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「きみと、波にのれたら」は感情移入により“自分の壁”を直視する新しいラブストーリーだ

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「夜明け告げるルーのうた」でアヌシー国際アニメーション映画祭の最高賞、「夜は短し歩けよ乙女」で日本アカデミー賞最優秀アニメーション作品賞を受賞するなど、手がける作品が続々と高い評価を受ける奇才・湯浅政明監督の新作はまさかのラブストーリーだった。

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上映中、自分がなぜ泣いているのか分からなかった。周りを見渡すと皆、そっと涙を指で拭っていた。説明がつけられない涙なんて、過去を振り返っても思い出せない。いわゆる“感動シーン”はもちろん、それ以外の何でもないようなところでも、心が揺さぶられた。

湯浅監督映画の共通テーマである“自分の壁”

誰しも、心に壁を抱えて生きている。しかし、普段それと向き合わなくても何となく過ごしていけるがゆえに、直視しないでいることがほとんどだ。湯浅監督はそうした自分の壁を映画に落とし込み、私たちにぶつけてくる。

湯浅監督は前作「夜明け告げるルーのうた」で、“自分の壁”を「心から好きなものを、口に出して『好き』と言えているか?」というところに置いた。思春期特有の恥ずかしさによって“本当の気持ち”を素直に伝えることができない中学生が、歌によって心を開いていく物語だ。

本作はこれをもう一歩押し進めたものである。一見、物語の結末も簡単に読めそうな王道のラブストーリーだが、実際はそんなに単純なものではない。
様々な局面で描写される自分の壁。そこには、何度もくじけそうになるがそれでも生きていかなければならず、何とか乗り越えようともがく登場人物の心の葛藤が描かれている。

生きるとは、幸せとは、こんなにも地道でがむしゃらなものなのか。

モノも情報も、カンタンに欲しいものが手に入る現代で、カンタンには得られないもの。
誰かに教えてもらっても、乗り越えられないもの。
まさに、いつの時代にも普遍的な“葛藤”に着目した映画である。

一体、この映画を通して私たちに何を伝えたかったのか、何を体験させたかったのか。
その答えが“涙”としての現れだと思う。

この体験についてもう少し考察したい。



出典:「きみと、波にのれたら」公式ホームページ

-きみ波とは?-
サーフィンに夢中な大学生の向水ひな子は、ある火事騒動をきっかけに消防士の雛罌粟港(ひなげし・みなと)と知り合い、恋に落ちる。互いにかけがえのない存在になっていくが、港は海の事故で命を落としてしまう。ショックのあまり大好きだった海を見ることすらできなくなったひな子だが、ある日ふと2人の思い出の歌を口ずさむと、水の中に港が現れる。再び港と会えたことを喜ぶひな子だったが……。

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本作は「命を落とした恋人が水の中に現れる」という非現実的な設定であり、実写ではなく二次元のアニメだ。登場人物は消防士、サーファーと、これも一般的に当てはまる人は少ない。にも関わらず映画がここまで人の感情をコントロールしたのはなぜだろう。

そこには、見るものに気づかせすらしない細やかな工夫が施されており、それはまさに芸術と呼ぶにふさわしい。

湯浅監督は次のように語る。

今回の作品は、あまり広げすぎないようにつくっています。それは多分、前作「夜明け告げるルーのうた」の感想の中に、もっと主人公の気持ちに寄った物語を見たかったっていうのがあって、実はそれは、ボクはあまりやっていないかなって感じたんです。
『公式ビジュアルストーリーbook』より引用

監督の話からも分かるように、本作の鍵は感情移入である。そして多くの人が涙を流した。

見るものに感情移入させることで、“自分の壁”という、誰しも心の奥底で眠らせているテーマに疑似体験を引き起こさせ、実世界で乗り越えるヒントを与える。この壮大なプロジェクトに挑んだ湯浅政明監督はまさに鬼才だ。

