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2017年下半期おすすめ本3冊【小説以外】

岡田麻沙 岡田麻沙


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江戸時代の後期に、なぜこんな思想が生まれたかというと、海外の人たちから「開国しろ」と強く言われたからである。「別に何も悪いことしてないのになんで開国しろとかいうの! しかもちょっと強引じゃない!? やだやだ、じゃあこっちも戦うし!」という態度が攘夷の発端だ。めっちゃ動物的である。

加藤はこうした反応を「内向きの正しさ」と表現している(p.92)。これはこれで正しいのだ、地べたの上に立つ「正義」の論だ、と。「やだ!」「だよね~。それ、わかる」というやつだ。でも、「やだ!」「わかる~」だけでは話が進まない。「だよね。わかる。でもさ・・・」と言葉が続くとき、我々の関係性は、メタモルフォーゼする。

とはいえ、世界は、こうした内向きの「正しさ」だけで動いているのではありません。(中略)自分の信じる「正しさ」から、自分で、離脱し、これを相対化できる機能をもっていなければ、他の共同体とは共存して生きていけない。
引用:加藤典洋『もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために』(2017)幻戯書房、p.92

かくして、長州藩と薩摩藩は現実の壁(正しくても戦争に負けたら植民地にされるという事実)にぶつかり、内向きの「正しさ」を別の「正しさ」へと転換していく。

明治維新をもたらしたのは、この尊王攘夷思想というテロの思想と、それが「攘夷」から「開国」へと集団的に理屈なしに「乗り換え」られてしまうという、ともに、明治国家という立派なものができてしまうとそれにそぐわないように見える、「ヤバい」“思想”であり、“できごと”だったのです。引用:加藤典洋『もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために』(2017)幻戯書房、p.93

さらに明治の人びとは、この、理屈抜きで「正しさ」がすり替わった過去をなかったことにした。くさいものには蓋をした。「え、あたしは最初っからそう思ってたよ?」という顔を、みんなで、したわけである。いるよねこういう上司

ここで重要なのは、「正しさ」の体験が持つ「身体機制」だと加藤は指摘する(p.101)。明治維新の攘夷思想は、ふつうの人たちの体感から生じた感情だったからこそ、現実の壁にみんなでぶつかり、やがてリベラルな思想へと育っていった本質がある。肉を伴った体験に裏打ちされているのである。しかし、昭和前期の皇国思想は国家の印象操作によって生じたものだったから「ぶつかるべき現実の壁」を持たず、暴走した。日本を「後退国」と呼んだ加藤は、尊王攘夷思想について今こそ光を当てよと警告する。

さらに本書では、2017年に刊行された東浩紀『観光客の哲学』を挙げ、東が提唱する「観光客の哲学」と、加藤自身が説く「尊王攘夷思想ふりかえり」とが、二層構造性の原理において響き合っていると分析している。(手前味噌で恐縮だが、『観光客の哲学』は昨年、街クリ内でも紹介させていただいたので未読の方は参考にして下されば幸いだ。)

意識の上半身と、欲望の下半身。「あれか、これか」という二元論ではなく、二層に分かたれつつも連動しているものを単純化せずに理解する姿勢が、今を生きるわたしたちにとって大きな助けとなるだろう。

 

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