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「未来のミライ」平成最後の夏に登場した、新感覚ホラームービー

加藤広大 加藤広大


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出典:IMDb

「2018年の夏に、山下達郎の新曲を映画館で聴く行為がどれだけ贅沢か」については、どれだけ低く見積もっても1,800円以上の価値があることは、ファンの方ならば納得していただけると思う。

山下達郎の歌は、アナログだろうがデジタルだろうが、いつ、どこで、どんな音響システムで聴いてもいい。だからこそ、彼の声を聴いた/聞こえてきた時間は、いつだって思い出になる。

本作「未来のミライ」のメインテーマである「ミライのテーマ」と「うたのきしゃ」は、主人公、くんちゃんとその妹、未来ちゃんのことを歌っている。前者が未来ちゃんへ、後者がくんちゃんに向けたものだ。

夏をテーマにした歌ではまったくないが、フィル・スペクター・クローンというよりは、むしろ在りし日の達郎ライクなイントロが聞こえてきた瞬間、我々は一発で青すぎる空や、入道雲や、夏そのものを想起することができる。

夏に聴いたんだから当たり前じゃねえかと言われればその通りだが、これこそが彼の声を聴いた/聞こえてきた瞬間が思い出になるということである。

とんでもなく暑かった平成最後の夏に、映画館で山下達郎の曲を聴いた思い出は、映画の内容を忘れたとしても一生心に残る。この点から考えると、1,800円はどう考えても安く、彼の歌声に挟まれる物語は、どんなに高く見積もっても実質無料と考えざるを得ない。

家族の欠損を許さない、ちょっとしたホラー作品

「未来のミライ」の有料シーンである、山下達郎の楽曲が流れる部分を除いた実質無料シーンはどうだったのか。これについてはすでにネットで散々ぶっ叩かれているが、私個人の感想としては、決して「駄作」と一刀両断することはできない作品だと感じた。以下で理由を述べる。

まず物語自体は単純で、子ども二人、犬一匹、オーダーメイドの一軒家、祖父母とは別居、中庭には一本の木という、完全無欠の勝ち組家族のホームビデオをルドビコ療法のごとく強制的に見せ続けられ、ときおり、くんちゃんの紙でも食ってんじゃねぇのかというほどのハードコアな幻視・幻聴シーンが挟まるといった、割と実験的な映画であった。

ときに一般人が幻視・幻聴を体験するアニメーション作品としては、どう考えてもキマっているとしか思えない月島雫(耳をすませば/1995年)という先輩がいるが、くんちゃんも負けず劣らずである。

https://www.machikado-creative.jp/wordpress/wp-content/uploads/2018/07/b99f4867ffcb9b28edcdbfb8b3612701-e1532645596977.jpg出典:IMDb

くんちゃんは妹である未来ちゃんの出現により、今まで一身に浴びていた両親の愛情が彼女に向くことに嫉妬し、かんしゃくを起こす。その度に幻視・幻聴といった症状が引き起こされ、飼い犬と会話をしたり、成長した妹と出会ったり、現在・過去・未来を行き来する。

家は子供部屋→中庭→ダイニングという構造になっており、くんちゃんはかんしゃくを起こすと共同体が生活するダイニングから、自分だけの空間である子供部屋に退避しようとするが、その「間」の存在である中庭で不思議な体験をする。これには深い意味があるんじゃあないかと考えていたのだが、たぶん無いと思う。おそらく、あっても後付である。

中庭の話はさておき、くんちゃんはただ我儘でウザいだけのクソガキなのだが、サイケデリック体験により少しずつ成長していく。つまり大人側に近付いていくのだが、両親をはじめとした大人側は、一切彼には近付いていかない。

イケメンの父親、そしてかなり可愛い母親は、彼の行動を叱りはするが、基本的に放任主義である。あからさまな放置プレイすらも散見される。心配している描写もあるが、両親の影響でくんちゃんが成長していくシーンはひとつも描かれない。これが怖い。もしかしたら、くんちゃんは霊体であり、存在しないのではないかと勘ぐってしまうくらいだ。

さらに本作はまるでくんちゃんが物であるかのように、そして物が人間になるかのように描かれているといっても過言ではなく、また未来ちゃんも同じである。家族間に通奏音のように漂う、のっぺりとした薄暗い冷たさは、ちょっとしたホラーである。

この怖さは、欠損していない恐ろしさと言い換えてもいい。細田守作品の多くは、家族の欠損を許さない。が故に、強烈な違和感が生まれる。本作はそれがより表出している。

見ず知らずの家族のホームビデオを、延々と見せられる新感覚ムービー

もしあなたが、まったく知らない人の家へ行き、その家族が作成した90分超えのホームビデオを見せられたらどうだろう。終始面白がれる人は少数ではなかろうか。

本作はまさに、赤の他人のホームビデオを強制的に見せられる感覚が続く。どっからどう見ても金持ちの家に生まれたワガママなクソガキの成長と、美男美女夫婦の生温いやりとりは、あまりに現実離れし過ぎているし、他人事過ぎて何も共感できない。