では、現実と全くかけ離れた内容である映画に対してどのような工夫を施し、あたかも自分のことのように見るものを魅了したのだろう。

ラブストーリーを選んだ理由

感情移入させるには、シンプルなラブストーリーが王道だ。恋愛では“葛藤”が付きものであり、嫌でも自分の未熟さに目が向いてしまう。さらに感情移入させる仕掛けを施すとなると、カップルのどちらかが命を落とすことは宿命だ。湯浅監督がラブストーリーを描くことに多くの映画ファンは驚いただろうが、それは伝えたいメッセージを最も伝わりやすい形で表現するために必然だったと言える。

ただ、ラブストーリーとなると女性がメインターゲットとなりがちだが、やはり伝えたいのは男女関係なく人間に共通したテーマである。

そこで登場人物の数を絞り、それぞれの心情と関係を客観的に描いたのだ。その結果、男性から見ても女性から見てもリアリティを感じられる、バランスのとれた恋愛描写に仕上がった。

4人の登場人物

□ 港
正義感が強く、仕事でも信頼されており、何でもそつなくこなす。一見天才肌のように思われるが実際は努力の人で、家には多数の本やトレーニング器具があり、まさに努力の結晶が彼自身だ。

□ ひな子
明るくあっけらかんとした性格で、サーフィンは大の得意だがそれ以外は不器用。漠然と自分の将来に不安を抱えているが、何か行動に移すことはできないでいる。

□ 港の妹・洋子
毒っ気が強く、発する言葉の端々にトゲがある。しかし、それはなかなか素直になれないだけで、元々はとても弱く、過去には学校に通えなくなるくらい精神的に追い詰められた時もあった。
兄の死を通して、強くなろうと頑張るその姿は健気であり、全体的に憎めないキャラである。

□ 港の後輩・山葵
人懐っこい性格で、仕事では失敗ばかりを繰り返す。先輩・港とは対照的だ。しかしその天真爛漫で純粋なキャラクターは可愛らしく、実際に彼のような人物が周りにいるとどこか救われたような気持ちになる人も多いだろう。

甘い感じだけど、現実的。バランスの取れた恋愛描写

港とひな子のカップル像はリアリティに溢れている。理想的なカップルであるが、現実にもあり得るような絶妙なバランスで描かれているため、多くの人が憧れ共感したことだろう。

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巡る季節。
春のポピー畑。2人でハンバーガーを頬張ったり、水族館ではお気に入りのマスコットを見つけたりした。
夏は裸足で海岸を駆けまわってはしゃいだり、花火を見上げたりした。
港の誕生日にはカラオケでスナメリのフロートを膨らませて大笑い。
クリスマスは2人っきりになれるようにあえてキャンプを選び、いつでも手を握っていられるようにと、左手で食事をする練習をした。

どれも特別にお洒落なデートではないけれど、2人だけの世界の、小さな幸せの積み重ね。
だからこそ、我々に等身大で重ねやすい。

そんな2人が一緒にいるところを初めて見た洋子は「恋愛なんてアホのすること」と言い放つ。

傍から見たらバカバカしいような、うっとうしいような、でもちょっと羨ましいような、2人だけの世界。
でも恋愛が盛り上がっているときって、誰だってちょっとアホになってしまうものだから。アホになれるくらい夢中になってしまうのが恋愛で、それが恋愛の中毒性だ。

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ちょっとした裏話がある。アフレコだ。

本来のアフレコは映像が出来上がってから録るものだが、現実には映像に未完成の部分があることも多く、今回も声を入れた時はあまり絵が出来上がっていなかった。
ゆえに役者の芝居を見て登場人物の表情を緩めたり、アドリブで入ってくる息づかいもできるだけ拾ったりして、口の方を合わせるようにできたという。
気持ちがこもった自然な演技に絵がのることで、細部までリアルな作品となっているのだ。

作品の中で2人が一緒に主題歌を歌う場面があるのだが、そこは港役・片寄涼太さんのアイディアである。

港がリードする形でそのシーンはできあがっている。
聴いていて、どこかちょっと恥ずかしくなってしまうような、くすぐったいような。
良い意味で“生っぽい”、幸せな恋人同士が本当に楽しそうに歌っている場面となっている。

