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「麻雀放浪記2020」徹マン明けのようなテンションで頻発する「切り間違い」

加藤広大 加藤広大


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いきなりだが、以下の配牌をもらったとする。あなたなら何を切るだろうか?

tehai

上画像は「麻雀放浪記(四)番外編」にて、陳・狸・ドサ健・私(坊や哲)がブウ麻雀で対局したときの坊や哲の配牌である。

5種5牌・5向聴のいわゆる「クソ配牌」であるが、点差などのあらゆる状況を排して、単純な「何切る」問題として考えるとすると、まずは南・九索あたりが出ていくだろうか。一萬でもいいかも知れないし、平和系を見据えて横に伸ばしたいなら先もって三元牌を切り飛ばしてもいい。多くの方は、これらの手順を踏むと思う。

この手が素直に伸びて、9順〜10順目に以下のような形になったとする。

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一萬を切って立直もいいが、ダマにして断么九への振り替わりや、234の三色まで変化するならダマ満貫、立直してツモり跳満を狙う手もある。

だが、調子の悪いときには上手くいかないものだ。何とか聴牌にこぎつけようと頑張っても、捨て牌が2列目の後半時点で、未だこのような手牌であることも多い。

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そうこうしているうちに、他家からの濃厚な聴牌気配が漂いはじめ、実際に立直の声がバタバタっと飛んでくる。するともう手詰まりだ。麻雀はそうなる前に準備をしておく必要がある。この準備は、配牌の時点からあらゆる可能性を想定しておかなければ到底間に合わない。

準備不足の例として一番ダメで、カモとして扱われるのがクソ配牌をもらってキレている人である。そして、何とか和了ろうと安全牌を切り飛ばして手牌をブクブクにする人が続く。

もちろん、クソ配牌だけでなく、好配牌をもらったものの一向聴から一向に動かず、あれよあれよという間に手詰まりになってしまうケースもある。そこからの挽回はほぼ不可能で、運良く他家の当たり牌を捨てずに流局したとしても、残るのはズタボロになった可愛そうな手牌であり、「責任を取れ」とばかりに配られる次局のクソ配牌である。このような状況は麻雀だけでなく、日々の好不調にも、映画にだって代入できるであろう。

まだまだマクラは続く、なぜか

その答えはさておき、私は麻雀が好きで、高校時代には数万局打った。上京した日に上野のフリー雀荘に出かけて36時間打ち続け、同じく36時間同卓していた対面の奴にボロ負けした。「都会には俺より強いやつがいる」というのが、東京に抱いた少年漫画のようなファーストインプレッションである。

今ではほぼセット打ちで、フリーの卓に着くことは少なくなったものの、AbemaTVの麻雀チャンネルをよく観るし、最近のプロの動向も追っている。阿佐田哲也、安藤満、小島武夫などなど、昭和の雀豪が次々に鬼籍に入るなか、下火になっていたプロ雀士の対局をここまで手軽に観戦できるようにし、マジで面倒臭そうな団体の垣根を飛び越えて対戦を組めるようにした藤田晋氏は、万の言葉を費やして称賛されるべきだろう。伏見稲荷大社に阿佐田哲也大神なんて作ってる場合じゃない。

だが、本作に対して麻雀好きの観点から何か言わせろ。なんてつもりはまったくないし、麻雀警察になるつもりもない。「俺はこの映画を素人よりわかっている」なんて気持ちも牌の間に挟まった謎の縮れ毛ほどもない。なので、本作に関する麻雀描写(台詞含む)への言及はすべて割愛する。

ここでついに本作のタイトルを出すが「麻雀放浪記2020」は

オリジナルである和田誠が監督した「麻雀放浪記」をベースにしている。クラブ「オックス」で行われていた女衒の達・出目徳(途中からママが代走)・ドサ健・坊や哲の対局中、九蓮宝燈を和了ろうとした坊や哲は雷に打たれ、2020年にタイムスリップしてしまう。


https://eiga.k-img.com/images/movie/89946/photo/e47a7196f0c313cd/640.jpg?1553655169
出典:映画.com

本作の2020年は第三次世界大戦が勃発し、東京五輪が中止になった世界線で、憲法改正反対を叫ぶ団体が警官に警棒で滅多打ちにされてしまったり、街中の監視カメラで顔認証をかけられたりするようなディストピア社会である。

で、中止になってしまった五輪のかわりに何かやろうということで、機関は「麻雀五輪」を発案する。今や麻雀は世界的な人気を博し、麻雀アプリのユーザーは全世界で2000万人を超えるらしい。そこでAIを搭載したアンドロイドと人間を対局させようというのである。