そして、全体的に素人がカメラを回したかのようにテンポが悪く、「ここは溜めよう」だとか「ここは贅沢に映そう」だとか、何となく気概は伝わるものの、ことごとく失敗している。

https://www.machikado-creative.jp/wordpress/wp-content/uploads/2018/07/c9b9917e0ae50e4e8261582b9bac94f7-e1532645658294.jpg出典:IMDb

緊張感のあるシーンにはまったく張り詰めた空気が無いし、ギャグシーンは間とネタが悪すぎて滑りまくっている。ガキのいたずらだとしても正直笑えないし、子どもの頃の母親と一緒に家の中を破壊しつくすシーンに至っては狂気すら感じる。

ただ、見方を変えれば知り合いでもなんでもない家族の日常を映したらクソつまらねぇ、という意味ではリアルで、あまりにアンリアルな設定からリアルが立ち上る。くんちゃんのバッドテイストなサイケデリック体験がときおり挿入される以外は、究極の「日常系」であるとも捉えられる。

さらに、その生温すぎる日常に、クソガキから発せられる耳障りでイライラする叫び声や泣き声が響き渡る。人によっては鑑賞中にかなりストレスを感じるだろう。狙ってやっているのかも知れないが、だとしても「だから何なんだよ」という話にしかならない。

ちなみに本作のアイデアは「自身の子どもとの会話で生まれた」と、細田監督は語っている。また妹が生まれたときの子どものリアクションや、犬に関してのエピソードも、実体験から着想を得ているそうだ。

つまり、着想が結構そのまま映画に活かされている(しまっている)のである。細田監督以下、制作陣が作ったホームビデオを見せられているようなもんで、これはこれで、なかなか新感覚なのだが正直辛い。

しかし、である。

映画は、「あ、これで終わりだな」というポイントでしっかりと幕を引く。ついに座席から開放されると安堵した瞬間にエンドロールで流れるは、山下達郎の「うたのきしゃ」である。画面の左側には、劇中のシーンが静止画で映し出され、アルバムを見ているかのように切り替わっていく。

するとどうなるか、なんとあれだけイラついていた、ムカついていた、キレていたシーンばかりだというのに、まったく負の感情が沸かないのである。むしろ訳もわからずグッと込み上げてくるものがある。これには驚いた。というか、ちょっと泣いた。

おそらく、私たちは、最初は他人であった一家の、一族の歴史を、くんちゃんや未来ちゃんを知ってしまったのだ。映画のなかで観客は思い出を作り、エンドロールに映し出される「アルバム」が思い出させる。

「ああ、こんなシーンもあったな」「そうそう、ここ本当に腹たったなあ」など、座席に座ってから今までのことが次々に思い出される。記憶は当然ながら忘却・改ざんされ、何なら若干美化されている。

https://www.machikado-creative.jp/wordpress/wp-content/uploads/2018/07/01361a4062e3c82c6b6574ed5c6e2cad-e1532645714921.jpg出典:IMDb

「うたのきしゃ」に乗りながら、さまざまなシーンを思い出していると、なんだか親戚の家でアルバムを見ているような、優しく、懐かしい感じにすらなる。未来ちゃんはもちろんのこと、今まで散々クソガキだヤク中だとディスっていたくんちゃんは無邪気で可愛いし、お父さんも、お母さんも、家族全てが、理屈抜きで「なんか、いいなあ」と愛おしく思えてくる。

凄まじき音楽の力である。作中で一族の歴史をインデックスしていた木のように、ポップスの索引ともいえる山下達郎の歌声は過去から現在、そして未来からの時間さえも内包しながら映画を、物語を、内容にキレていた観客の心を浄化し、ついには感動まで持っていってしまう。

エンドロールも終わりに差し掛かる頃になれば、もう「なんで俺、こんなに苛立ってたんだっけ」と疑問符すら浮かぶから面白い。まさにルドビコ療法後のアレックス。もし、これを狙い、意図的にクソ退屈な映画として仕上げているとしたら、これはもうとんでもない作品なのかもしれない。

以上が、私が本作を一刀両断できず、今では何なら「もしかしたら、ちょっといいかも」と思っている理由である。

終映後、劇場から駅に向かって歩いていると、私と同じスクリーンで鑑賞したであろう親子の会話が聞こえてきた。小さな女の子は映画に興味津々だったようだが、時系列が掴みきれず、お母さんに質問をしている。お母さんも頑張って考えて、子どもにもわかるように説明していた。

とんでもなく暑かった平成最後の夏に、さまざまな災害が起こった夏に、世界中で争いが起きていた夏に、誰もがずっと何かに対してイライラしていた夏に、本作に対してたくさんの人が文句を言っていた夏に、「未来のミライ」を楽しんだ親子が少なくとも一組はいる。それだけでもう、いろいろとOKなんじゃなかろうか。

私は本作に対して終始キレていたが、実はくんちゃんのように「この映画、好きくないぃ」とダダをこねていただけである。もしかしたら、多くの人がそうなんじゃないだろうか? 幸せそうに会話する親子を見て、今年の夏はもうちょっと、大人になろうと思いました。

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