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2017年上半期、小説以外のおすすめ本3選

岡田麻沙 岡田麻沙


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『中動態の世界 意志と責任の考古学』國分功一郎(2017)医学書院

突然だが、「責任を取ってよ」となじられるのが、めっぽう苦手だ。得意な人などいないだろう。そもそも責任とは何なのか。どこから来て、どこへ行くのか。どこかへ行ってほしい。この本には責任の起源が書いてある。

本書は、「(私が歩く、のような)能動態」でも「(私が歩かされている、のような)受動態」でもない「中動態」と呼ばれる「ありかた」について、様々な角度から掘り下げる。

歩くのでもなく、歩かされるのでもなく、「私のもとで歩行が実現されている」ことを示す中動態。この用法は、古典ギリシア語にもサンスクリット語にもある。動詞が「する」と「される」に二分される世界から離れるとき、「責任」や「意志」という概念も、輪郭を変える。「これをやったのは誰ですか」と聞かれても、「やった(能動)」ひとも「させた(受動)」ひともいないのだから、誰にも責任はない、ことになる。

もちろん、ことはそう単純ではない。中動態を濫用して「私のもとでセクハラが実現されている」みたいなことをみんなが言い始めたら大変なことになる。この事実から逆説的に、なぜ今、わたしたちが使っている言葉には「する」と「させられる」しか存在しないのかが見えてくる。

言語の数だけ思考がある、とはよく聞く解釈である。街クリで加藤広大さんが映画評を執筆された映画「メッセージ」も、言語と思考の関係を使った作品だった。テッド・チャンによる原作「あなたの人生の物語」には、こんな一節がある。

だが、言語はコミュニケイションのためだけのものではない。それは行動の一形態でもある。(中略)遂行文においては、言うことはすることに等しい。引用:「あなたの人生の物語」(2003)Kindle版、50%

言語は記号の機能を持つが、記号ではない。ある言葉を失うということは、それについて以前のように考えられなくなるということだからだ。中動態を持たない私たちが、かつての私たちと比べて、何を失ったのか? 「人間は全て受動ではないか」というパワーワードがいきなり飛び出すなど、スリリングな読書体験ができる一冊だ。

 

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