この「麻雀五輪やりましょう会議」の場では、役人たちがGoogle Glassのようなウェアラブルコンピューターをつけ、セグウェイを乗り回している。完全に10年遅れのSF具合だが、舞台は2020であるからして、別に傷にはならない。

というか、本作は設定や脚本があまりに荒唐無稽すぎるため、全編を通して突っ込み放題の作品になっている。例えば、斎藤工が演じる坊や哲のスタイリングひとつとっても、汗ジミや汚れが一切ない学ランの襟、プロが縫ったとしか思えない几帳面なパッチワーク、真っ白な手ぬぐい、皺のない白シャツ、ヨレ感のない新品のような腹巻きといった出で立ちである。終戦直後の1945年からタイムスリップしてきたというのに。

だが、それらに突っ込むのは麻雀描写含めて野暮というもので、一打一打にキレていては話の流れにノレなくなってしまう。

では、本作は面白いのか? 最も素晴らしい感想文はパンフレットに記載されている

私の結論としては「コメントは差し控えさせていただきたい」の一言なのだが、ネット上の評価を確認してみると「すっげぇ面白かった」「超展開で笑った」「問題作!」など比較的好意をもった感想が多い。だが否定派も一定数おり、賛否両論といったところである。つまりハマる人はハマるし、ハマらない人はハマらない。

さて、本作は試写会を行っていない。なぜ試写にかけなかったのかについては、私個人としては映画のデキがアレだからだと思うのだが、どのような理由にせよ「試写無し」の一打は成功といって吝かではないだろう。公開前のユーザーレビューやSNS投稿、評論家・ライターによる解説などがほぼ完全に封じられたのだから。そのため、公式サイトでは映画にありがちな各界著名人のコメントは一切なく、パンフレットにもプロによるレビューや解説は記載されていない。

だが、例外として国会議員試写会が行われている。本作はこの件で炎上したが、当コラムでは触れない。というか、「マカオ国際映画祭」での件も含めて、一連のどれだけオブラートに包んでも暴牌としか言えない宣伝手法には触れたくもないのが本音だ。

話を戻して、実は本作パンフレットには1本だけレビューが載っている。執筆者は参議院議員、山本一太である。以下、少しだけ引用する。

いち映画ファンとして、『麻雀放浪記2020』に言いたいことは山ほどある。
現実離れしたシナリオ、あまりに大雑把な設定、もう少し頑張ってほしいCG……。
権力批判(?)も中途半端だ。ただし、エンタメとしては、文句なく面白い!
出典:「麻雀放浪記 2020」パンフレット

実に大人で、当意即妙な文章である。そして最後に

次回の続編(?)は、国会審議で本当に問題視され、それこそ上演中止になるような「更に尖った」作品を期待している。
出典:「麻雀放浪記 2020」パンフレット

と結んでいる。なんという鮮やかなディスりだろうか。反権力的な要素をもった本作が、権力側に軽々といなされ、バカにされ、むしろ映画より権力側のコメントのほうが面白く、何なら反骨精神を感じるという凄まじさ。映画を専門にしている人間には取れないバランス感覚の良さが、逆に本作のアンバランスさを浮き彫りにする。

異物としての存在感を放つ、日本プロ麻雀連盟の面々

ノレる人は面白いし、ノレない人は面白くないという賛否両論な本作であるが、圧倒的に後者である私も「これ、よくやったな、面白いな」というシーンはいくつもあった。

そのなかで、おそらく誰も指摘しないであろう点を挙げるならば、日本プロ麻雀連盟の現会長である森山茂和九段の存在感である。坊や哲は芸能プロデューサーであるクソ丸(竹中直人)に見出され、麻雀アイドルのような存在に仕立て上げられるものの、その雀力の高さをもって連盟の面子を次々に撃破していく。


https://eiga.k-img.com/images/movie/89946/photo/553078700d8d1c9d/640.jpg?1553655167
出典:映画.com

とある大会の表彰式に森山は登場する。そのちょっと不機嫌そうでもあり、困ったような顔や、妙に立ち位置を気にする仕草などは完全に「現実世界での表彰式の森山会長」そのものである。あまりに自然かつリアルな演技で無駄がひとつもない。演者としてプロのなかに混じった「異物」としての存在感は「アウトレイジ 最終章」の張会長(金田時男)すら想起させる。

だが、異物としての存在価値は本作とアウトレイジでは正反対だ。だからといってヤバい脚本をもらってしまった役者に罪はない。問題は脚本である。弾けながらもどこかブレーキがかかっているような斎藤工、数々の作品から竹中直人っぽさを抽出したような竹中直人、頑張りすぎて空回りするベッキー、まともなので逆に違和感を感じる的場浩司、もはや何も言えねえ小松政夫など、全員が手詰まりで目を瞑って卓に牌を叩きつけているような状況で、森山会長の存在は更に異彩を放つ。

では、脚本は悪なのか?

