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「運び屋」イーストウッド、死ぬぞ!こんな傑作撮っちゃったら!

加藤広大 加藤広大


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「だめだ! イーストウッド! 死ぬぞ! こんな傑作撮っちゃったら!」

劇中、心の中でずっとそう叫んでいた。別に傑作を撮ったといって、悪魔に魂を持っていかれることはない。駄作が遺作になった人なんて山のようにいる。ではなぜ「あ、死ぬかも」と感じてしまったのか。それは本作「運び屋」のなかで、イーストウッドが様々な事柄にケリをつけまくっていたからである。

ここ数年の例を挙げるならば、『ラッキー』のハリー・ディーン・スタントン、『ラザルス』のMVにおけるデヴィッド・ボウイがすぐに想起される。両作は傑作であるとともに遺作である。『ラッキー』はハリー・ディーン・スタントンの人生をなぞるように、何の代わり映えもないが、確実に昨日とは違う日常を描き出した。『ラザルス』はジギーやシン・ホワイト・デュークなど、彼が作り上げたストックキャラクターの動きを総動員するかのごとく、痩せこけた身体でリンゼイ・ケンプ直系の凄まじきパフォーマンスを発揮した。どちらにも共通するのは、過去の自分、そして作品にケリをつけているということである。

「人は過去にケリをつけたら逝ってしまう」などと雑なことを言っているわけではない。ケリや折り合いをつけようとしても間に合わないこともあるし、何とかするには遅すぎることだってある。ここまで書いたのはあくまで直感の一撃であり、便所の落書きで、むしろ当たっていなければ良い。だが、どうにもハリー・ディーン・スタントンやデヴィッド・ボウイを重ねずにはいられない。

ところで、私は死神を見たことがないが、存在は信じている。死神とは死期が近い人間の側に現れたり、とり憑いたりするものだが、冒頭のイーストウッドをひと目見た瞬間、縁起でもないが「あ、憑いてるかも」と感じてしまった。そして、上記の2作品も同様である。

いきなり「死ぬぞ」とか死神がどうたら書いたので、勢い物騒なトーンになってしまったが、本作は別に暗い話ではない。結論から書いてしまえばべらぼうに面白く、明るく、哀しく、美しく、粋で、野暮で、しなやかで『グラン・トリノ』以降、クリント・イーストウッドが撮ったどの作品よりも素晴らしい。『グラン・トリノ』と比較するというよりは、ニコイチとしたほうがいいかもしれない。鑑賞済みの方ならば、同じ気持ちになってくれる方もいるだろう。

ここから本題なのですが、冒頭から凄いですよ『運び屋』は

映画のはじまりは花だ。美しい花弁のデイリリーが画面を彩り「これ、アメリカ国歌でしたっけ?」と突っ込みを入れざるを得ないほど高揚感のあるラッパの音が客席を満たしていく。ビニールハウスで仕事をする、おそらく農園主であろう老人の元に一台の車がやってくる。花を愛でていた優しい瞳からは一転し、老人は乗車していた従業員に向かって、枯木のような身体からは考えられないほどの悪態を吐いてみせる。


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出典:IMDb

老人はデイリリーの品評会に訪れ、破顔しながら表彰されているシーンへと移り変わる。周囲の喝采を受け、人生における最高の瞬間だと言わんばかりに満面の笑みを浮かべる老人。彼は娘の結婚式をすっぽかし、バーで友人たちに酒を振る舞う。

そうこうしているうちに、時は2005年から2017年へと、12年が経過する。しかし、画面に映っているのは12年前と同じ老人である。ここで、先ほどまで登場していた過去の老人と、現在の老人が時間軸を越えて、やや険しい表情ではあるものの「まったく老けていない」ことに気付く。

「10歳と20歳はだいぶ違うけど、70歳と80歳の見た目なんて誤差みたいなもんでしょ」なんてことを言ってるんじゃないし、イーストウッドが手を抜いたわけでもない。我々が人生のあるシーンを振り返るときには、必ず現在時間から回想しなければならない。つまり、過去の映像を見ているのは現在の自分であり、おそらく、それを他人から見ると、そこに立っているのは現在の自分である。イーストウッドは、職人の技術が傍から観測すれば容易い所作であると感じてしまうように、リラックスしながら「映画における回想シーン」にケリをつけてみせる。まずここが凄い。観ているこちらが死ぬかと思った。

