『鳥の会議』山下澄人
『しんせかい』で芥川賞を受賞した筆者が、受賞の前年、2015年に刊行した作品の文庫版。『しんせかい』は比較的ストーリーがはっきりした作品であったが、『鳥の会議』はもう少し起伏がゆるく、その分文章をじっくり味わえる。
山下澄人の文章は、投げ出し方が独特だ。想定しているよりもずいぶん手前の、えっ、と驚くような場所で書くのをやめる。その、そっけなさが癖になる。場面の切り替えも意外性に富んでいるが、とりわけ面白いのは会話文だ。
「ぬるいコーラ飲んだことある?」
長田がいった。
「ある」
神永がいった。
「ある」
三上がいった。
「ある」
ぼくがいった。
引用:山下澄人『鳥の会議』(2015年)河出書房新社、p.20
わたしはこの箇所を初めて読んだときに、手抜きか! と叫んだ。だけどじわじわと良くなってくる。もう一つ会話をひこう。
「仕事やめてどないして、あれすんねん!!」
父が便所から戻ってくるなり母に怒鳴った。あれ、という前、少し間があいた。何かいおうとしたのだろう。
引用:山下澄人『鳥の会議』(2015年)河出書房新社、p.30
このボキャブラリーのなさが生々しい。意味を書くのではなく、場を書いている。「あれ」と投げ出された台詞には、意味の欠落した分だけ、呼吸が宿る。考えてみればなるほど、日常生活の中で、豊富な語彙と潤沢な時間を費やして、正確に意志を伝達できることのほうが珍しい。本当は多くの場面で、「ある」「ある」と同じ言葉を繰り返し、「あれ」と放り投げてよしとしている。
山下澄人の文章を読んでいると、自分が日々、いかに言葉を投げており、それを誰かが受け止めたり受け止めそこねたりしているのかに気付かされる。
『ボラード病』吉村萬壱
2014年に単行本が刊行され、読者を震え上がらせたディストピア小説が文庫化された。物語の最後に鮮やかな反転があるにも関わらず、爽快感とは無縁という、なんとも恐ろしい作品である。
B県海塚市に住む小学生の「私」から見た、一見素朴な語り口によって、物語が進んでいく。「もう二度と、ふるさとを手放したくない」住人たちは、「ふるさとの人たちと共に助け合い、協力し、心を一つにして頑張」ることの大事さを語る・・・。
「みんなは一つ」「結び合い」といった合言葉を唱和するクラスメイトの姿が繰り返し登場するが、口当たりの良さそうなこうした言葉が、序盤からぶっちぎりで怖いなんて、どういうことだろう。逆説的な恐怖の正体は、たとえば買い物のシーンで、こんな風に暴かれる。
野菜コーナーにも肉のコーナーにもお米売り場にも、色とりどりのプレートやポップが沢山掲示してあり、どの商品にもカラフルな「安全シール」や「食品検査合格シール」「安心保障シール」などが、いくつも重ねるように貼られていました。
引用:吉村萬壱『ボラード病』(2014)文藝春秋、p.33
ことさらに「安全」をうたう文字が、背後に「危険」をほのめかすのと同様に、てらいのない少女の口調で語られる「海塚の人々」の、過度に道徳化されたあり様の奥から、不穏な世界が滲んでくる。それがもう、本当に、怖い。勘弁してほしい。
隠すことと暴くこと、健康と不健康、美と醜・・・あらゆる価値観が容赦なく反転させられるとき、読者は読んでいるものを疑い、うろたえながら、起きていることに注意深く目をこらすしか術がない。読後、果てしない無力感に襲われた。でも多分、この脱力からしか、生まれ得ない覚悟がある。
以上、2017年上半期に文庫化された小説から、5作品を紹介した。ボリューム的な問題で紹介しきれなかったが、同時期に文庫化された以下の作品もオススメ。参考にしていただけたら幸いだ。