本作の脚本は佐藤佐吉、渡部亮平、そして監督である白石和彌の3人体制で、プロデューサーは谷島正之と甘木モリオの2人。未来の設定にしたのは甘木の発案だそうだ。その設定をもとに佐藤が書いたものを、渡部がブラッシュアップした形となっている。

斎藤工は「(佐藤の脚本を読んだとき)頭がおかしいんじゃないかと思いました(笑)」と語っている。また白石は「2020年という設定以外は大体は佐吉さんが決め、渡部さんが整理してくれた」と語る。誰も彼もが「佐藤佐吉の設定はぶっ飛んでいる。最初は苦笑いだったが徐々にイケるという確信をもった」といった発言内容である。

数々の発言から推測するに、おそらく、初期の脚本は完成版より遥かに荒唐無稽で、制作陣ふうに書くならば「ブッ飛んでいた」はずだ。1人の人間が考えたブッ飛んだアイデアは、手を加えられることにより鈍化する。あくまで憶測だが、本作はここではじめての「切り間違い」が生じたのだと感じる。


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出典:映画.com

切り間違いと書いたついでに、本作を一局の牌の流れとして考えるならば、もともと場況や配牌は良かったのである。役者陣だって悪くないし、もちろん監督だって悪くない。「凶悪」も「日本で一番悪い奴ら」も素晴らしい作品だと思うし、事実、私は何度も観ている。そして、設定・脚本だってブッ飛んでいた。

配牌は良好。ツモも好調でどんどん有効牌が入ってくる。どの牌も捨てがたく、面白い手ができそうだ。しかし、この状態は「本当にツイているか絶不調か」のどちらかである。多くの人は絶不調に気付かず、自分はツイていると勘違いして己の手牌に酔ってしまう。

自分の手牌に酔っているとき、他家の状況は目に入ってこない。河にもそこまで注目しない。「ここにこれが入って、こうなったら、倍満じゃん」などという希望的観測しかない。これは「こんなの面白いじゃん、面白いよね、こんなの入れたらあまりのブッ飛び具合にびっくりしちゃうでしょ皆」と内輪で盛り上がっているのと同じ状況である。

そして、局の途中では尖った設定や役者陣をどう扱うか、つまり「好調な手牌のなかで何を切るか」という贅沢な選択が生じる。(念のために書くが、麻雀は「要らない牌」を捨てるわけではない。捨牌も手牌のうちであるし、何より意思があるし、和了りや流局までの思考がすべて透けて見える)しかし、選択を間違うと地獄行きだ。ブクブクになってしまった手牌は流局するまで聴牌すらできず、河には振聴形が、頭のなかには「たられば」がズラりと並ぶ。

本作は捨てるべき牌を捨てられず、残すべき牌を残せず、鳴くべき牌を鳴かず、あるいは不必要な鳴きをいれてしまっている。「徹夜明け麻雀の最後の半荘」のように妙なテンションで、和了れもしない役満を狙っているようなものだと言い換えても良い。もちろん、そのテンションが面白いという人もいることは否定しない。そういう麻雀もある意味で楽しい。同卓者が同意しているのであればだが、そこに善悪は無い。

もちろん、切り間違いをして裏目裏目に出ている様子を観るのだって楽しい。麻雀は和了るのがすべてではないし、極論を言ってしまえば勝つことが全てでもない。定石はあるが正着打はない。正着打は結果だ。だが、悪手や暴牌はある。

「麻雀放浪記2020」の制作過程と内容すべてが、まるで悪手ばかり打つ東京五輪に酷似しており、ある意味狙ってやったとしたら凄まじい。とは言わない。しかし、本作は東京五輪と同じく、誰が、どんな役割で、どのような責務を担い、責任を果たしているのかという実際が見えてこない。つまり「なぜこの牌を切ったのか」が理解できない。「誰々がやった」とタライ回しで「俺がやった」が出てこない。一応補足するが「一番悪いやつが責任をとれ」なんてアホなことを言っているのではない。ピエール瀧に対して呪いにも近い悪罵を浴びせた連中じゃないんだから。

ただ、博打に勝つために、唯一絶対の掟があるとすれば、それは「人のせいにしない」ことである。


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[イラスト]ダニエル

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