件の老人、アール・ストーンの農園は経営が立ち行かなくなり、ついには売りに出されてしまう。家族を顧みず、娘の結婚式もすっぽかしたアールは孫との関係は良好なものの、娘とはもう12年半も口をきいていない。妻との関係も疎遠で孤独に暮らしていた。

ある日、孫娘と婚約者が主催するパーティーに訪れたアールは、婚約者の友人との会話のなかで、何十年もの間無事故無違反であるというドライビングの腕を買われ「いい小遣い稼ぎがある」と運び屋の仕事を頼まれることとなる。孫娘の結婚資金を用立てたいアールは仕事をすることに決め、「運び屋」としての生活がはじまる。

カーチェイスも、爆破も、スピード違反すら無い「運び屋」

A地点からB地点へ「ブツ」を運ぶ映画においては、いつ、どこで、どのような状況で仕事に支障が出るか(または誰が邪魔をしてくるか)が肝になるが、本作では驚くべきほど何も起こらない。捜査官と犯人によるカーチェイスも、ブツを横取りしようとするライバルのカルテルも出てこない。もちろん爆破もない。何ならスピード違反すらしない。警察犬に嗅ぎつけられそうになるなど、少々危ない場面もあるが、基本的にはアールが勝手に人助けをしたり、休憩したり、ルート変更をするだけだ。運び屋の老人はお縄につくまで、確実に荷物を届け続ける。


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出典:IMDb

何も起こらないのでは映画として成り立たないし、退屈なものになってしまう。しかし、イーストウッド御大の手腕により「何もヤバいことが起こらない」シーンすらも、ちょっとしたエピソードを盛り込むことで滅法楽しいものにしてしまっている。

これは前作「15時17分、パリ行き」において、列車内でテロリストに立ち向かった米国軍人と学生本人を出演させ、尺の半分以上はマッチョ三人によるほのぼのヨーロッパ観光旅行に割かれ、テロリストの登場シーンは自撮り棒より短いのではと感じてしまうほどの内容であったのに面白く観れてしまう。という謎の編集技術によるものであろう。

本作においても、その謎の編集技術により、運び屋パート、家族との絆を取り戻そうとするパート、稼いだ金で周囲の人に対して慈善的に活動するパート、DEAが運び屋の手がかりを追うパートなどが絶妙に配分され「観ている間に映画が終わっていた」という、書いている自分でもよくわからない現象が起きる。これは、とてつもないレベルの出汁汁を飲んだ時に「美味かったんだけど、飲んだ気すらしなかった」といった感じに似ていると書いたのだが、まったく例えになっていないと思うので一遍死んできます。

もう少し補足するならば、「何も(大げさなことが)起こらないこと」に関しては、史実をもとにした物語だから仕方がないといえば当たり前なのだが、会社の金を横領していた人物が、風邪で数日間出社できなかったことで他人の手が入りバレてしまうように、真面目でよく働く人間の方が悪事をやっているというのは案外リアルな話で、ドキュメンタリー的な面白さすらある。

「運び屋」の高揚感、現実に帰還するイーストウッド

中身を知っていようがいまいが、とくに違法なモノを運ぶ映画に共通するのは一種の「高揚感」である。「ブロウ」しかり、最近であれば「麻薬王」しかり、大量の麻薬を小型飛行機やトラックに乗せて運ぶ時、我々もまた映画の登場人物に自分を重ねて「見つかったらどうしよう」という緊張感を安全地帯から楽しむことができる。

また、麻薬を運ぶために二重底のバッグを使ったり、魚の腹に詰めたり、クッキーの缶に仕込んだりと、あれやこれやの手口がキマって密輸に見事成功したときの気持ち良さや、打ち上げとばかりにブロック状にパッキングされた袋にナイフを入れ、白い粉を乗せて吸引し一発キメるシーンの爽快さもまた、供給元とプッシャーの中間業者として活動する「運び屋」の高揚感に一役買っている。だが、アールは淡々と仕事を進める。薬もやらない。では、本作における「運び屋の高揚感」は何なのか。それは歌である。


