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「ベイビー・ドライバー」回転する映画、回転する音楽

加藤広大 加藤広大


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ベイビー・ドライバーと音楽嗜好症

本作で重要なテーマと言えば音楽、そしてベイビーが患っている「耳鳴り」についてです。

エドガー・ライトは、ベイビーの疾患の理由を設定する際に、イギリス出身の脳神経科医であるオリヴァー・サックスが著した『音楽嗜好症: 脳神経科医と音楽に憑かれた人々(以下音楽嗜好症と表記)』を参考にしたと語っています。

https://www.machikado-creative.jp/wordpress/wp-content/uploads/2017/08/FullSizeRender-4-e1503527382417.jpg『音楽嗜好症: 脳神経科医と音楽に憑かれた人々』私物

ちなみにオリヴァー・サックスは、ペニー・マーシャルが1990年に監督した映画「レナードの朝」の原作者だと聞くと、ピンとくる方も多いのではないでしょうか。

「音楽嗜好症」には「雷に打たれて蘇生したとたんに音楽を渇望するようになった医師」や「ナポリ民謡を聴くと必ず痙攣を起こす女性」、「フランク・シナトラの歌声が頭から離れずに悩み続けている男性」など、オリヴァー・サックスが実際に接した患者のエピソードがまとめられています。これらを専門的に、時に物語調に綴っていく様子は、ナイトキャップに最適な良書です。

本書では、ベイビーと同じように耳鳴りや音楽幻聴を訴える患者が多く登場します。その聴こえ方は人それぞれで、一定した高い「ファ」の音が聞こえ続ける人もいれば、朝から晩までひっきりなしに歌が聞こえる人もいるなど、程度や症状は十人十色です。

そして、よく知っている曲を聞いたり演奏したり、ラジオやテレビをつけたり、何かに集中することで頭の中の音を「消している」人達がいるとオリヴァー・サックスは語ります。

https://www.machikado-creative.jp/wordpress/wp-content/uploads/2017/08/09dcc55795dd8d95b75979a5d36a444b-e1503527633602.jpg出典:IMDb

ここでひとつの疑問が生まれます。耳鳴りを抱えている人たちは、程度の差こそあれ、多くはそれを嫌い、辛い生活を送っています。それを何とかするために物事に集中したり、音楽を聴くことだったりを、治療薬として自らに処方しています。治療のための音楽、それが無いと生きるのが辛いほどの薬だとしたら、果たして劇中のベイビーは「音楽」のことを好きであると断言できるのでしょうか?

彼の音楽の摂取、処方の仕方は、一種の強迫観念のようなものにも思えます。車を盗むついでに失敬したiPodを大量に保有していたり、「思い出」を録音してサンプリングし、オリジナルの楽曲を作ってみたりと、音楽に対して過剰なまでの思い入れを持っているように見えます。

序盤で強盗チームの一人に「何を聞いているんだ?」と訊かれた時、ベイビーは「音楽」と答えます。これは皮肉ではなく、彼にとって(その瞬間は)音楽は音楽であり、それ以上でもそれ以下でもないことを示します。

そしてニュースの口上や、札束を弾く音、マグカップを置く音、銃撃、全編通して生活音が音楽とシンクロし、単なる音が音楽になる様は、音楽幻聴の兆候と似ています。もちろん、そこに母親の死の影や、単純な日々の悩み事も重なります。

もちろんこれは素人判断のうがった見方ですし、なにせ「ベイビー・ドライバー」は映画です。実際、ベイビーは本当に音楽が好きなんだなというシーンは、今挙げた例以上にありますし、音楽に救われているような場面も多々あります。

あるんですが、どうにも少し引っかかる。このあたりの評価は、未だ私には出せていません。念の為に書きますが、本作はエドガー・ライト印の傑作であると思いますし、音楽に対する愛も感じます。インタビューを読んだり、過去作を観たりすれば一目瞭然で、けれども、もう一度観たら反転してしまう可能性も無いとは言えません。

一見軽快で爽快に見えるこの映画は、意識的だろうが無意識的だろうが関係なく、「音楽やカーチェイスがカッコよくて最高」では済ませられない物件であり(いや、それでも全然いいんですけどね、現に初見の感想は「最高」です)、もっと多角的に語られるべき可能性を持った作品であると思います。

回転する映画、回転する音楽

さて、この映画、とにかく色んな物が回転します。車のホイール、iPodのクリックホイールとHDD、ターンテーブル、カセットテープ、テープレコーダー、コインランドリーの乾燥機、車椅子の車輪、などなど、登場人物をぐるりと周りながら撮られたカットも幾度となく登場します。

それらが、まるで沈んだ太陽がまた昇るように、もう一度、もう一度と繰り返されるのを見るにつけ、ベイビーが回し車で走り続ける鼠のように、決して好転しない「逃走」を繰り返し、再び同じ場所に戻ってしまう様を見るにつけ、映画に通底しているモチーフは回転と循環であると気付かされます。

https://www.machikado-creative.jp/wordpress/wp-content/uploads/2017/08/441b511c22018be1b07143fd89fbab8d-e1503527873525.jpg出典:IMDb

物語の最後、ベイビーは囚われていた回転からついに抜け出しますが、その後に彼が居るのは揺り動かすことのできない堅牢な箱のなかであり、そこで見つめている先には、正方形にかたどられたタイルがあるのみです。

ひとつの回転と循環が終わるとき、そこから抜け出すときには、人はなんらかの代償を払ってカタを付けなければいけません。だけれども、未来はそこまで暗くないのです。また新しい回転のはじまりを示唆して映画は終わりを迎えます。

この回転と循環は映画のなかだけではありません。計算され尽くしたカーチェイスシーンは「ザ・ドライバー」や「ブルース・ブラザーズ」などの偉大なる過去の名作映画から続いてきた回転であり、デボラが持ち出すバールのようなものはゾンビ映画からの循環です。

「ショーン・オブ・ザ・デッド」で使われたクイーンの『Don’t Stop Me Now』はレコードが回転し続けて、本作では『Brighton Rock』へと切り替わりました。ヘッドライトが大写しでつけられるシーンはタランティーノ、エドワード・ヤンからの回転であり、イヤフォンを片方ずつシェアしてデートするシーンも、「はじまりのうた」などの音楽映画からの循環であると言っても言い過ぎではないでしょう。

そして「ベイビー・ドライバー」もまた、数ある傑作音楽映画の一つの形として、その回転と循環にガッチリと組み込まれたはずです。そう遠くない未来に、本作は引用され、誰かに「お、この映画はエドガー・ライトっぽいな」と言われるのです。

この幸せな回転と循環は、誰でも出入り自由です。私たちはどこまでも続き、繰り返されるその輪の中で、素晴らしき映画たちとの出会いと別れを、何度も楽しもうではありませんか。

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