私たちが最も日常に触れる水をテーマにした

感情移入させる鍵は人物だけではない。“水”を主要な題材にしている点だ。

そもそも生命は水から生まれた。そして人間の70%は水でできている。我々と水は切っても切れないものであり、なければそれは死を意味する。水はこの世の誰もに共通して不可欠なものであり、身近に必ず存在するものでもある。

その“水”に一つの映画の中でいくつもの役割を与えている点も注目すべきポイントである。ある時は港とひな子の大切な場所。ある時は港の命を奪うもの。ある時は港を蘇らせる魔法。このように水が次から次へと役割を変えることで、常に水が現れる状況を作る。これも私たちの実世界との共通点を想起させ、刷り込ませる工夫の一つだろう。

またアニメ映画で“水”を観る醍醐味は、作品ごとにその姿を変え、どれ一つとして同じ描写がないところにある。

例えば「崖の上のポニョ」において宮崎駿監督は水を“生命の水”とし、時にはその魔力で激しい嵐を呼び起こし、世界を滅ぼすほどの力を持つものとする。また“生き物のような波”の表現にこだわり、水魚という巨大な魚がひしめき合って押し寄せてくる波の表現や、巨大な魚と見立てた波が荒れ狂う圧倒的なボリューム感は観客を魅力した。

一方本作の水は、時には差し込む繊細な光によって本物以上に爽やかで美しい風景描写となり、時には波の影の鮮明さでその恐ろしさを際立たせる。さらに、まるでカメラで実際に撮っているかのような躍動感によって、物語の局面を描き出す。シーンによってガラリと表情を変えるその姿に幾度となく息をのむ。

また、視点を変えると“波”はまるで激しく移り変わる人の心情や日常、時代までも表しているかのようだ。無数の波は、この先幾度となく直面するであろう「人生の波」そのものである。“何もできない”ひな子が簡単に乗れる波がある一方で、“何でもできる”港にも、乗れない波がある。

なぜ自分は波に乗れないのか。なぜ自分にはできないのか。

それは港に限らない。

この映画の登場人物は当初、誰もが波に乗れていなかった

港を失い途方にくれ次の一歩を踏み出せない、ひな子。
港と常に自分を比較し劣等感にかられ前に進むことができなかった、山葵。
精神的に追い込まれ学校に通えず自信をなくしていた、洋子。

完璧な人物として描かれている港でさえ、ひな子に呼ばれたら“水の中に”出てきてしまう。もちろんひな子を「助けるため」ではあるが、それは果たして本当に「ひな子のため」なのか?

誰もが悩み苦しみもがいている中で、必ず出てくる言葉がある

「自分以外の誰かになんて、なろうとしなくていい。あなたはあなたでいいんだよ」

ありのままの自分を肯定してくれる存在は貴重だ。
走りっぱなしでは、息が切れてしまう。
帰る場所があるから、また走り出せる。
頑張ることに、必ずしも苦しみが伴う必要はない。

ありのままの自分を肯定しつつ、目標に向かって走り出せたなら、人はもっと強くなれるし、その人なりの良さを発揮できるだろう。

恋愛の作品っぽく見えると思うんですけど、実は恋愛っていうのはひとつのエッセンスでしかなくて、色んな壁のある人生そのものをストレートに描いた作品だなって、ボクは感じました。
(港役・片寄涼太『公式ビジュアルストーリーbook』より引用)

「大丈夫。あなたはあなたでいい」

一見矛盾しているように感じるが、それこそが“自分の壁”を乗り越えるヒントであることを、この映画は私たちに教えてくれたのだ。

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最後に、本作ではそれぞれの登場人物が基本的には一人で自分の人生と向き合う姿が描かれているが、私はそこに少し違和感を覚えた。

もちろん最終的には「自分しかいない」のだが、本作でも究極の場面では周りの助けを得ている。
悩んでいる時、苦しい時、もっと周りに心を開いてもいいのではないかと思う。

映画を通して“伝えたいこと”を届けるために削ぎ落とされた部分なのだろうが、「決して一人で頑張ることだけが美しいわけではない。誰だって大切な人の助けになりたいし、頼ってもらえたら嬉しく思う」ということを、ここに書き留めたい。


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[イラスト]ダニエル

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