして、ヤスミンは登場人物の老若男女・民族・宗教を問わず、全員をフラットに扱い、放っておかない。悪い奴らにも(少なくとも「細い目」においては)映画的な裁きをくだすことはない。

要は、どんな奴であろうと「冷めた目」で見ることがない。だからこそ、登場人物は全員が生きていて、無駄な顔などひとつもない。これらの扱いも、また普通の人の物語を映画として成立させることに役立っている。

「普通」で「自然」なヤスミン作品だが、もちろん映画的な要素は多分に盛り込まれている。映画なんだから当たり前だと言われればその通りなのだが、その配分が絶妙で、ストーリーテリングがマジで上手い。

彼女の演出は抑制が効いており、自身が「伝えたいこと」に萌えていないので押し付けがましくない。本作だけでなく、ほぼすべての作品を通して扱っているテーマは非常に重いが、強い言葉などひとつも使わず、扇動することもなく、常に中立的な立場で、スクリーンに「世界」を投影してみせる。

彼女は世界を捉える独特の「眼差し」みたいなものを持っていて、その視座がオリジナリティを担保する。映画監督は誰でもそうだろうが、ヤスミンの視座は、とくに母性が感じられる。この母性もまた、彼女の強烈なオリジナリティであると同時に、観る者の胸を打つようなサウダーヂを生じさせる原動力にもなっている。

通底する「嫌な予感」と情け容赦のない喪失

細い目サブ1
本作が凡百のラブストーリーものと決定的に違うのは、笑えるシーンや幸せ絶頂のなかでもどこか薄暗い、ノワール感のようなものが通底している点で、いわゆる「嫌な予感」が全編を通して立ちこめている。

この「当たったら嫌な予感」は、トーストを床に落とすとバターを塗った面が下になる例の法則がごとく、大体当たってしまう。ときには、想像しているよりも遥かに最悪な出来事が起こる。もちろん、映画だけでなく、人生においても嫌な予感は当たる。何なら映画よりも奇妙で理不尽なことが起きるのが人生だ。そしてそれは、すべての人に起こりうる。

正直なところ、ヤスミンはほんとうに「優しい」映画を撮った人だが、実は「嫌な予感」を描かせたらキャスリン・ビグローよりも上手いと思う。

1文字もネタバレできないと書きつつ、今からちょっとだけバラすというか漏らすので、神経質な方は3行くらい飛ばしてもらいたいのだが、「細い目」でも、まるでエドワード・ヤンの「台北ストーリー」レベルで嫌な予感が当たるし、強烈な喪失が起きる。だが、本作でヤスミンが仕掛けた情け容赦ない喪失は、幸福な瞬間と寄り添っている完璧な悲劇で、ある種の「映画的な」美しさすらある。

ヤスミンは一見優しいが、それだけではない。恐ろしいほどの厳しさをもっている人で、彼女の最高傑作と言ってもいい「タレンタイム〜優しい歌」でも実在の事件をもとにして、一工夫凝らした悲劇と喪失を描き出してみせている。

「タレンタイム〜優しい歌」は音楽青春映画の最高峰といってもいいが、高校生を中心とした牧歌的な物語にも、とてつもない喪失を挟み込んでくる。誤解を恐れず表現するならば、彼女には上質なタチの悪さがある。しかも映画自体は明るく楽しいもんだから、真逆の要素が飛び出してきた時の衝撃はデカい。

ヤスミンは喪失や悲しい出来事を決して大袈裟に表現しない。まるで手練の暗殺者が音もなく「仕事」をして闇に消えてしまうように余裕綽々でやってのける。流れるような手つきで行われる仕事はいい仕事である。そして、いい仕事は何より美しい。

だからこそ、え? こんなんでいいの? と思う人もいるかも知れないのだが、そんなことより

細い目メイン
本作はウェルメイドで心温まる、初恋の記憶を呼び覚ましてくれるような作品であり、幸福と悲劇は表裏一体であることを教えてくれる。

のだが、ヤスミン・アフマドファンや、この手の映画が好きな人(慣れている人)以外の方が観て大満足して帰れるかというと、少しだけ心配になる。別に映画リテラシーが高くないと楽しめないなんてバカみたいなことを言ってるのではなく、マレーシア料理が好きだ嫌いだみたいなもんで、と書くとさらに語弊があるような気もするが、口に合う、合わないは少々あるだろう。

私は本作のネットにおける評価は(意識的に)見ていないが、星の数を少なくつけた人々からは、以下のような意見が出ているであろうことは想像に難くない。

「設定がベタ」「なんでいきなり恋に落ちるのかわからない」「感情移入できない」「中華系とマレー系とかの説明がなくて、いろいろ端折られてる気がする」「全体的に物足りない」「結末に納得がいかない」「なんか上辺だけの感動モノ」もしかしたら「昔っぽい映画みたいでなんかイヤ」と言っている人もいるかも知れない。