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出典:IMDb

アールは車を使ってブツを運ぶ。車中では常に陽気に歌っている。もちろん、その声を出しているのはイーストウッド本人なのだが、ここで思い出さずにいられないのは「グラン・トリノ」のラストシーンで、ガキが運転するグラン・トリノの天上からうっすらと聞こえてくる、完全に解脱したと思われるイーストウッドの歌声である。「グラン・トリノ」で天国から届けられた歌声は、本作では車内で鳴り響く。現実への完璧な帰還に、再び観ているこちらが死にそうになった。

「運び屋は荷物を見てはいけない」という鉄の掟にも、よくある「あの質問」にも一撃でケリをつける

まだまだ言及したいことはたくさんある。運び屋には荷物を見てはいけないという鉄の掟があるが、この観るなのタブーに対しても、アールはフォアレターワード一発でケリをつけてみせる。

そもそも、どう考えても怪しいガレージで、どう考えても気質じゃない男たちに、どう考えても麻薬が入っているとしか思えないバッグを渡され、どう考えても胡散臭すぎる方法で荷物を受け渡している時点で薄々気付いていたとは思うのだが、それにしたって「答え合わせ」をしたときのアールの数秒にも満たないシーンは、数多のリアクション芸人が束になっても敵わない凄みがある。

タブーを破ってしまうと、荷物を知ってしまった人間が罪の意識に苛まれたり、物語に暗雲が立ち込めてしまったりするのが筋というものだが、その後もアールは変わらずにブツを運び続ける。いつか必ず報いがあることは理解しているが、悪事に手を染めていることを恥じている様子もない。供給元のカルテルで少々物騒な人事異動があり、アールの仕事に対する締め付けが厳しくなってしまうといった事件は起こるが、「運ぶこと」に関しては支障が出ることはない。

また、知らなくてもいいことを知ってしまった人間の苦悩と同じく、違法行為によって急に金回りがよくなった人物が直面するのは「このお金、どっから出てきたのよ」という親しい人からの質問である。尋ねられた当人は、適当な嘘を見繕って誤魔化し、状況をやり過ごすしか無いのがポピュラーだが、このありがちな「急に出てきた大金の出処を訊かれたらどうするか」問題にも一発でケリをつける。本作屈指の爆笑シーンでもあるのでネタバレは避けるが、なんだかもう、完全に年をとったからこそ出来る演出で、ズルいとしか言えない。

映画の最後、いつの間にか死神は消えている

本作で、アールは自分の居場所を守るために、もしくは取り戻すために、そして修復するために仕事を続ける。もちろん、かつての威厳を取り戻したい、多くの人から称賛されていたあの時代に戻りたい、忘れ去られたくないといった気持ちはあるだろうが、とにかく「間に合わなかったこと」の埋め合わせをしていく。アールが最も取り戻したかったのは家族との関係であるが、果たしてそれが成就したかどうかは、本人たちにしかわからない。この関係性の修復は、間に合ったとも言えるし、間に合わなかったとも言えるだろう。

12年前の品評会、12年と半年口を利いてくれない娘、デイリリーには12個のつぼみがあり、それぞれが1日だけ花開くらしい。アールはそのつぼみをひとつひとつ開かせるように、過去の出来事にケリをつけていく。それは人生の終わりへと向けた準備なのかもしれない。そしてイーストウッド本人も、本作を撮ることで死に備えているのではとシンクロしてしまうほどに、本作は老いること、老いてしまうということを語らずとも凄まじい強度で伝えてくる。だが、映画の最後に映し出されるアールの笑顔には、いつの間にか死神にとり憑かれたような雰囲気が消えていた。

おそらく、冒頭でイーストウッドの枕元に立っていた死神は、映画に見惚れている間に布団を回転させられたのだろう。本作は死神の逆位置と同じく、再生とやり直しを描く傑作である。
 


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[イラスト]ダニエル

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