念のために書くが、上記の反応は全く問題ないし「お前さん、この映画がわかってないんだな」なんて毛ほども思わない。むしろ正常である。映画や音楽などのあらゆる創作行為のなかで、最もヤバいのは過度な激賞や手放しの称賛ばかりになることだ。若干雑な表現になるが、それはイジメと変わらない。

話を戻す。ヤスミンは「細い目」について、テーマである初恋に関した文章を記しており、そのなかでヴィスワヴァ・シンボルスカの詩の一部を引用している。

真実の愛の存在を否定する者には
そんなものは存在しないと思わせておいてあげなさい。
生きてゆく時も、死ぬ時も、そう信じてさえいれば
彼らも少しは楽になれるのです。

かなり手厳しい一文だが、実にヤスミンらしいチョイスである。そして、真実の愛には「細い目」をはじめとして彼女が遺した作品を代入することができるだろう。彼女の存在を、作品を否定する者には、映画なぞ存在しないと思わせておいてあげればよいのだ。

その点では、雨ばっかり降りやがって全然夏らしくない2019年の夏に、やれ闇営業だブラック企業だパワハラだYouTuber炎上だ選挙だ陰謀だと、鏡に向かってズレたご意見垂れ流し、自分と違う考えの人間を排撃し、西に溺れた者あれば棒で突いてやり、東に悪のレッテル貼られた者あればここぞとばかりに石もて打ち、返す刀で多様性を認めましょうと言い放つような、端的に言って地獄と表現して差し支えないクソみたいな世の中で、「2004年からやって来た本作が公開される意義は計り知れない。今だからこそ観られるべき映画」などとは死んでも言わない。(さまざまな意味での)「存在」を否定する者たちには、本作が存在しない世界線で生きてい欲しい。つまり観ないで欲しいとすら思うが、逆に呪詛の言葉を撒き散らした人も、それに当たってしまった人も、攻撃していた人も、された人も、憤激していた人も、何も発さず賢者として振る舞っていた人も、そんな出来事があったことなど知らず、身体を動かすことすらできないほど大きな悲しみに包まれていた人も、つまり全ての人が本作を観ればいいとも思っている。ヤスミン・アフマドの作品には、強い浄化の力がある。だからこそ、悪用されないことを強く祈る。

少々話がスリップしたので、そろそろまとめに入る。「細い目」は素晴らしい冒頭を皮切りとして、初恋をテーマとして幸福と(美しいまでの)悲劇を描いたウェルメイドな作品である。

ヤスミン・アフマドについても、もう少しだけ補足する。以下は私が「細い目」とヤスミン・アフマド没後10周年特集がニコイチとなったパンフレットに寄稿した文章だ。彼女に対する個人的な評としては、これ以上でもこれ以下でもなく、言いたいことは全て書いたので、全文転載する。

映画は終わる。ヤスミン・アフマドはもう居ない。しかし、だ

ヤスミン・アフマドは、自身が捉えた世界をありのままに映し出すかのごとく、瞬きをするようにカットを割っていく。その視線の先には、喜びがあり、悩みがあり、快楽があり、苦痛がある、つまり普通の人が、ただ生きている。

そこには肯定も否定もない。しかし「神の視点」のような傍観ではない。彼女の角膜と世界の間には、恥ずかしげもなく書くならば「愛情」というコンタクトレンズが挟まれている。「母の視点」とも表現できそうなそれは、国も文化も何もかもを越えて「ああ、懐かしいな」と、胸が痛くなるほどの郷愁を感じさせる。

美しく、楽しく、儚く、そして辛いサウダーヂはずっと観ていたくなるが、当然ながら映画は終わる。その後、我々は現実の生活において、カットを割るように瞬きをしながら生きていく。しかし、彼女の作品に触れる前と後では、目の前に映し出される世界は大きく変わるだろう。

対象をフラットに捉えること、怒りを抑制すること、赦すこと、そして、愛情をもって世界を見渡すこと。その優しき「母の視点」は、彼女が遺した最大の作品なのかもしれない。

残念ながら、ヤスミン・アフマドはもう居ない。だが、彼女が遺した最大の作品には、世界の見方を変えるほかにも、もうひとつの効能がある。彼女の観た世界がスクリーンに投影され、我々が「母の視点」を借りるとき、ヤスミン一人分のスペースが空いてしまった世界の寂しさを、少しだけ埋めることができる。

(写真はすべてムヴィオラ社提供)


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[イラスト]清澤春香

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